56. 帰国の決意
「……決して、簡単に信用できる人ではないんです。幼い頃から、父は私のことなんてまるっきり見向きもしませんでした。義母に疎まれ、兄姉たちに無視され、私がどんなに寂しい思いをしていても、ずっと見て見ぬふりをしていました。それに、お金のために私を嫌な男に嫁がせようとしたことも」
「……。あなたとあの素敵な旦那様がこれまで一緒に暮らせなかったことと、関係あるのね、きっと。……いいのよ。その辺は無理して話さないで」
「……すみません」
「ままぁ。じゅんびできたよー!」
帰り支度を整えたユーリが、どうだ見てくれといわんばかりに胸を張り、目の前にやって来た。彼と同じ目線にかがみ込み、斜めになっている帽子とめくれ上がっている上着の袖をさり気なく直してやりながら、私はユーリに微笑みかける。
「うん。偉いね。ユーリ、もう少しだけ待っててくれる?」
「あいっ」
ユーリはニパッと笑うと、まだ教室に残っているお友達のところにトテトテと走っていく。その姿を見ながら、私は立ち上がった。
「……そんな父なのに、まるで別人のように、手紙の中は後悔と謝罪の言葉で溢れていました。でも、確かにそれは父の筆跡で。許してくれなくてもいいから、一度だけでも会いたいと。……夫はもう会うべきじゃないと言うんです。私もそれが正しいと思います。せっかくこの王国にやって来て、ユーリを産んで、夫ともこうして一緒にいられるようになって。……正直、まだ問題は山積みなんですが、それでも実家にいた頃とは比べものにもならないほど、今は心穏やかな日々を送っています。わざわざ苦い思いをしに行く必要は、ないですよね」
それに、危険な目に遭うかもしれない。
父の手紙の内容がで全て嘘で、ただ私とユーリをおびき寄せるための餌でしかない可能性の方が大きい気がする。
だけど……。
答えの出ない葛藤を心の中で続けていると、コレット先生があっさりと言った。
「もしも私がレイニーさんと同じ立場なら、一度会いに行ってみるわ」
「えっ? そ、そうですか?」
「ええ」
先生は包み込むような笑みを浮かべて続ける。
「だって、気になって仕方がないのでしょう? お父様の謝罪の気持ちは、本物かもしれない。でも違うかもしれない。もしかしたら、何かの意図があってそんな手紙が送られてきたのかも。……レイニーさんは、知らんぷりはできないのでしょう? 今その手紙をサラリと無視できないでいるのなら、これから先もきっとずっと気にして生きていくことになりそうだもの。あの時自分が会いに行っていたらどうなったのかしら、父は私に会って、どんな言葉をかけてくれていたのかしら、って」
「……。はい……」
「そんなの嫌じゃない? どう転ぶにしても、私なら、一度会ってスッキリさせたいわ。レイニーさんとお父様の確執は、直接会うことで簡単になくなるものではないかもしれない。でも、相手の本心を知ることができれば、そのモヤモヤも晴れるんじゃないかしら。たとえいい方向に事が運ばなくても、思い煩うことはなくなると思うわ。ついでに溜め込んできた自分の気持ちもぶちまけちゃえば、よりスッキリするしね」
「先生……」
「……なんて、口を出しすぎたわね。ごめんなさいレイニーさん」
「……いいえ。ありがとうございます」
申し訳なさそうに笑みを浮かべるコレット先生に、私は静かにお礼を言った。たしかにその通りだ。このまま会わずに無視しても、手紙一つでこんなにも動揺している私だもの、これから先きっとモヤモヤが残ってしまう。
ユーリを連れてあの国に帰るのは、とても不安だけど……。
「もう一度、旦那様とゆっくり話し合ってごらんなさい」
私の心を見透かすように、コレット先生が言った。
「そうします、先生。ありがとうございました」
私は笑顔でそう返し、ユーリを連れて保育園を後にしたのだった。
その夜、ユーリが眠った後のリビングで、私は自分の気持ちをセシルに伝えた。
セシルは目を伏せ、深く息をつく。
「……そう言い出すような気はしていた」
「ごめんね、セシル。頭では分かってるの。行く必要はないって。だけど……、」
言い訳しようとする私を遮るように、セシルがゆっくりと首を振る。
「いや、君の気持ちも分かるよ。家族の問題は根が深い。簡単に割り切ったり、切り捨てたりできるものじゃないよな」
「……でもあなたは、私のために簡単にリグリー侯爵家を切り捨てたわ」
私がそう言うと、セシルはハハッと声を出して笑う。
「そりゃ、ティナかそれ以外の全てのどちらかを選べと言われれば、俺は迷わずティナを選ぶ男だ。他の選択肢なら俺だって悩んださ」
(ま、またそんなことをサラッと言うんだから……)
頬が熱くなり、私はセシルから目を逸らす。そんな私の髪を撫で、セシルが優しい声で言った。
「父君と会って、その本心を直接確かめたいというのなら、そうすればいい。どんな結末になろうとも、君には俺がいる」
「セシル……。ありがとう」
「ただし、君とユーリがレドーラ王国に足を踏み入れるのなら、俺は君たちのそばから一瞬たりとも離れない。だから、シアーズ男爵邸を訪問する時も、当然俺は君のそばにいるよ」
そう言うセシルの瞳は真剣そのもので、私は素直に頷いた。
「ええ。分かったわ」
「片時も離さない。いいね?」
「ええ」
「つまり、俺が王太子宮に出向き、ビクトール王太子殿下と謁見する時も、君たちは俺の隣にいるんだ。別の場所で待たせたりはしない。……分かったな?」
「ええ。……えぇっ!?」
反射的に首肯した後、私は思わず声を上げた。
「ま、待って。……え? 私も、王太子殿下と謁見するってこと……? ユーリも?」
「ああ。そう言っただろう。それが君たちのレドーラ行きの条件だ。元々一緒に帰国するなら、そうするつもりだった」
「そ……」
そんな……。私とユーリが、王太子宮に……?
そんなところに足を踏み入れたことは、いまだかつて一度もない。途端に心臓がバクバクと激しく脈打ちはじめる。
動揺している私を尻目に、セシルがポツリと言った。
「謁見用のドレスを新調しなくてはな、ティナ」




