53. それからの日常
コレット先生のご厚意に甘える機会は、その後何度も訪れた。
私は相変わらず平日は仕事、夜はユーリやセシルと過ごし、休日は可能な限りノエル先生のお宅へと通い詰めた。セシルはセシルで本格的に職探しを始め、週末にだけ時間のとれる友人や知人に会いに行ったりする機会が増えたからだ。
休日の保育園に、初めてセシルと共に挨拶に訪れた時、コレット先生は目を丸くしていた。
「いつも妻子がお世話になっております。お言葉に甘えて息子を預かっていただき、恐縮です」
「まぁ、いいえ。お気になさらず。こちらのことは何も心配いりませんから、どうぞゆっくり用事を済ませてきてくださいね」
セシルがこちらに背を向け、ユーリに「いい子にしているんだぞ」を声をかけている時、コレット先生はすばやく私に耳打ちしたのだった。
「なんて美男子なの、旦那様! ビックリしちゃったわ」
セシルが私のことを「ティナ」と呼ぶので、治療院の同僚たちは当初戸惑っていた。私が「実は私の本名はティナレインで、ティナもレイニーもどちらも私の愛称なんです」と説明することで、どうにか皆を納得させることができた。
ちなみに、セシルがどこでも私のことを「妻」と呼び、ユーリとまとめて「妻子が」などというので、私も面倒な事情は割愛し、皆の前では彼を「夫」と呼ぶことにした。実際はまだ夫婦としての手続きも何も終わっていないのだけど。
初めてセシルが治療院に顔を出して以降、同僚たちの様子が一変した。私の退勤時間が迫ってくると、女性陣がソワソワしながら私のそばにやって来るのだ。
「レ、レイニーさん。その、今日は旦那様は、お迎えにいらっしゃるのかしら?」
「やだ、何よあんた。何を期待してるわけ? 人様の旦那様をいやらしい目で見るんじゃないわよ。んもうっ」
「な、何てこと言うのよ! あたしはただ、レイニーさんの同僚として、丁寧にご挨拶しなきゃなーって思ってるだけよ。別に、一日のご褒美タイムだわぁ〜とか、あの尊い顔面をしっかりと目に焼き付けなくちゃ〜だなんて、微塵も考えてないわよ! あ、あんたこそ、最近いつもより化粧が濃いんじゃないの? 何期待してんだか、まったく」
「は、はぁ!? バカ言わないでよ! ちょっとその……たまには新しいメイク用品でも使ってみようかなって、試しに買ってみただけよ」
「それよりあなたたち最近香水つけてきてるでしょ? ここ治療院なのよ。止めなさいよもう。浮かれちゃって」
「う、浮かれてなんかないわよ!」
そばでわちゃわちゃと言い合っている同僚たちの様子に苦笑していると、ちょうど入り口の扉が開き、セシルが中へと入ってきた。
「迎えに来た、ティナ。……こんにちは皆さん。お疲れ様です」
「ゔ……っ!!」
「くぅ……っ!!」
スラリとした長身に、服の上からでも分かるたくましい体。その上眩しいほどの金髪に、このアメジスト色のキラキラと輝く瞳。完璧に整った顔立ち。
この容姿でこの社交用の満面の笑みを向けられれば、免疫のない女性たちは妙な呻き声も出てしまうだろう。瞬時に気を取り直したらしい彼女らは、やけに体をくねらせながら普段より二オクターブほど高い声で挨拶を返しはじめた。
「こんにちはぁ〜」
「こちらこそ、お世話になっておりますぅ〜」
「今日もいいお天気でしたわねぇ〜」
「お気を付けて帰ってね、レイニーさぁん。うふん」
セシルが私と共に治療院を後にするその瞬間まで、彼女たちの視線はセシルに釘付けなのだった。
時間がある時は、こうしてセシルが私を治療院まで迎えに来てくれて、その後二人でユーリのお迎えに行く。それからアパートに帰り、家族三人の時間をゆっくりと過ごす。これが最近の私たちのルーティーンだった。
その夜、私たちは三人でお風呂に入った。セシルと一緒にお風呂なんて冗談じゃない、恥ずかしすぎて死んでしまうと思い、最初はどんなに誘われても頑なに断っていた。そしてユーリに「今日はパパとママ、どっちとお風呂に入りたい?」と尋ね、ユーリのご指名が入った方が可愛い息子との入浴権を獲得する。そのパターンで落ち着いていたのだが、ある日ユーリが寂しそうな上目遣いをして私に言ったのだ。
『ゆーり、ぱぱとままとしゃんにんでおふろ、はいりたいよぅ』
その一言で、私は恥じらいを捨てたのだった。
「上手くいけば、こちらでも王国騎士団に登用されるかもしれない」
「……えっ? そうなの?」
浴槽の外で髪を洗いながら、私はチラリと薄目を開けてセシルの方を振り返る。セシルとユーリは二人で浴槽に浸かっており、ちょうどユーリがセシルの頭の上に、楽しそうに石けんの泡を乗せているところだった。こんもりと真っ白な泡で頭を包んだセシルが言った。
「ああ。知り合いの高位貴族の令息が、ツテを辿って紹介状を準備してくれそうな人に話を通してくれた。今度その人物と会ってくるよ」
「そう。すごいわ。上手くいくといいわね」
「ああ。王国騎士になれれば給金も破格だからな」
「ふふ。あなたならきっと大丈夫よ、セシル」
「だといいが」
目を閉じて髪を流しながらそんな話をしていると、ユーリが大きな声を出した。
「まま! みて! みて! そふとくりーむ!!」
「え……? ……ふっ」
セシルの頭の上に、本当にソフトクリームのような形の泡が盛られていた。先端がピョンと尖ったそのたまねぎ型の泡が、類稀なる美男子の頭に乗っかっている。それがもう、何だか可笑しくてたまらなくて、私は笑い転げたのだった。
それから数週間後、セシルは一度レドーラ王国に帰国することとなった。知人のツテで会えた人物から本当に王国騎士団への紹介状を書いてもらえることとなり、レドーラの王国騎士団退団の手続きと、ビクトール王太子殿下への挨拶を済ませることになったからだった。
「その紹介状があれば、セレネスティア王国騎士団に採用してもらえるの?」
「いや、実技試験もある。まぁそちらは何も心配していないが。……ティナ、本当にユーリとここに残って待っているつもりか?」
「ええ。仕事も訓練もあるし、あなたがいない間は一人でやっていけるわ。コレット先生やソフィアさんたちもいるしね。心配しないで」
セシルがレドーラに帰っている間、私は一緒には帰らずにここで待っているつもりだった。セシルのそばにいれば何があっても大丈夫だとは思っていても、やはりあの国に足を踏み入れることは躊躇してしまう。シアーズ男爵一家やハーマン・ダルテリオと、万が一にも会いたくはないから。
けれど。
セシルが帰国の準備を始めたタイミングで、私宛に一通の手紙が届いたのだ。
それは母国の父、シアーズ男爵からの手紙だった。