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48. 恥じらうティナ

 夕食を作る時間はなくなり、私たち三人は大通りのレストランへと向かった。思えばユーリを連れてレストランへ行くのも初めてのことだ。セシルは先日二人で行ったレストランに私たちを連れて行くと「急ですまないが、個室は用意できるか」と店員さんに尋ねる。そして運良く奥の個室に通されることとなった。これで多少ユーリがはしゃいでも無作法をしても大丈夫、だけど……


「まさか子連れでこんなレストランに来るなんて……」

「構わないだろう? 俺たち三人の門出の日だ。記念だよ。な? ユーリ」

「……」


 何かにつけユーリにも話しかけ、決して置いてけぼりにしないよう配慮してくれているセシルだけれど、どうやらユーリはそれどころではないらしい。真っ白な壁紙の個室。ズラリと並んだ目の前のカトラリー。高い天井。初めて見るシャンデリア。重厚な額縁に入れられた大きな風景画。全てが彼の視覚を刺激しているのだろう。ポカーンと口を開けたまま首を左右に動かし、周囲に視線を巡らせている。その様子を見て、セシルが愛おしそうに笑った。


「可愛いなぁ、本当に」


 セシルは子どもが食べやすい料理を作ってくれるようオーダーし、それとは別に自分の料理からも取り分けてはユーリの口に運んでいる。ユーリ、これも食べてみるか? ユーリ、この肉は柔らかくて美味しいぞ、あーんしてごらん、などと声をかけながら息子の真横にピタリとくっついて座り、口元を拭いてあげたり料理を小さく切り分けたりしている。私は何もしなくていい。ユーリと一緒だというのに、まるで一人優雅に食事に来たかのように、自分の手元の美しい料理の数々を堪能していた。


(まさかここまで子煩悩な人だったとはね……)


 片時もユーリから目を離さないセシルを見て、思わずクスリと笑ってしまう。こうして向かいの席から見ていると、二人は本当に良く似た顔立ちをしていた。同じ瞳の色をして、仲睦まじく食事をする二人の姿に、言い表せないほどの喜びがじわじわと湧き上がる。こんな日が来るなんて、夢にも思わなかった。セシルがユーリを可愛い可愛いと言って世話してくれて、こうして親子三人で食卓を囲むことになるなんて。今日はちょっと、豪華すぎる食卓だけど。


「……どうした? ティナ」


 私が手を止めてジッと見ていることに気付いたのだろう。セシルがこちらを見て怪訝そうに尋ねる。


「ううん。幸せだなぁって思って。……ありがとう、セシル」


 私を追いかけてきてくれて。

 ユーリと私を、愛してくれて。

 

 私の言葉にセシルはほんの一瞬目を見開くと、穏やかな笑みを見せる。


「……俺の方こそ」


 その笑顔があまりにも素敵で、私の心臓は大きく跳ねた。




 帰宅後、セシルはユーリをお風呂に入れてくれた。そしてその後は私が添い寝をする。これまでとは段違いの大きなベッドに最初はキャアキャアとはしゃいでいたユーリだけれど、横になるよう促して腕の中に抱き、私が背中を優しく擦ってあげると、あっという間に眠ってしまった。いつもと全然違う一日。今日は興奮の連続で、さぞ疲れたことだろう。

 このアパートは前の従業員寮と違って、部屋がいくつもある。ありがたいことに寝室とリビングも完全に別だ。ユーリを寝かせた後はさほど音を気にせず、リビングで片付けもできる。自分もうっかり眠ってしまう前にと、私はすぐに起き上がった。ユーリの頬にキスをしてそっとベッドを抜け出すと、一度振り返り、寝室の扉をそっと閉めて部屋を出た。


「もう寝たのか」


 リビングに戻ると、ソファーに腰かけていたセシルが私に尋ねる。そのソファーも、三人で並んで座ってもまだゆとりがあるほどの大きさだ。


「ええ。一日中はしゃいでいたから。今日はありがとう、セシル」


 私はそう言ってキッチンに向かった。少しでも片付けを始めたいけれど、まずは頑張ってくれたセシルにお茶でも淹れよう。

 彼に背を向け、私はキッチングッズが入った箱の中から茶葉とポットを取り出し、お湯を沸かそうとした。


「セシル、紅茶でいい? 私、あなたに聞いておきたいことが────」


 そう口を開いた、その瞬間。

 突然、背後からセシルの両腕が、私の体を包み込んだ。


「…………っ! セ……セシ、ル……ッ!」

「……ティナ」


 耳元で囁く、セシルの掠れた声。大きな体に抱きすくめられ、硬直する。彼の甘く爽やかな香りが私の全身を包み、やけに蠱惑的に鼻腔をくすぐった。私の心臓はたちまち大きな音を立てて暴れだす。動揺が伝わる恥ずかしさよりも、私と同じように激しく脈打つセシルの鼓動を背中に感じ、強く心が乱されていく。

 セシルは私の髪や耳に、何度も唇を押し当てる。熱い吐息が耳をくすぐり、思わず声が漏れた。


「ん……っ、セ、セシル……」

「……君に触れたい」


 艶めかしく掠れたその声に体がビクリと反応し、私の体温は一気に上がった。


「な、何を言うの」

「……ダメなのか?」

「……。ダメよ」

「なぜだ」


 羞恥心から反射的に拒絶してしまった私を、セシルが追い詰める。


「だ! だって……心の準備が……。ユ、ユーリだっているし」

「ユーリは夜中に目を覚ますのか?」

「そ、そんなことはもう、ないけど……でも……」

「じゃあ大丈夫だろう。……おいで、ティナ」


 私の体を自分の方へ向かせると、セシルは私の手を取った。そしてそのままソファーへ歩き出そうとする。私は慌てて抵抗した。足を踏ん張り、セシルの手から自分の手を引き抜こうともがく。


「は、離してよセシル!」

「……なぜそんなに抵抗するんだ。()()()はあんなに素直に、俺に全てを任せてくれたのに」


(なぜって……は、恥ずかしいからよ!!)


 真っ赤に染まった顔を思いきり逸らしながら、私は頭の中で叫んだ。

 ()()()のことなんて持ち出されても困る。だってあの時のセシルはしたたかに酔っていたし、私はもう二度とこの人と会うことはないと思っていたのだから。これで最後だからと、ハーマンの妻として生きる、これから先の地獄のような人生を生き抜く力を与えてほしいとセシルに縋った。恥じらいなんて感じている余裕はあの時にはなかったのだ。


(でも今は状況が全然違う……っ!!)


 駄々っ子のように足を踏ん張り抵抗する私に、セシルは呆れたようにふう、と息をつくと、いともあっさりと私の体を抱き上げた。


「きゃあっ!」


 物語のお姫様のように横抱きにされた私の目の前には、セシルの王子様のような端正な顔。もう心臓がひっくり返りそう。激しく混乱し動揺する私は、セシルの強い眼差しに視線を捕らえられ、潤んだ瞳で彼を見つめ返した。


「俺に触れられるのが嫌か? ティナ」

「……ち……、ちが……」


 そんなことを悲しげに問われれば、これ以上抵抗することもできない。「観念しなければ」と「でも恥ずかしい」が頭の中でせめぎ合っている私に、セシルが苦笑しながら言った。


「ティナ。一度好きな人の肌を知ってしまって、その後二度と触れられないというのは、結構地獄なんだぞ」

「っ!! な……何を言い出すのよ……っ!!」

「あの夜から、俺がどれほど君とのあの時間を思い出してきたと思う。君に会えなくなってから毎晩、君のことばかり考えていた。触れたくてたまらなくて、狂おしいほど君が恋しくて。何度も何度も夢に見た。……こうしていても、まだ信じられない。今君は、俺の腕の中にいるんだよな」

「……セシル……」


 真摯な想いを語る彼の言葉が、私の胸の中にゆっくりと流れ込んでくる。離れていたこの数年間、セシルがどれほど私を想ってくれていたのかが痛いほど伝わる。同じ想いを抱えていたのだと実感し、そのことがどうしようもなく嬉しい。

 私への愛を語る彼の目を見つめながら、いつの間にか、私の体からはさっきまでの強張りが解けていた。


「ティナ」


 セシルは私のためらいにとどめを刺すように、柔らかな声で囁いた。


「頼むから俺に、もう一度あの夜の幸せを与えてくれ」






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