3. 王都へ……?
(なるほど……知らなかった……。この力が使える人は、皆王都で腕を磨いて働いているのか……)
このセレネスティア王国の南東の街でひっそりと暮らしはじめて、早三年以上。どうりで私と同じような治癒術を使う人を見たことがないわけだ。
治癒術どころか、ここは本当に魔力を持つ人が多く存在する国なのかしらと疑いたくなるほどに、誰も彼もがごく普通の人に見える。私が生まれ育った、西のレドーラ王国同様に。
あの国を出て、隣のこのセレネスティア王国へとやって来た理由はもちろん、彼らから逃げ、ユーリを守りたかったから。けれど、私の産みの母の出身国であるこの国をあえて選んだのは、たとえ誰も知り合いがいないとしても、同じ国の血が流れている人達の近くにいることで少しでも心強さを感じられるのではないかと思ったからだった。そして、この国で暮らしていくことを選んだ私の選択は、間違っていなかったと思う。出会った人たちは皆親切で、おかげで心折れることなく、今日までユーリを育てながら生きぬくことができたから。
けれど……後ろ盾や頼れる親類など一人もいない私の懐は常に寂しく、全力で働いていても日々を生きることは、まるで綱渡りのような心許なさだった。
「しちう、おいちいね、まま」
ハッと我に返ると、テーブルの差し向いに座っているユーリが、私にニパッと笑いかけていた。キラキラと輝くアメジストの瞳とその笑顔を見て、ふいに私の脳裏に、一人の男性の顔がよぎる。
普段は穏やかで優しい彼の、この子と同じ色の瞳。その奥には、常に私への切実なまでの、激しく深い愛情が宿っていたっけ。
『ティナ』
私を愛称で呼ぶ彼の低い声を思い出した途端、胸がギュウッと軋むように痛んだ。
「まま?」
小首をかしげて私を呼ぶ我が子の声に、私も慌てて笑顔を作る。
「……うん。シチュー、本当に美味しいね。アンナさんにありがとうって思ってね、ユーリ」
「うん! あなしゃん、あいがとお」
私の言葉に素直に頷くと、ユーリは握りしめたスプーンで真剣にシチューをすくい上げ、小さな唇を小鳥のくちばしのようにちょこんと尖らせて、ふぅ、ふぅ、とシチューを冷ましては口に運んでいる。その懸命な仕草が可愛くて、頬が緩む。
(……一緒にいてあげられる時間が少なくて、ごめんね、ユーリ)
ユーリを産んで数ヶ月後、私は保育園にこの子を預けてすぐに働きに出た。覚悟していたとはいえ、世間知らずで非力な私なんかに務まる仕事はそうそうなくて、ようやく職にありつけても一つの仕事だけでは生活が苦しかった。結局朝早くから夜遅くまでかけ持ちで働くことになり、ユーリと過ごす時間は、バタバタした朝と、この夜の小一時間だけ。そしてこの後ユーリはすぐにねんねだ。
(……行ってみようかな、王都へ)
ふくふくしたほっぺを動かしながらシチューを咀嚼している我が子の姿を見て、すでに心は傾いていた。私の使える治癒術なんて大したものではないけれど、もしも鍛え上げてより強力な治癒力を身につけることができたなら、もっと割のいい仕事に就くことができるのかもしれない。そうすれば、もっと効率良くお金を稼ぐことができて、ユーリと一緒にいてあげる時間を増やせるかも……。
(よし、いろいろとよく調べてみよう)
母国から遠いこの南東の街で、ユーリと二人ひっそりと暮らしていければ、それでいいと思っていたけれど。
もっと生活力を底上げして可愛い息子と一緒に過ごす時間を増やせるのならば、それに越したことはない。私のこの力が、誰かの役に立てるのなら嬉しいし。
アンナさん特製の美味しいシチューをお腹いっぱい食べた後、ユーリと二人でお風呂に入り、その後ベッドへと直行する。
「まま、てのまくら、して」
「ああ、はいはい。……おいで、ユーリ」
彼のいう“手の枕”とは、腕枕のことだ。私が腕を伸ばすと、ユーリが小さな頭を私の腕の上にちょこんと乗せてくる。愛おしくてたまらず、私はその柔らかい栗色の髪をそっと撫でた。
お気に入りの柔らかい毛布をたぐり寄せ、ユーリがちゅっ、ちゅっ、と指しゃぶりをはじめる。眠くなった時の癖だ。腕の中にしっかりと抱き寄せ、その頭頂部に鼻を埋めてこれでもかと匂いを嗅ぐ。はぁ……幸せ……。全身の疲れが霧散していくような感覚に陥り、私もゆっくりと目を閉じた。
ユーリを寝かしつけたら家の片付けやら何やらしようと思っていたのに、私も一緒になって朝までぐっすり眠ってしまっていた。そして翌朝飛び起き、後悔して頭を抱え、次の瞬間慌ただしくベッドを出る。と同時に死にものぐるいのスピードで、出かける準備と二人分の身支度を整える。これがこの私、レイニー、元ティナレイン・シアーズ男爵令嬢の毎朝のルーティーンだった。