29. セシルの追及
全身の神経がその声に反応し、まるで雷に打たれたかのように心臓が跳ねる。無意識のまま、私はゆっくりと背後を振り返った。
美しいアメジスト色の瞳が、私を捕らえている。
「……セシ……ル……」
私の唇が、自然とその名を紡いだ。
「……久しぶりだな、ティナ」
「……っ、」
グラリと目が回り、私は両足に力を入れた。気を抜くと倒れてしまいそうだった。心臓が早鐘を打つ。なぜ? どうして今ここに、セシルがいるの……?
数ヶ月前に見た厳しい近衛の制服とは違い、今の彼はとてもラフな格好をしていた。これほど目立つ容姿でも、かろうじて街中に溶け込んでいるほどに。ベージュのシャツに濃茶のトラウザーズを履いたセシルは、まるで自分がここにいるのが至極当然のことであるかのように、私を見つめて微笑んでいた。
セシルが私に、一歩近付く。私はゴクリと喉を鳴らした。頭が混乱し、体が熱い。
「……どうして、ここに……?」
「もちろん、君に会うためだ。他に理由なんてあるはずがないだろう? ……会いたかったよ、ティナ。やっと見つけた」
まるで現実ではないような感覚だった。こうして今、自分がセシルと会話を交わしていることが信じられない。
(お……落ち着くのよ、私……)
心臓が狂ったように脈打ち続け、息をするのも苦しい。けれど、私はできる限り平静を装った。浮かれてはダメ。焦ってもダメ。とにかく、状況をしっかりと把握しなくては……。
そして決して、ユーリの存在を悟られないようにしなければ。
「……ああ、本当にティナなんだな。三ヶ月前にこの治療院で君を見た瞬間、幻なんじゃないかと疑った。君を恋しく思うあまり、俺は正気を失ったのかと。まさか君が、ここで治癒術師になるために腕を磨きながら働いていたなんて……」
「……っ、」
「全然知らなかったよ。ティナが治癒術を使えたなんて」
「……ほんの少し、よ。だけど、素質があるとノエル先生が言ってくださったから……頑張っているところなの」
私が掠れる声でそう答えると、セシルの声色が微妙に変わった。
「……ノエル先生、か。院長のエイマー術師のことだな。随分親しげに呼ぶんだな」
「み、皆そう呼んでるわ。気さくな先生だから」
なぜだか私は反射的に、言い訳めいた言葉を口にしていた。
セシルは感情の読めない表情で私をジッと見つめながら、再び口を開く。
「……どうして、俺に何も言わずに国を出たんだ。何度も手紙を出した。……あの夜の後」
(……っ!)
来た。やっぱり、そこに触れてくるわよね。
どんな顔をしていいか分からず、私はセシルから目を逸らした。ユーリの顔が脳裏に浮かぶ。……早くお迎えに行かないと。
けれどこちらの事情など何も知らないセシルは、さらに言葉を続ける。
「あの男と結婚しなかったのは、俺とのことがあったからじゃないのか……? ティナ、聞きたいことが山ほどある。話をしよう」
「……い、今は無理よ。私、この後用事があるから。……また、機会があればね」
そう言って私は踵を返した。このまま逃げおおせられるなんてとても思えないけれど、とにかく今日はセシルと話をしている時間などない。
けれど、私が体の向きを変えた瞬間、セシルの大きな手が私の手をしっかりと摑んだ。
「……っ! は、離して」
「ティナ。今俺から逃げたところで、俺は絶対に引き下がることはない。ようやく君を見つけたんだ。このまま手放すわけがないだろう。俺との会話を拒むのなら、俺はこの治療院に毎日でも通い詰める。君が俺と向き合ってくれるまで、俺は絶対にこの国を離れないし、君を諦めることもない」
(……っ!? ど、どういうこと……? そもそもどうしてセシルは、この王国にいるんだろう。レドーラ王国王太子殿下の近衛をしているんじゃなかったの……? 諦めることはないって、何……?)
一体今、セシルはどういう状況にあるんだろう。こっちだって気になって仕方ない。今後のためにも、ちゃんと互いの状況は理解しておいた方がいい気がする。でも、今は本当に時間がない。ユーリが私を待ってる。
私は苦し紛れの言い訳をはじめた。
「本当に、大事な用があるのよ。……こ、講演会……。高名な治癒術師の方の講演会があって! それを聞きに行くのよ。なかなか予約が取れなくて、やっと今日行けるの。逃すわけにはいかないわ」
私がそう言い募る間も、セシルはアメジスト色の瞳で私のことをジッと見つめ続けていた。まるで私の些細な動揺さえも決して見逃すまいとするかのように。居心地が悪くてつい目を逸らしてしまう。
「……分かった。じゃあ明日また来る」
「っ!? へ、平日は困るわ! 仕事があるし……」
「終わってからならいいだろう」
(無理よ! ユーリのお迎えがあるんだから!)
焦りながらも私は思案し、渋々口を開く。
「……週末ならいいわ。お昼頃に、少しだけなら……」
どうせずっと逃げ回るのは無理だし、一度ちゃんと話をするしかない。
私の返事を聞いたセシルは、少し表情を緩めた。
「分かった。じゃあこの通りを挟んだ、あの白い屋根のカフェで会おう」
「わ、分かったわ」
大通りの向こう側にある、セシルが指差したカフェを確認して、私は頷いた。
「……どこであるんだ? その講演会は。送っていくよ」
「だっ! 大丈夫! すぐ近くなの」
冗談じゃない。送られても着く場所はすぐ裏にある保育園だ。
「……じゃあここから見送るから、行ってくれ」
「ううん! あなたが行って! わ、私は大丈夫だから」
私が頑なにそう言うと、セシルは静かに息をついて「じゃあ、週末に必ず会おう」と言い残し、踵を返した。
通りの向こうに消えていく彼の後ろ姿を見送りながら、しばし呆然とした。本当にセシルだ。人混みの中で頭一つ飛び出た、長身で肩幅の広い彼の背中。今すぐ走り寄り、抱きしめたい衝動にかられる。突っぱねたところで、本当は愛おしくて仕方がない。このまま一緒にいられたら、どんなに幸せだろう。
ついそんな思いが頭をよぎり、慌てて自分の気持ちから目を逸らす。するとふいに、歩いていたセシルが足を止め、こちらを振り返った。
(……?)
遠くからこちらをジッと見つめるセシル。ようやく少し落ち着きはじめていた心臓が、また大きく音を立てた。
セシルが口を開き、何か言葉を紡いだ。
(────っ!?)
『愛してる』
そう言ったように見えたのは、私の錯覚だろうか。