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28. 前触れもなく

 三ヶ月ほどが経ち、私の心もどうにか落ち着き、すっかり日常を取り戻した。レドーラ王国王太子殿下がまだこちらの国に滞在しているはずの数日間は、すぐそばにセシルがいるようでずっと心がふわふわしていた。けれどそれから何日も何週間も経ち、ようやく諦めのようなものがついてきた。

 あの再会は、頑張っている毎日に突然もたらされたご褒美タイムだったんだろう。よかったよかった。セシルは相変わらず格好良かったし、眼福だったわ。でも、もう終わったことよ。気持ちを入れ替えてまた頑張ろうっと。私にはやるべきことが山のようにあるんだから!

 毎日毎日催眠術をかけるように自分にそう言い聞かせているうちに、いつの間にか気持ちが追いついてきたらしい。私はすっかり以前のレイニーに戻っていたのだった。


 その日、いつものようにユーリを保育園に送って治療院に出勤した私は、午前中に訪れた患者の一人を見てげんなりしてしまった。


(……バハロさんだ。また来たの……? 今度は一体何かしら)


 中に入ってくるやいなや、ニヤニヤと嫌な笑みを浮かべ、受付に立っている私の元へと真っ直ぐにやって来る。ため息をつきたいのを堪えて一度目を逸らすと、もう一度彼の方を見た。


「よぉ。レイニー。今日も綺麗だなぁ」

「こんにちはバハロさん。今日はどうされましたか? またどこかお怪我を?」


 見たところどこも怪我なんてなさそうだけどな……と思いつつも一応そう尋ねると、バハロさんは片方の口角をニッと吊り上げ、受付のテーブルに頬杖をついた。


「いや? 別に。今日はあんたを夕食に誘おうと思ってな。顔を出したんだよ」

「…………はい?」


 耳を疑った。夕食? 私を? ……なぜ?

 不審げに見つめる私の視線は気にならないのか、バハロさんは大きな態度で私に言う。


「そろそろ頃合いだと思ってな。あんたと俺も、もう随分長い付き合いになるだろ? 初めて口をきいてから、何ヶ月経つかな。まぁいいや。ここいらでお互いのことももっと深く知り合うべきじゃねぇか? くっちゃべろうとしても、他のヤツらが邪魔してくるもんだからさ、じれったくてしょうがねぇんだよ。今日は何時に上がりだ?」

「…………」


 突っ込みどころ満載だ。長い付き合い? 一体どこが? 私とこの患者さんとは、この治療院で時折会話を交わしたことがあるだけだ。差し入れなら何度か押し付けられたけど、それはあくまで私個人ではなく“職場の皆でいただきます”と言って受け取ってある。それに、互いのことをもっと深く知り合う必要などないし、知り合いたくもない。今日は何時に上がりだ? なんて聞かれても、上がった後でこの人と食事をするとはまだ一言も答えていない。


(……そろそろ強めに拒絶するしかないわね)


 ノエル先生にご迷惑をかけたくはないし、極力波風を立てたくはなかったけれど、先生も理解してくださっている。バハロさんのことで困ったら相談してほしいとも言ってくださったし、もしもこの人の機嫌が悪くなってしまったら、ちゃんと先生に事後報告することにしよう。

 そう判断した私は、きっぱりと言い放った。


「すみませんがバハロさん。私はこの治療院の外であなたと個人的な関わり合いを持つつもりはありません。あなたはあくまで患者さんの一人ですし、あなたに対してそれ以外の感情は、私には一切ないんです。ですから……」

「ゲハハハハ! いいねぇいいねぇ。案外強気なとこもあるじゃねぇか。ますます気に入ったぜ」

「……え? あ、あの……」

「大人しそうな見た目とのギャップが最高だ。あんたみたいなのを屈服させるのをな、男は最高の喜びに感じるもんなんだよ。そうだよなぁ。簡単に靡いちゃつまらねぇもんなぁ」


 バハロさんは何やら一人で納得すると、突然こちらに向かって手を伸ばし、私の横髪を一房手に取った。

 全身にゾワッと鳥肌が立ち、私は反射的に後ずさる。


「や……っ、止めてくださいっ」

「グハハハ。可愛いねぇ。これくらいで恥じらうほどウブなくせに、あえて一度はこの俺を突っぱねておこうってか? なかなかそそる態度だぜ」

 

 ……どういう思考回路をしているんだろうか。私が嫌がっているのも誘いを断るのも、ただのポーズに見えているの……?

 ふと気付くと、彼の後ろに受付待ちのおばあさんが並び、眉をひそめて私たちを見ていた。


「バハロさん、すみませんが、患者さんがお待ちですから」

「へへ。また来るぜ。言っておくけどな、俺はこう見えて案外気が短いんだ。あんまり焦らすようなら、こっちにも考えがあるからな」


 そう言い残し舐めるように私の体に視線を這わせた後、彼は背を向けゆっくりと扉の向こうに消えていった。

 ものすごく嫌な予感だけが残り、私は不安でならなかった。




 夕方、仕事が終わった私は治療院を後にした。ソフィアさんは今日はお昼からだったから、まだ院に残っている。こんな日に限って一人というのがまた心細い……。万が一にも、バハロさんが待ち伏せなんてしていないでしょうね……。

 そう思いながら私はおそるおそる扉を開け、左右に視線を巡らせすばやく確認する。……よ、よし。いないみたい。


(さっさと保育園まで行こう)


 私は通りに出ると、足早に保育園に通じる裏通りの方へ向かおうとした。

 けれど、少し歩いたところで、真後ろから声をかけられた。


「ティナ」


(……え……?)


 バハロさんを警戒していた私だけれど、その穏やかな低い声が彼のものではないことは瞬時に分かった。


 その愛称で私を呼ぶ人が、この王国には一人もいないということも。








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