26. 彼女の声(※sideセシル)
互いの両親を説得する。それが無理ならば、全てを捨てる。だから一緒になってほしいと、俺はティナにそう告げた。
だがティナは俺のその申し出を拒絶した。そしてそれが、俺の将来を思ってのことであるということは分かっていた。
彼女の目には、たしかに俺と同じ想いが宿っていたのだから。
その日のうちに、俺は父に懇願した。ティナを妻に迎えたい。リグリー侯爵家にとってメリットのない結婚と言うのであれば、他に俺にできることは何でもすると。しかし父の目は冷えきっていた。
「寝言も大概にしろ、セシル。貧乏男爵家の不義の娘など、話にもならん。近いうちに王家が王太子殿下の婚約者を決定されるはずだ。グレネル公爵家のご令嬢が選ばれなければ、お前が彼女と婚姻を結ぶのだ。そのためだけにいまだお前の相手を決めずに待っておる。グレネル公爵令嬢が無理でも、他のめぼしい候補者はすでに選定してある。男爵家の妾の娘など……。冗談にしても笑えんぞ」
「……っ、……どうしても認めていただけないのであれば、俺にも考えがあります」
ティナを他の男に渡すことなど、俺だって絶対に受け入れられなかった。ましてや商会の成金爺などが、あの清らかな体に、美しい頬に触れていいはずがなかった。
父は俺の焦りも浅はかな考えもお見通しだった。侮蔑のこもった目で俺をギロリと睨みつけ、脅してきた。
「言っておくが、お前が余計な手出しさえしなければ、その小娘もシアーズ男爵家も、今より裕福で憂いのない生活が送れるようになるのだぞ。貧乏男爵家が小金持ちの商会の男に娘を差し出した理由など、一つしかないだろう。お前が邪魔をすれば、一家はやがて路頭に迷うことになるかもしれんな。その不義の娘は家族から恨まれ、ますます冷遇されることになるのだろう」
「……そんなことにならないよう、俺が────」
「今のお前に一体何ができる。このリグリー侯爵家の後ろ盾を失くせば、お前などただの一文無しの若造だ。私の采配一つで、お前の将来などどうにでもできる。王国騎士団に入る夢など、私の一言で簡単に潰れるぞ」
「……っ! 父上……!」
「その後はどうするつもりだ? 靴磨きかどぶさらいでもしながら、可愛い女を養って生きていくのか? そんなことを、向こうが望んでいるとで思うのか」
俺が自分の想いを貫いてティナを得れば、きっと父はどんな手段を使ってでも俺たちを潰すのだろう。絶望の中、俺は黙り込むしかなかった。
そうして学園を卒業し、無事試験に合格した俺は、望み通り王国騎士団の一員となることができた。そしてそれとほぼ同時に、ナタリア・グレネル公爵令嬢と婚約することが決まったのだった。
卒業後しばらくして、卒業祝賀パーティーが同期の友人宅で行われた。気持ちが荒んでいた俺はやけになって飲み、したたかに酔った。誰に挨拶をすることもなく勝手にその場を去り、気付けば俺は一人フラフラと通りを歩いていた。
その時のことはよく覚えていない。俺が御者に命じ、ティナが退学して以来未練がましく何度かうろついていた、ダルテリオ商会の建物があるその通りまで馬車を走らせたと聞いたのは、後日のことだ。
酩酊し霞のかかった視界に、ふいに愛おしいティナの姿が映った。俺はたまらず縋った。夢でも構わないからと、必死に抑えつけていた自分の想いを夢中で吐露し、その腕を引き寄せ、唇を重ねた。
柔らかな体を抱きしめながらその温もりを感じているうちに、これが夢ではないことを悟った。そして、涙を流しながら俺の背に手を回し、強く縋りついてくるティナの苦しみも察した。
もういい。父に歯向かい全てを失くし、彼女の家族から恨まれようとも、俺はティナを連れて逃げる。周囲にどれほどの迷惑をかけようとも、俺はこの手でティナだけを守る。どこかでゼロから出発して、がむしゃらに働いて、生活が軌道に乗ってから、迷惑をかけた人たちに償っていく。金のためにティナを成金男に差し出したシアーズ男爵夫妻に対しては嫌悪感しかないが、見栄っ張りな彼らが分不相応な貴族学園にティナを入学させてくれたおかげで再会できたんだ。必要とあらば、俺が生涯援助を続けたっていい。そんなことまで頭をよぎっていた。
他の誰にも触れさせたくなかった。早く俺のものにしてしまいたかった。大人しく俺に手を引かれついてくるティナを、近くの宿屋に連れ込み、ベッドにまで誘った。ティナは俺に全てを捧げてくれた。人生で最も幸せな夜だった。
抗いきれない眠りに落ちる寸前まで、俺は腕の中のティナに唇を寄せ、目覚めたら彼女に伝えたい言葉を頭の中で繰り返していた。
愛しているよ、ティナ。俺を信じて、ついてきてくれ。心配しなくていい。何があっても、俺がこの手で君を守っていく。
もう絶対に君を手放さない────
だが目覚めた時、彼女の姿はなかった。朝の光が差し込む部屋の中は、まるで全てが幻想であったかのようにシンと静まり返り、空虚だった。
何度もティナに宛てた手紙を出したが、一度も返事は来なかった。グレネル公爵令嬢との婚約の話はやはり受け入れられないと言い、父との衝突を繰り返す日々の中、俺はついにシアーズ男爵家まで出向いた。
しかし応対したシアーズ男爵夫人は、苛立ちを露わにしてこう言ったのだ。
「あの子なら、数日前に突然姿をくらませましたのよ。私どもも必死で探しておりますの。本当に……信じられないわ。ハーマン殿がようやく昨日帰国したというのに。数日後には結婚の書面を交わす予定ですのよ。契約だってあるのに……あの恩知らず……! 一体どこへ逃げたのかしら……」
後半はもはや夫人の独り言だった。指を噛みながら顔を醜く歪め、呪詛のような言葉を吐き続けるシアーズ男爵夫人。その顔を呆然と見つめた俺は、その場に崩れ落ちそうだった。
どれだけ探しても、ティナの行方は摑めなかった。そしてそれから、三年以上の月日が経った。
嫌々ながら縁を結んだナタリアとは、依然として婚約者同士のままだ。俺も嫌だが、向こうもまだ夫婦になることを拒んでいるらしい。俺は腕を振るって順調に出世し、気付けば王太子殿下の近衛騎士にまで抜擢されていた。そして先日、殿下が隣国セレネスティアを視察する際にも同行し、治癒術による治療を施す治療院を視察した際にも、当然俺は殿下のそばにいた。
王都ビスリーで最も大きな治療院である、そのエイマー治療院。そこの院長であるエイマー氏が、ふいに彼女を呼んだ。
「レイニーさん、いますか?」
「は、はいっ」
殿下の背後に立ったまま、元気よく答えるその声を聞いた瞬間、俺の全身を衝撃が貫いた。指先までビリッと反応し、心臓がけたたましいほどに騒ぎ出す。
鼓膜を揺らすほど激しい鼓動の中、俺はカーテンの向こうを凝視していた。ふわりとそのカーテンを動かし現れたその人は、間違いなく俺のティナだった。
彼女はエイマー氏に資料を渡すと、顔を上げ、ゆっくりとこちらを向いた。
目が合った瞬間、互いの時が止まった。