15. 出勤初日
三日間フルに動いて、私は新生活の準備を整えた。日々の生活に必要なものはほとんど揃ったし、保育園側の許可をいただいて、合間にユーリを毎日小一時間ずつ預けて新しい環境に慣らしていった。同い年くらいの子たちの中に交じっておもちゃで遊んでいる息子の姿を見て、少しホッとした。この子はどこに行ってもわりと上手く馴染んでくれるタイプだ。
そしてついに、エイマー治療院での私の新しい仕事が始まったのだった。
「今日からよろしくお願いいたします!」
朝ユーリを保育園に預けてからエイマー先生のところへ行き、最初が肝心とばかりに元気よく挨拶をすると、先生はニコリと微笑んだ。
「ええ。こちらこそ。畏まらなくていいですよ。ここの従業員は皆私のことをノエルと呼びますので、レイニーさんもぜひそう呼んでください」
「は、はい。ありがとうございます、ノエル先生」
私が答えると、ノエル先生はまた微笑んだ。その悪意の欠片もない自然な笑顔は、緊張している私の心をほわっと解いてくれるようだった。
先生は朝礼で集まった従業員の皆さんに私を紹介し、その中の一人の女性を呼んだ。
「こちらは先日レイニーさんを寮などに案内してくれた人なので、覚えていらっしゃると思います。これからは主に彼女から仕事を習ってくださいね」
「ソフィアです。よろしくねレイニーさん」
赤みの強いストロベリーブロンドをポニーテールにした彼女は、私よりはいくつか年上に見えた。
「よろしくお願いします、ソフィアさん」
明るい笑顔の彼女に負けないよう、私も満面の笑みで返事をした。
このエイマー治療院で治療に当たる術師は、ノエル先生の他に常時十人前後いるとのこと。夜も夜勤の先生が数人待機しているらしい。やはり大きな治療院だけあって、規模が大きい。
勤務時間は朝から夕方まで、昼から夕方か夜まで、そして夜勤と三パターンあり、私やソフィアさんのように小さな子どもがいる人は朝や昼からの勤務時間を選ばせてもらえるようだ。本当に、いろいろとありがたい。
「元々はノエル先生が、王都の外れで一人で細々とやっていらしたそうなのよ。腕が良くて評判でね。王宮からも何度もお声がかかっていたそうなんだけど、ノエル先生が、“必要とあればいつでも出向くが、王宮にはすでに腕の良い治癒術師が何人もいる。私は市井に留まり、より大勢の人を救いたいから”って言って、お断りしているそうよ」
「そうなんですかっ? だけど、王宮勤めになれば……」
「ええ。お給金も破格のはずよ。でもノエル先生は、市井の人々の役に立つ道を選んだみたい。本当にすごい方よね。尊敬しちゃうわ」
「……私もです……」
少しでも多くのお金を稼ぎたい今の私にとっては、考えられない。高給取りの王宮勤めを断ってまで市井に残ったノエル先生が、天使のように思えた。なんて素晴らしい方なのだろうか。
治療院の廊下を歩きながらソフィアさんの話を聞き、ますますあのノエル・エイマー先生に対して尊敬の念が湧き上がった。
「ま、そんな感じで民間の人たちのために細々やってた先生だけど、治癒術の力が本当に素晴らしいものだから。評判は瞬く間に国中に広まって、患者さんもどんどん増えたの。そして今では、こうして王都の一等地にこんなにも大きな治療院を開くことになったってわけ」
「本当にすごい先生なんですね……! 真っ先にここを訪れてよかったです」
私がそう答えると、ソフィアさんはコクコクと頷いた。
「そうね。あんなに才能と実力がある方なのに驕ったところがなくて、いつも謙虚で優しくて。独身なのが不思議なくらいよ」
「へぇ……。独身なんですね、ノエル先生」
「そうなのよー。でもモテモテなのよ」
「あ、やっぱり。そんな気がしてました。ふふ」
そんな他愛もない話までしながら、ソフィアさんは「このフロアが全部診察室で、こっちは先生方の休憩室で……」と、逐一説明を続けてくれる。
「ところでソフィアさんも、治癒術師の資格を取ることを目指していらっしゃるんですか?」
私が尋ねると、彼女は首を横に振った。
「いいえ。私は魔力とかまるっきりないの。ただ下働きの仕事がしたくて面接に来たのよ。ここが新しく建った時に募集してたんだけど、お給金が良くてね。うち、夫がわりと安月給でさー」
「な、なるほど……」
「レイニーさんは治癒術師を目指しているのよね。すごいわ。頑張ってね」
「はいっ。ありがとうございます」
屈託のない笑顔とサバサバした雰囲気のソフィアさんにホッとする。この人とは仲良くやっていけそうだ。
お昼の休憩を挟みながら、その日は様々な説明を受けつつ、私も見様見真似で仕事をした。訪れる患者さんたちの応対に、診察室への案内。お会計や、施設内の掃除や備品の在庫管理。一度の治癒術では完全に治せないほどひどい怪我を負った人が訪れた時は、入院になることもある。その方たちのお世話や食事の配膳などなど……、仕事内容は想像以上に多岐に渡った。
そして迎えた夕方。初日の緊張感で心身共にグッタリと疲れてはいたけれど、それはとても心地良い疲労感だった。思っていた通り雰囲気の良い職場だったし、仕事もこなしていけそう。働いている人たちはいい人ばかりだし、環境には恵まれていた。
治癒院を後にし、同じ時間に上がれたソフィアさんと共に、徒歩数分の保育園へと足取り軽く向かう。久しぶりに長い時間離れた息子の様子はどうだろうかとドキドキしながら教室を覗いてみると、ユーリは同じ年頃と思われる女の子と二人で、ぬいぐるみを手にキャッキャとはしゃいでいた。
「ユーリ! ただいまー」
「っ! まま!」
こちらを振り返りパッと明るい顔をしたユーリに、胸がキュンとする。十時間ぶりに見る我が子の姿がたまらなく愛おしい。本当は一目散に駆け寄っていってムギューッと抱きしめ、そのふくふくほっぺに思いっきりスリスリしてキスしたいところだけれど、さすがに人前では憚られる。すると隣にいたソフィアさんが、ユーリと一緒に遊んでいた女の子に向かって思いっきり両手を広げた。
「ララ! ララー! ママよ! ママがお迎えに来たわよぉ~! あーん、おいで! 私の可愛いララちゃぁーん!」
「あっ! まま」
幼子二人は立ち上がると、それぞれの母の元にトテトテと駆けてくる。
そばにやって来たユーリの目線にしゃがみ込み抱きしめていると、落ち着いた雰囲気の保育士さんが話しかけてきてくれた。
「ユーリくん、一日中お利口さんにしていましたよ。お給食も全部食べたし、お友達とも仲良くしていました」
「本当ですか? よかったです。ありがとうございました、先生」
私がそう返事をすると、保育士さんはニコッと笑ってくれた。ノエル先生と同年代くらいだろうか。若い保育士さんばかりではなく、少し上の年代の保育士さんもいるというのがまたいいな。この小規模な保育園自体が家族のような雰囲気で、なんとなく安心感がある。
彼女が言った。
「そちらのオレンジ色の短い髪の女の子、ララちゃんっていうんですが、特にララちゃんとは気が合うみたいで。さっきから二人で楽しそうに遊んでいましたよ」
「あ、そうなんですね」
ソフィアさんのところのお嬢さん、ララちゃんと仲良くなったのか、よかった。そう思いながら私が二人の方を振り返って見上げると……。
「あぁぁ可愛いぃぃ! 私の世界一可愛い娘! やっと会えたわ私の天使ちゃん! 会いたかったぁ! 今日は何して遊んだの? ん? ほら、ママにチューして、チュー。チューは?」
治療院にいる時とは別人のようなソフィアさんが、ララちゃんを抱き上げてそのほっぺにすりすりしたり、チュパチュパしたりしている。すごい勢いだ。ララちゃんは慣れているのか、そんな母の顎を淡々とした表情でグイーッと押し戻しながら、こちらを指差して言う。
「きょうはねー、あのことなかよくなったの。ゆーりくん。らら、ゆーりくん、しゅき」
「んまぁぁぁ! よかったわねララ! よかったわね! ああん可愛い可愛い私のララ~~!」
「…………」
怒涛の勢いに圧倒され唇の端がヒクッとなったが、娘を溺愛するソフィアさんは本当にいい人そうで、幸せそうなその様子に私はつい笑ってしまった。
ユーリはそんなソフィアさんを見上げ、あ然として固まっていたのだった。