13. 過去 ── 苦しみの日々
ダルテリオ商会会長であるハーマンとはその後すぐに婚約し、結婚は私が十八になってからとの契約がなされた。その理由は、この頃ちょうどハーマンが新規事業開拓や海外進出を目論み、他国への視察に出向くことなどが多かったから。不在がちな今よりも落ち着いてからの方がいいだろうし、何よりもまずは私に商会の仕事を覚えさせなくてはならない。
……というのは、おそらく表向きの理由だろう。世間体を気にするあの父のことだ、「メイドとの間にできた不義の子を弱冠十六歳で、ましてや妻との間の上二人よりも先に結婚させてしまっては、いかにも厄介払いのように見えて外聞が悪い」などの計算が頭をよぎったからに違いない。
結婚までのおよそ一年半の間、私は商会の仕事について猛勉強させられることとなった。
「ふへへ……、お前を妻に迎える日が楽しみでたまらんよ、ティナレインや。お前は本当に可愛い。こんな若くて綺麗な後妻を迎えることになるとはな。金は持って損はないわい」
勉強のために商会へ出向くたびに、ハーマンはいそいそと私のそばに寄ってきてはそう囁き、私の肩や腰をねっとりと撫で回した。生理的な嫌悪感で鳥肌が立ち、思わずその手を避けてしまう。するとハーマンはたちまち不機嫌になった。
「……なんだその態度は。え? お前、自分がいくらで買ってもらえたか分かっておるのか。儂と結婚することで、お前の実家であるあの貧乏男爵家にどれだけの恩恵があるか、分かっておるのかと聞いとるんだ。え!?」
さっきまでのニヤニヤ笑いもどこへやら、突然私の頭にゲンコツを振り下ろし、ハーマンが怒鳴った。周りにいる従業員たちがチラチラとこちらに視線を送っている。
「……申し訳ありません」
屈辱を堪え、私が小さな声で謝ると、ハーマンはフンと鼻を鳴らした。
「……まぁいい。そういう年頃だろう。籍さえ入れてしまえば、その夜のうちにお前の体にしっかり叩き込んでやるさ。夫に仕えるというのがどういうことかをな」
恥ずかしげもなくそんなことを言いながら、ハーマンはグヘヘと笑い、去っていった。指先が小刻みに震え、視界が涙で滲んだ。
夕方過ぎに屋敷に戻り、その後家族との食事の時間が始まる。話をするのはいつも父と義母、兄のアレクサンダーと姉のマリアローザだけだった。私が口を開くことも、誰かが私に話しかけることもない。その日は兄の卒業を父が祝った。
「無事に卒業できて良かったな、アレク。おめでとう」
「ありがとうございます、父上」
「留年なんてしなくて良かったわ。あそこの学費は高いから。学んだことを活かして、今後はしっかりと領地経営で腕を振るってちょうだいねアレク」
母が嬉しそうにそう口を挟んだ。兄が卒業したということは、同学年のセシルも卒業したんだろうな。私がそんなことを考えながらスープを口に運んでいると、姉のマリアローザが言った。
「お兄様、首席で卒業なさったリグリー侯爵家のセシル様って、王国騎士団に入られるのでしょう? すごいわよね」
まるで私の心を見透かしたかのように突然その名が出て、心臓が痛いほど跳ねた。久しぶりに聞いた初恋の人の名前に手が震え、もう食事も喉を通らなくなる。一度激しくなった鼓動はなかなか治まらず、私は静かに深呼吸した。
兄は頷き、語りはじめる。
「ああ。在学中、一度も学年一位の座を譲らなかったそうだからな。各科目の試験も、騎士科の実技試験も。ま、高位貴族側のことは全部人から聞いただけだから、よく知らんが」
「すごいわよねぇ。何度か学園内でお見かけしたけど、見るたびにうっとりしたわぁ。セシル様はもう子どもの頃のようにお茶会の席にお顔を出されることもなくなっていたから、たまに見かけると胸がときめいちゃって! 物語から飛び出してきた王子様みたいな容姿なんですもの。女子生徒たちは皆彼に憧れていたのよ。お顔が見られなくなるなんて、残念だわぁ」
マリアローザのその言葉に、義母がクスリと笑う。
「幼少の頃から綺麗なお顔立ちをしていらっしゃったものね。先日の茶会で噂になっていたわ。セシル様、グレネル公爵家のナタリア嬢と婚約なさるそうよ。今度リグリー侯爵夫人とお会いしたら、お祝いを申し上げなくては」
(────っ!!)
義母のその言葉に、頭を重厚な鈍器で思いきり殴られたような衝撃を受けた。
(セシルが……婚約……。グレネル公爵令嬢と……)
ああ、やっぱり高位貴族のご令嬢と婚約するのね、という冷静な気持ちよりも、受け止めきれないほどの大きなショックが勝り、取り繕うこともできない。きっと今の私は、真っ青な顔をしていることだろう。けれど、家族四人は誰一人私のことなど見ていないから、誰からも追及されることはなかった。
姉のマリアローザが大きな声を上げる。
「まぁっ、グレネル公爵家のご令嬢と!? すごいわ! あのセシル様の妻になれるだなんて、羨ましい。 ……でもグレネル公爵令嬢って、王家に嫁ぐご予定ではなかったの?」
「王太子殿下がナタリア嬢と相性が悪かったのでしょうね。筆頭公爵家のご令嬢だからきっとご婚約が決まると思っていたけれど、結局王太子殿下はピアソン公爵家のご令嬢をお選びになったようよ。第二王子殿下はウィルター王国の王女ととうにご婚約なさっているし、第三王子殿下はお体が弱く、それどころではないみたいね。今も離宮で静養中だそうよ」
「まぁ。そうなの。でもいいじゃないの! お相手はあのセシル様なのよ!? 王家でなくても全然構わないわ、私なら」
「この子ったら。はしたないからお止しなさいな。よその殿方に対してキャアキャアと」
……義母とマリアローザの話を聞いているうちに、気持ちが悪くなってきた。もう水さえも喉を通りそうにない。先に部屋に戻ろう。横になりたい。
私は静かに立ち上がり、自分の部屋に戻ろうとした。その時。
「ティナ」
さっきからほとんど口を開いていなかった父が、突然私に声をかけてきた。驚いて振り返ると、父は私をジッと見つめていた。何を言われるのだろうと、心臓が再び早鐘を打つ。もしかしたら……ハーマンとのことを気にしてくれているのだろうか。会長とはどうだ、上手くやれそうかなどと聞いてくれたら、一度相談してみようか。あの人の言動が、私の心を抉っていることを……。
そんな淡い期待を持ち、私は父の次の言葉を待った。けれど父の口から放たれた言葉は、そんな私のかすかな期待など粉々に打ち砕いてしまった。
「ハーマン殿のご機嫌を損ねるようなことはしていないだろうな。仕事はきちんと覚えていっているのか」
「……。……はい」
失望した私が小さな声で答えると、父は小さく頷いた。
「ならばいい。……しくじるなよ」
それだけ言うと、父は私から目を逸らし、目の前の料理にナイフを入れはじめた。
父と一緒になってこちらを見ていた他の三人も、興味を失ったかのように私から視線を外し、再び会話をはじめた。
重りがついたような体を引きずり、私はどうにか自分の部屋まで戻ると、そのままベッドに倒れ込んだのだった。