表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

12/77

12. 過去 ── 二度目の別れ

 私とセシルが学園で話していることが、アレクサンダーやマリアローザから義母の耳に入り、強い叱責を受けるのではないか。そう考え、また、セシルの将来のためにも私との妙な噂など立たない方が絶対にいいに決まっていると、私は何度もそばにやって来るセシルに冷たい態度をとり続けた。

 けれど、私の心配は杞憂に終わった。

 入学から半年、私はある日突然、父から退学を命じられたのだ。父に呼び出された応接間には、義母もいた。そしてもう一人、見たことのない中年の男性も。でっぷりと太った頭頂部の薄いその男は、ギラギラと光る派手な指輪を着けた芋虫のような指先で自分の二重顎を撫でながら、応接間に入ってきた私の全身を舐めるようにジロジロと見ていた。


「な、なぜですか、お父様……」


 一瞬、セシルと私が接触していることがバレてしまったのだろうかと思った。けれど、退学の理由はそんなことではなかった。


「……ここにおられるダルテリオ商会の会長ハーマン殿に、お前を嫁がせることが決まった」


 父は私から目を逸らすと、ポツリとそう言った。一瞬にして、私の頭は真っ白になる。


「……え」

「会長殿はね、婚約後は一日でも早く商会の仕事を覚えるために、お前にご自分の会社に通ってほしいと。そう仰っているのよ。もう高い学費を払ってまでわざわざお前を貴族学園に通わせる理由はなくなったというわけ。あの学園は、商会の奥方には不要な授業ばかりですものね」


 義母が満足げにそう説明する間、目の前の太った中年男は、私の頭のてっぺんから足元にまで何度も視線を這わせていた。そして私の胸元をジーッと見つめると、ニチャァと下卑た笑いを浮かべた。


「……いいねぇ。お話通りの別嬪じゃないですか。肌艶も良くて、健康そうだ。こりゃ楽しみですなぁ」

「では、会長……」

「ええ、ええ。この子ならば喜んで後妻として貰い受けますよ。取引成立、ってところですな。ダハハハハ」

「まぁっ、ようございました。娘をよろしくお願いいたしますわ」

「会長、では契約に関してですが……」


 父と母が嬉々としてダルテリオ商会の会長と話を続けている間、私はその場に呆然と突っ立ったまま一歩も動けなかった。


(私は……こんな男の妻になるの……?)


 両親と話している品のない成金男を見て察した。世間体を気にし見栄ばかり張る両親だが、このシアーズ男爵家は決して裕福ではない。私は金のために、この中年男に嫁がされるのだ。

 目の前が真っ暗になった。




「寂しくなるわ、ティナ。せっかくお友達になれたのに……」

「ね、お手紙を書いてね。私も書くわ」

「ええ……。ありがとう、皆」


 それからたった数日後。午前中のうちに今日の日付けで退学手続きを済ませた私は、最後の授業を受け、何人かの友人たちと教室で別れの挨拶を交わした。気持ちは重く沈み、今にも涙がこぼれそうだった。

 皆が帰った後も一人教室に残り、ぼうっとしたまま見るともなしに、教室の中を見ていた。

 勉強することが楽しかった。屋敷に帰れば誰も私に見向きもしないけれど、ここではお喋りしてくれる友人たちもできた。それに、親しくすることは許されなくても、会いに来てくれるセシルの姿を見ることが、本当はすごく、すごく幸せだった。

 それなのに、今日で全部終わり。明日から私は、あのいやらしい目つきの中年男の妻となるために、商会に通わなければならない。

 少しも好きではない、嫌悪感しか抱けないあの男の妻となるために────


(……。……帰らなきゃね)


 気力を振り絞って立ち上がり、名残惜しい教室を去ろうとした、その時だった。


「……ティナ!!」

「っ!」


 当然飛び込んできたその人に、心臓が止まるかと思った。それが愛しい彼であると気付いた途端、切なさで胸がいっぱいになる。


「……セシル……」

「さっき……君の兄が話しているのを聞いた。どういうことだ、ティナ! 退学すると……今日で最後だと。なぜだ……?」


 セシルは切羽詰まった表情で私に歩み寄り、その大きな手で私の両肩を摑む。こんな時だというのに、セシルに触れられたことで私の心臓は大きく跳ね、頬が熱くなった。


「……婚約が、決まったんです。ダルテリオ商会の、会長と……。もう、ここに通う必要はないからと、両親が」

「……なんだって……」


 私の言葉を聞いたセシルの両手から、一瞬にして力が抜けた。両手をダラリと下ろした彼の、その呆然とした表情は、こちらの胸が痛くなるほどの失意に満ちていた。

 

「……嫌だ。ダメだ、ティナ。他の男と、結婚など……」

「……再会できて、嬉しかったです、セシル。何度も会いに来てくれて、ありがとう」


 これくらいは、伝えても許されるはず。

 もう最後なんだから。きっともう、今後こそセシルとは二度と会えないだろうから。

 想いを伝えることは許されなくても、せめて感謝の気持ちくらいは伝えておきたかった。


「俺は……絶対に受け入れられない」

「……子どもの頃から、あなただけが私に優しかった。それがどれほど……私の心の支えになっていたか……」


 視界が揺らぐ。堪えることのできない涙が、私の頬を一筋伝った。


「わ、私も、セシルのことを忘れたことなんてなかった。だから本当は、ここであなたに再会できて、とても嬉しかったんです。あなたは私の……誰よりも大切な、()()だから」

「……本当に、それだけなのか、ティナ」


 セシルの手が私の手をとり、そしてもう片方の手が私の顎に触れ、私の顔を持ち上げた。

 切実な色を帯びたアメジストの瞳が、私のことをジッと見つめている。


「ティナ、俺は君を愛している。もう子どもの頃の、あの恋か友情か分からないような、曖昧な感情なんかじゃない。十年経っても忘れられなかった君の優しさや健気さを、その美しさを、俺は狂おしいほどに愛しているんだ。他の女など、俺には生涯考えられない」

「……っ、」


 その真剣さに圧倒され、私はセシルの瞳を見つめ返したまま身動き一つとれなくなった。目の前の広い胸に、思わずこの身を預けてしまいたくなる。それができれば、どれほど幸せだろう。

 彼の熱く滾る想いは、私から冷静な思考を奪っていきそうだった。


「ティナ、俺が両親に話をつける。君を妻に迎えたいと。君のご両親にも、俺から願い出る。両親を説得するまで待ってほしいと。だから……」

「っ!! ダ、ダメですそんな……!」


 セシルのその言葉に、私はハッと我に返った。冗談じゃない。そんなこと絶対に許されるはずがないし、また双方の間に波風を立てて終わるだけだ。セシルにとっても、マイナスにしかならない。


「あなたはリグリー侯爵家のご子息で、私は裕福でもない男爵家の末娘です。あなたにとってもリグリー侯爵家にとっても、何のメリットもないわ」

「どうしても許しが出なければ、俺は家を捨てる」

「な……っ」


 あっさりとそんなことを言うセシルに、私は驚いて言葉を失う。


「俺は次男だ。家督はどうせ兄が継ぐ。君との結婚を認めてもらえないのならば、全てを捨てて君だけを選ぶよ」

「そ……そんなこと……! あなたが苦労するだけだわ。大切な人たちや恵まれた環境の全てを失うことに……」

「構わない。何もいらない。ティナ、俺にとって一番大切なのは君なんだ。君さえ得られるのならば、それ以外の全てを失っても後悔はない」

 

 一切揺らぐことのないセシルの言葉とその視線の強さに、私は怯えた。この人は本気だ。本気で私のために、全てを捨ててしまうかもしれない。


「君は……君の気持ちはどうだ、ティナ。君の本心を、教えてくれ」


 セシルは容赦なく私に詰め寄る。その真摯な光を宿したアメジストの瞳を見つめ返し、ほんの一瞬、私の心は揺れた。


「ご家族との関係を、ギクシャクさせてしまうかもしれない。それが君に、精神的な負担を強いることになるのかもしれない。それでも……俺と一緒にいる道を君が選んでくれるのなら、俺は生涯、君を全力で守っていく。どこぞの商会の成金なんかよりも、俺の方が絶対に君を幸せにできる。ティナ、頼むから聞かせてくれ。俺の欲しい言葉を」

「……っ、……セシル……」


 きっともう二度と、こんな気持ちになることはない。

 一人の男性を、こんなに愛おしく想うことなど、もう二度とない。

 そして、こんなに強く愛されることも。

 それでも私は、覚悟を決めることなどできなかった。

 私を愛してくれない家族との関係などどうでもいい。ただ、リグリー侯爵家の子息として約束された輝かしい未来を、セシルから奪ってしまう覚悟だけは、どうしても持てなかった。

 胸に強い痛みを覚えながらも、私は気力を振り絞って答えた。


「……絶対に、嫌です。私は、父や義母に決められた人と結婚するわ。あ、あなたと恋仲になって、身の程知らずだと周囲から陰口を叩かれるのなんてごめんよ。あなたのご両親に恨まれるのも、嫌。私は……自分に見合った人と添い遂げて、自分に合った、平凡な人生を送る。……それでいいの」

「……じゃあどうして、君は泣いているんだ」


 苦しげな顔をしてそう言ったセシルは、私の頬をそっと拭ってくれた。私の本心は、きっととうに見抜かれているのだろう。

 でも絶対に、それを認めるわけにはいかなかった。


「……お別れよ。さようならセシル。もう私のことは忘れて」

「ティナ……!」


 彼の手を振りほどき、私は教室から走り去った。そしてそのまま振り返ることなく馬車までたどり着き、学園を後にしたのだった。

 退学の手続きなどで遅くなるかもしれないと、兄たちと違う馬車で来ていたのはよかった。こんなひどい泣き顔を、誰にも見られずに済んだから。


 屋敷に着くまでの間、私は馬車の中でむせび泣いた。呼吸ができなくなるほど泣き続けた。愛する人の最後の顔を思い浮かべながら、悲しくて苦しくて、胸が潰れてしまいそうだった。






評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ