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1. “レイニー”の日常

(遅くなった……遅くなっちゃった……!)


 日が沈む頃、ようやく保育園にようやく辿り着いた私は、息を切らせて息子のいる教室を目指す。


「すみません! ご迷惑おかけしましたー!」

「っ! ままぁ!」


 教室に飛び込んだ途端、まん丸いアメジスト色の瞳をした息子が私の方を振り返り、プリッとお尻を突き出してモタモタと立ち上がる。そして短いあんよでこちらへ向かって駆けてきた。この瞬間が、一日のうちで一番幸せ。


「ユーリ! ただいま~! 遅くなっちゃって本当にごめんね」


 すばやく身をかがめ両手を広げた私は、彼なりの全力突進をしかと受け止め、抱きしめた。ああ、ミルクみたいなこの甘い匂い……幸せ。保育園独特の匂いも混じってるけど、それもまたいい……。


「お疲れ様でした、お母さん」


 約束のお迎え時間を二十分も過ぎてしまったにも関わらず、若い保育士さんは嫌な顔ひとつせずに私を迎えてくれた。一日中働いてヘロヘロになった体に、その優しさが染み渡る。


「まま、おかえりなしゃーい」


 抱き上げた息子の可愛らしい声を聞きながら、私は何度も先生に頭を下げて保育園を後にした。




(今月も保育園の延長料金、かさむなぁ。月謝とトータルでいくらになるだろう。ほぼ毎日三十分延長してるし、先月と同じくらいかな……。あ、そういえば家賃もちょっと上がるって言ってたっけ……。はぁ……)


 もうすぐ三歳になる息子の小さな手を引き、薄暗い道を歩きながら、頭の中はお金のやりくりのことでいっぱいだった。分かっていた。産む前からしっかりと覚悟していた。私は全てを捨てて、この子と二人きりで生きる道を選んだのだから。もう私は、貴族の娘じゃない。嫌われていたけど、少しも可愛がられてはいなかったけれど、それでも黙っていれば日々の食事や着るものは与えられていた。命を繋ぐことに苦労などしなかったあの生活を、私は捨てたのだ。この子を育てていくために、私は誰にも頼らず自分の力だけでお金を稼ぎ続けなくてはならない。この子が大人になり、自活できるようになるその日まで、私がこの子を守るんだ。

 ユーリのためなら何でもできる。その気持ちは微塵も揺らがない。


(だけど……さすがに足がパンパンだわぁ……)


 今日もカフェの給仕と宿屋の清掃の仕事をかけ持ちしてきた私は、心底疲れ果てていた。

 けれど。


「あのね、まま。きょうね、しぇんしぇいとね、おえかきちたの」

「へぇ! そうなの? 何の絵を描いたの? ママ見たいなー」


 ユーリのこの可愛い声を聞くだけで体がシャキンッとなり、自然と頬が緩むのだから、我が子の癒しパワーはすごい。ユーリは小さな歩幅でテトテトと歩きながら、私を見上げて一生懸命話しかけてくる。


「えっとね、あのね、ままのえをかいてゆの。でもまだ、ないちょなの」

「ママを描いてくれてるの? ふふ、嬉しい。内緒かぁ。楽しみだなぁ。早く見たいなー」


 愛しい息子が一生懸命、私の絵を描いてくれているらしい。この小さなおててで。その事実だけであと二、三時間は働けそうだ。

 ユーリは私と同じ明るい栗色の髪をふわふわと風に揺らしながら、満足そうに笑っている。可愛い。

 この子の笑顔を見るたびに、今の人生を選んでよかったと思う。この子を産むまで、こんな幸せは知らなかったから。誰かにこんなにも必要とされ、そしてこんなにも誰かを愛おしく思えるという幸せは。


 小さなアパートの前に帰り着いた時、隣の部屋に住んでいる若い親子にかち合った。


「あら、お帰りなさいレイニーさん。今日も遅くまで、大変でしたね。ユーリくん、お帰り」

「こんばんあ」


 “レイニー”と呼ばれることにも、もうすっかり慣れた。ユーリはお利口にペコリと頭を下げながら挨拶を返している。そんな息子に続き、私も微笑んで声をかけた。


「こんばんはアンナさん、コリンくん」

「毎日遅くまで大変ですね」


 お隣のアンナさんは私をそう気遣ってくれた後、ふと思いついたように言った。


「あの、シチューをたくさん作ったんですが、よかったらお持ちになりません?」

「い、いいんですかっ? なんだかすみません、いつも……」

「いえいえ。ご近所さんなんだから持ちつ持たれつですよー。うちのコリンもユーリくんに遊んでもらったりして、お世話になってるし。ちょっと待っててくださいね」


 お隣のコリンくんはまだ二歳にもなっていない。ユーリはこの子に出くわすたびに何かと話しかけては、時間がある時はアパートの前で遊んであげたりもしていた。

 ここに住んでいるのは良い人ばかりだ。たった一人でこの国に逃げてきて、子どもを産んで必死に育てている私のことを、端の部屋に住んでいる大家のおじさんも、二階のおばさんも、そして去年コリンくんを連れて夫婦で引っ越してきたこのアンナさんも、皆が気遣って手助けしてくれる。ありがたい話だ。完全に一人ぼっちだったらどれほど追い詰められていたことだろう。

 アンナさんが部屋に戻り、シチューを小鍋に入れて持ってきてくれている間、ユーリはコリンくんと二人でしゃがみ込み、アパートの段差を降りたところに敷き詰められている小石で遊んでいる。コリンくんは日が沈んでもこうしてたびたび部屋の外に出たがるから面倒だと、時々アンナさんがこぼしていたっけ。


「お待たせしましたー。はいっ、どうぞ。美味しくできていたらいいけど」

「わぁ! ありがとうございますアンナさーん。いい匂い……」


 手渡された小鍋は温かい。作り立てなのだろうか。作り置きおかずもなくなっちゃってたし、この時間からバタバタ夕食を作らなくていいのはかなりありがたい。ユーリの寝かしつけまでにだいぶ時間の余裕ができるから、本当に助かる。週末には私がキッシュでも焼いてお返しに持っていこう。

 そんなことを考えていた、その時だった。

 突然コリンくんの、ぎゃぁっ! というけたたましい泣き声が響き渡った。ビックリして思わず肩が跳ねる。

 アンナさんと二人して慌てて振り返ると、段を登ろうとしたらしいコリンくんが転んでしまい、その段差に顔面を突っ込んでいた。









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