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婚約破棄するとしあわせになる木の下で婚約破棄の宣言を迎え撃つ令嬢のお話

「私は真実の愛を見つけた! 伯爵令嬢イスランシア! 君との婚約は破棄させてもらう!」


 夜空の下、森の中。大樹の下に設けられた広場。今宵は、永遠不滅と謳われる『ブレンゲージの大樹』が光り輝く神秘的な夜。

 ブレンゲージの大樹から降り注ぐ清らかで暖かな光に照らされた学園の夜会。美しい貴族子息や令嬢たちが語り合う様は、まるでこの世ではない幻想の世界の出来事のようだった。


 そんな夜会で、婚約破棄を宣言する声が響いた。


 恋愛小説や舞台劇ではありふれた言葉。現実で聞く機会などめったにない婚約破棄の宣言に対し、しかし驚く者はおらず、嫌悪感を示す者すらいなかった。

 参席した学園の生徒たちはみな落ち着いた態度で婚約破棄の様子を眺めていた。好奇に輝く瞳は、舞台の幕開けを待ち望む観客のそれだ。

 生徒たちは婚約破棄の宣言がなされることを知っていた。誰が婚約破棄を宣言し、誰が婚約破棄されるのかも知っていた。生徒の誰もが、この婚約破棄の宣言を、何か月も前から期待していたのである。




 学園近くの森の中には『ブレンゲージの大樹』と呼ばれる古木がある。王城の尖塔よりも太く、その樹高は実に100メートルにも及ぶ。枝と葉は大樹の先端のみにあり、その高さに比べ控え目な広さに葉を生い茂らせている。

 複雑な皺が刻まれた樹皮は、その大樹が経てきた悠久の時を感じさせる。それに反して、生い茂る葉の瑞々しさときたら若木のようだ。

 

 ブレンゲージの大樹がそこまで大きくそびえている理由は、地脈にあると言われている。

 地脈とは川のように流れる魔力の流れであり、土地の繁栄や魔物の活動といった様々な事象にに大きな影響を与える。

 その地脈の中でも大河と呼ぶべき膨大な魔力な流れの交差点。そこにブレンゲージの大樹は根を下ろしている。水と共に純度が高く膨大な魔力を吸い上げるブレンゲージの大樹は、永遠不滅と謳われていた。

 伝説によれば、どんな激しい嵐にも倒れたことは無く、ドラゴンのブレスに焼かれても一晩で元の姿に戻ったと言う。

 王国の歴史書には建国時に既にその大樹はそびえていたとの記述がある。その道の研究者によればその樹齢は数千年に及ぶとのことだった。

 

 そしてブレンゲージの大樹には、大きな特徴がある。

 三年に一度、一晩のみ。この地脈の交差点に潤沢な魔力が集まる。その時、ブレンゲージの大樹は魔力を総身に宿らせ、清らかで暖かな輝きを放つのだ。その幻想的な光景は『ブレンゲージの輝く夜』と呼ばれていた。

 

 ――『ブレンゲージの輝く夜』。大樹の下で開かれる夜会で婚約破棄を宣言した者はしあわせになる。それ以外の日と場所で婚約破棄した者は不幸になる。

 

 貴族の通う学園で、いつの頃からかそんな伝説がささやかれるようになった。

 しかしそれはただの伝説ではなかった。『ブレンゲージの輝く夜』に婚約破棄をされた令嬢が、良縁に恵まれ、傷ついた心を癒ししあわせを得た。婚約破棄という無礼を働いた子息は一度は失墜するものの、持ち直してやがて大成した、などなど……学園の記録を紐解けば、そんな経歴を持つ実在の人物が何人も見つかるのである。

 婚約破棄した者が不幸になるかは、わざわざ調べるまでもなかった。現実と物語は違う。彼らのほとんどは必然的に不幸になるのである。

 

 三年に一度の『ブレンゲージの輝く夜』に、大樹の木の下にある広場でで夜会を開く。そこで婚約破棄が宣言されることまで含め、学園の行事と化していた。

 そうしたことが何度も続くうち、『ブレンゲージの輝く夜』は徐々に形を変えていった。

 いつの間にか、『婚約破棄した者がしあわせになる』のではなく、『しあわせになるべき者が婚約破棄をするべき』となっていた。

 『ブレンゲージの輝く夜』が近づくと、学園内で秘密裏に人気投票が行われる。上位に名を連ねた令嬢と子息が婚約破棄をしてしあわせをつかむ。そんなおかしな行事へと変わっていったのである。

 

 そんな『ブレンゲージの輝く夜』の夜会は、学園の生徒たちにとって特別なものだ。準備はいつも入念に行われた。

 光は虫や魔物を引き寄せることもあるため、学園の精鋭がチームを組み、何日も前から強固な防御結界を張った。広場には屋外用の絨毯を敷き詰め、テーブルやソファーも用意した。

 広場の端には、主に夜会で振舞う料理などを準備するために、二階建ての山小屋があった。別の一角には小さな小屋があるが、こちらは化粧室だ。どちらも魔道具によって水回りを完備してある。

 壁と天井が無いことを除けば、学園で行う夜会に引けを取らない、開放的で瀟洒な会場が出来上がった。

 そして今宵。生徒たちの期待通り、ついに婚約破棄が宣言されたのである。

 

 

 

 婚約破棄の宣言を受けたのは、伯爵令嬢イスランシア。

 腰まで届く長さの髪は、夜明けの雪を思わせるシルバーグレー。切れ長の瞳は薄いグレー。冷ややかなその眼差しは、冬の雪空を想起させる。身に纏うのは白を基調に深い青で彩られたドレス。彼女の涼やかで清楚な雰囲気によく合っていた。首からさげた細い金のネックレスが、アクセントとなり目を引いた。

 美しくも清らかで侵しがたい、峻厳な雪山のような令嬢だった。

 イスランシアはその見た目通り、氷の魔法に秀でており、特に氷の槍を得意としている。無数に放たれる高精度にして高い貫通力を誇る氷の槍は、宮廷魔導士でも容易に防げないとまで言われている。

 

 婚約破棄を宣言したのは、伯爵子息バーナクサス。

 鮮やかな赤の巻き毛。太い眉の下、凛と輝く瞳は紅。上背のある引き締まった体は、貴族の子息と言うより歴戦の戦士のようだ。身に纏った赤を基調とした式服は、派手な色ながら上品な作りで、彼によく似合っていた。

 燃え盛る炎を思わせる、凛としたたくましい青年だった。

 バーナクサスもまたその見た目を裏切らず、炎の魔法の使い手だ。学園では珍しい近接型の魔法使いだ。拳による殴打を起点とした爆炎魔法を得意としており、その破壊力は学園一と言われている。

 

 伯爵子息バーナクサスに寄り添うのは、男爵令嬢メルティライア。

 はちみつのようなホワイトブロンドの髪。天使のように無垢でかわいらしい顔に輝くのは、夢見るようなピンクの大粒の瞳。髪の色と合わせた黄色を基調としたドレスは、彼女のかわいらしさを一層引き立てていた。細い金のネックレスもまた、ドレスの色とあいまってよく似合っていた。

 花畑を舞う蝶のような可憐でかわいらしい令嬢だった。

 数か月前に転入してきた彼女は、学業でも魔力の実技においても特別秀でたところはない。だがその可憐でかわいらしい容姿から、学園の生徒たちの口の端に上ることも少なくなかった。

 

 伯爵令嬢イスランシアも伯爵子息バーナクサスも、学園トップクラスの優秀な生徒だ。男爵令嬢メルティライアは学業に秀でたところは無いものの、見栄えがいい。いずれも『ブレンゲージの輝く夜』の主役として相応しい生徒たちだった。

 

 婚約破棄の現場を、生徒たちは固唾を呑んで見守った。

 特に注目すべきはイスランシアがどのような反応を返すかだった。彼女はいつも落ち着いていて、感情を表すことは滅多にない。婚約破棄の宣言を受けてどのような顔を見せるのか。嘆き悲しむのか、あるいは怒りに燃え上がるのか。

 だが、どちらでもなかった。彼女が見せたのは笑みだった。それも淑女には似つかわしくない、嘲りを帯びた微笑みだった。

 これには婚約破棄を宣言したバーナクサスも眉をひそめた。

 

「真実の愛……真実の愛とおっしゃいましたね? 断言しましょう。あなたが真実の愛と信じているもの。それは空虚な偽りなのです」


 あまりに不躾なイスランシアの言葉に対し、バーナクサスは目をかっと開いた。

 だがすぐに言い返しはしなかった。男爵令嬢メルティライアの腰に手をまわすと、ぐっと引き寄せると、彼女と見つめ合った。

 不安げに見上げるメルティライアを安心させるように微笑むと、バーナクサスは鋭い目でイスランシアを睨みつけた。


「彼女との間にあるものは、まぎれもなく真実の愛だ!」


 真実の愛を偽りと断言されたのに怒りに呑まれず、まず想い人の不安を取り除くことを優先した。その紳士的な振る舞いに、幾人もの令嬢が感嘆の息を漏らした。

 だがそんな恋人同士の尊い姿もイスランシアには響かなかったようだ。彼女は肩をすくめやれやれと言った感じで首を横に振った。物静かな彼女には珍しい大げさな身振りだった。


「いいえ、すべて偽りなのです。そもそも今しがた、バーナクサス様が宣言した婚約破棄。その相手からして偽りなのです!」


 言うなり、イスランシアは首から下げた細い金のネックレスを外した。

 すると、彼女の姿が霧に包まれたかのようにぼやけた。それも一瞬の事、ふたたび姿を顕した彼女は、伯爵令嬢イスランシアではなかった。

 シニョンにまとめたブラウンの髪。瞳の色は黒。年のころは20代半ばといったところで、周囲の学生とは一線を画する落ちついた艶やかさがあった。身に纏うのはドレスではなく、上品で飾り気のないシックなメイド服だ。


「き、君はまさか、アールレラか!?」

「はい、その通りです。イスランシア様のお付きのメイド、アールレラでございます」


 上品に微笑むと、アールレラは優雅に一礼した。

 生徒たちはどよめいた。魔法に長けた者が多くを占める貴族の学園。その生徒の誰一人として、今の今までアールレラが姿を偽っていることに気づかなかった。あの金のネックレスは相当高度な魔道具に違いない。一介のメイドがいたずらのために用意できる品ではなかった。

 バーナクサスはぶるぶると怒りに震えた。

 

「夜会の欠席を偽り、幻覚の魔道具でメイドをよこすとは……なんという不作法だ! イスランシアには伯爵令嬢としての自覚がないのかっ!」

「欠席? いいえ、イスランシア様はご出席なされています」

「なんだと、どこにいるのだ!?」

「あなたのとても近くに、既にいらっしゃっているのです」


 アールレラは意味ありげに微笑んだ。

 バーナクサスはきょろきょろと見回す。生徒たちも辺りを見るが、イスランシアのシルバーグレーの髪はどこにも見つからなかった。


 混乱のなか、不意に、メルティライアがバーナクサスの手から抜け出した。


 花畑の蝶のように舞うように、ひらりと婚約破棄の舞台の中央、バーナクサスとアールレラの間に躍り出た。

 生徒たちの何人かは「あっ!」と声を上げた。彼らはメルティライアの首元に、金のネックレスの輝きを認めたのである。

 

「メルティライア……まさか、まさか君は……!?」


 バーナクサスは想い人へ向け手を伸ばす。その顔は驚きに染まり、声はわずかに恐れを帯びている。あるいは彼も、これからも何が起きるかを察していたのかもしれない。

 メルティライアはニッコリと笑った。バーナクサスは反射的に笑みを返した。愛し合っている二人にとって慣れたやりとりだったのだろう。

 だがそれは温かな空気を作り出さなかった。恋に慣れている令嬢たちは一目で覚った。あれは別れると決めた恋人に向ける、最後の笑みだ。

 そして、メルティライアは。笑顔のままに、金のネックレスを外した。

 

 彼女の姿が霧に包まれた。

 そして夜会の会場に一陣の風が吹いた。

 風は霧を吹き散らし、乙女の髪をなびかせた。ブレンゲージの大樹の光を受け、シルバーグレーの髪は、朝日に照らされた雪のようにきらめいた。

 峻厳な雪山のように美しい乙女。伯爵令嬢イスランシアがそこにいた。

 バーナクサスは驚愕に目を見開いた。予感していた。覚悟していた。それでもなお受け入れがたい光景だった。


「ど、どういうことだ!? イスランシア、君がメルティライアに化けていたというのか!? なら彼女は今どこにいる!?」


 混乱し叫ぶバーナクサス。そんな婚約者を見つめるイスランシアのグレーの瞳は、常と変わらず冬空のような冷たさだった。


「バーナクサス様。落ち着いてお聞きください。彼女はもうどこにもいません」

「どこにもいないだと……どういう意味だ!? 彼女をどうしたんだ!?」

「男爵令嬢メルティライアとは、幻覚の魔道具で姿を偽って作り上げた架空の人物。実在しない幻のようなもの。正体を明かした今、彼女の存在は無くなってしまったのです」


 イスランシアは嘲るでもなく、感情すらこめず、ただ淡々と告げた。しかしこの場に置いてはそれがかえって冷たく響いた。

 バーナクサスの燃え盛る瞳から熱が失われていった。


「馬鹿な……では私が愛した女性(ひと)は……真実の愛は……」

「残念ですが、あなたが見つけたという真実の愛は偽りでした。そして婚約破棄の宣言もまた、無意味なものだったのです」


 イスランシアは静かに告げた。会場は雪の降りしきる夜のように静かになった。

 

 婚約破棄を告げた相手はメイドの化けた偽者だった。

 真実の愛を見つけた相手は実在しない架空の存在だった。

 全ては婚約破棄を宣言した相手の、手のひらの上の出来事だったのだ。

 あまりに滑稽で無残な婚約破棄の末路だった。

 バーナクサスはがっくりと膝を落とした。

 

 会場の生徒たちは悲しみに沈むバーナクサスに痛ましい目を向けた。

 婚約破棄の結末は誰かに悲しい結末をもたらすものだ。それでもここまで惨いことになるとは、誰も予想していなかったのだ。

 期待に満ち溢れていた夜会の会場は、いまや沈痛な空気に支配された。

 

 だが、その中で立ち上がる者がいた。

 バーナクサスだ。絶望に顔を青白くしながらも、その紅の瞳の中には小さな希望の炎が燃えていた。

 

「……だが待ってほしい。本物のメルティライアは、別にいるんだろう?」


 イスランシアが珍しく表情を変えた。困惑に眉をひそめたのだ。


「彼女は架空の人物です。本物と言われても……」

「あれほどの幻影の魔道具を使えば、誰でもメルティライアの姿に成れたはずだ。私との付き合いの中、全てが君だったとは思えない。私との付き合いで愛を確かめ合った女性(ひと)。彼女こそが真のメルティライアだ!」


 バーナクサスは自らの婚約者を蔑ろにして他の令嬢に愛を語った浮気者だ。それでもメルティライアを愛する気持ちだけは本物だったのだろう。彼は絶望に打ちひしがれながらも、自分の中に残った愛で立ち上がったのだ。

 それは悲しくも尊い姿だった。

 この一幕を眺める生徒の多くが感動に震えた。令嬢の中には瞳を潤ませる者すらいた。

 

 哀願じみた問いかけに対し、イスランシアは深々とため息を吐いた。


「試験の時などは、一時的にアールレラに代わってもらったこともありました。ですが、あなたとのお付き合いの間は、すべてこのわたし、イスランシアが演じておりました」


 きっぱりとしたイスランシアの回答に対し、バーナクサスは頭を振った。

 

「いや、それはありえない。あの可憐でかわいらしくて、天使のように優しいメルティライアを、氷のように冷たい君が演じられたはずがない。私にはわかっている。他にメルティライアを演じた者が他にいるはずなんだ」

「そんな者は存在しません」


 燻る炎のように問いかけるバーナクサスに対し、雪山を吹きすさぶ風のように冷たくイスランシアは言葉を返す。

 それでもバーナクサスは諦めなかった。彼は近接戦闘を得意とする魔法使いだ。激しい攻撃にさらされても、ひるむことなく敵の懐にもぐりこみ一撃を加える。それが彼の戦い方なのだ。

 

「メルティライアは街を歩く時、いつも私の腕をキュッと抱きしめてくれるんだ。君にそんなことができるはずがない!」

「いいえ、それはわたしがやりました」


 イスランシアはきゅっと何かを抱きしめる動きをした。バーナクサスはぎょっとした。彼女の腕が形作る輪が、ちょうどバーナクサスの腕と同じ太さだったのだ。

 周囲の令嬢たちも察した。あの躊躇いのない慣れた所作。あれは男の腕を抱き慣れた者の動きだ。


「メルティライアは私が落ち込んだとき、そっと胸に抱いて優しく頭を撫でてくれた。それも君だったと言うつもりか!?」

「それもわたしがやりました」


 イスランシアは手のひらを緩やかに動かしながら答えた。何かを撫でるような動きだ。その動きにバーナクサスは「まさか……!」と呟きながら頭に手を当てた。どうやら憶えがあるらしい。


「じゃあ何か? 待ち合わせに遅れた時、後ろからぎゅっとハグしてくれたのも、喫茶店でパンケーキを『あーん』して食べさせ合ったのも、公園のベンチで膝枕され、眠ってしまった私の額にやさしくキスをして起こしてくれたのも……ぜんぶぜんぶ、君だったというのか!?」

「みんなわたしがやりましたが……この場でそれ以上そうしたことについて語るつもりなら、実力行使させていただきます!」


 イスランシアは冷気を纏った。それと同時に、彼女の周囲に七本の氷の槍が瞬時に現れた。

 彼女の得意とする学園随一の精度と貫通力を誇る魔法、氷の槍だ。

 だが、魔法に長けた者は普段よりその魔法に乱れがあるのを感じ取っていた。氷の魔法を使う時、彼女はいつも完璧な白を纏う。だが今は、一か所だけ白くなかった。イスランシアの頬が、ほのかに赤く染まっていたのである。

 雪山や氷に例えられる令嬢でも、やはり恥ずかしいものは恥ずかしいらしい。


「わかった、これ以上は言わない」


 バーナクサスは両手を上げて不戦の意志を示した。イスランシアは氷の槍を霧散させ、身に纏った冷気を消しさった。

 氷の魔法を操るイスランシアと炎の魔法を操るバーナクサス。どちらも優れた魔法の使い手であり、本格的な戦闘ともなれば二人ともただでは済まない。

 だから、イスランシアが軽々しく魔法を使うはずはない。他の人間がメルティライアを演じていたのなら、ここまでのことはしなかったはずだ。

 得意とする氷の槍を見せてまで言葉を止めさせた――それこそが、イスランシア本人が甘いやりとりをしており、本気で恥じていることの証明だった。

 バーナクサスはまじまじとイスランシアを見つめた。

 

「君がメルティライアを演じていたことはわかった。信じがたいことだが、どうやら認めざるを得ないようだ。そんなことをした理由は……やはり、この婚約破棄をつぶすためだったのだろうか?」

「はい……そのとおりです」


 バーナクサスの問いかけに対し、イスランシアは頷いて答えた。




 『ブレンゲージの輝く夜』の半年ほど前。学園では誰が婚約破棄するかという話で持ちきりだった。

 そしてその最有力候補として、伯爵令嬢イスランシアと伯爵子息バーナクサスの二人の名が挙がってしまった。

 二人とも学園内でも指折りの魔法の使い手であり、優秀な生徒だった。イスランシアは美しい乙女であり、バーナクサスはたくましく凛とした青年だった。なによりイスランシアは氷に例えられるような令嬢であり、婚約者と仲良くする姿はまるで見受けられず、傍から見れば不仲な婚約者たちだった。

 

『婚約破棄してしあわせになるのはこの二人しかいない』

 

 学園の各所でそんな話が持ち上がった。その熱はたちまち伝わり、燃え上がり、学園全てを包み込んだ。それこそが何よりも正しいことであるかのように、学園の誰もが盛り上がった。

 学園内で秘密裏に行われた人気投票でも三位以下を大きく引き離し、二人の名が一位と二位を独占した。

 次の『ブレンゲージの輝く夜』の主役はこの二人しかいないと、学園の生徒の誰もが確信した。

 

 冷然としたイスランシアには取りつく島がない。自然と生徒たちの興味はバーナクサスに集中した。

 そして、バーナクサスの受難が始まった。

 

 

 

 クラスメイトの子息が自分の妹のかわいさについて熱く語りだした。そして最後に涙を零しながら「貴殿になら妹を任せられる! これからはお義兄様と呼んでくれたまえ!」とか言い出した。だが彼の妹は去年生まれたばかりなので丁重にお断りした。

 

 階段から落ちそうな令嬢を受け止めたら、「恋に落ちました!」などと言い出した。「なんだと!? 『故意』に落ちたのか!?」と問いただしたら「はい! そうです!」と元気に答えたので、階段をわざと落ちるのは危ないと説教したらひどくションボリしてしまった。

 

 廊下の曲がり角で何度もぶつかりそうになる令嬢がいたので問い詰めると「恋の始まりになるかもしれないと思って……」などとよくわからない言い訳をされた。「むしろ終わりになるかも知れないぞ」と言ってゲンコツと力こぶを見せつけたらそれきり近づいてくることは無くなった。


 ある令嬢が「これ、プレゼントです!」と言って手作りのクッキーを渡してきた。異質な魔力を感じたので魔力鑑定に優れた子息に調べてもらったところ、強力な催淫魔法と、作り手と主従関係を結ぶ契約魔法がかかっていることが分かった。その子息はクッキーに込められた魔法技術に大変興味を持ち、クッキーの令嬢を追い回した。後に二人は付き合うことになったらしい。


 街に買い物に出た時、ある店で「貴方のために特別な品をご用意しました」と言われ応接間に案内された。そこには着飾った商人の娘が待っていた。「私は安い女ではありませんが、今なら特別価格で真実の愛をご提供します!」などと言い始めた。今日は持ち合わせがないと言って退散した。


 学園の呼び出しがあったので指示通り指導室に来たら、ネクタイを緩めた女性教師が待っていた。「先生、今日は大丈夫な日ですから心配しないでくださいね」などとよくわからないことを言い出したので全力で逃げた。

 

 

 

 何人もの令嬢がバーナクサスを誘惑し、真実の愛を見つけさせようとした。

 そんな状況に晒され続け、バーナクサスは次第に感覚がおかしくなっていった。『やってはならないこと』である婚約破棄を、『やらねばならないこと』と思うようになってきた。周囲の同調圧力というものは、個人の正常な判断力を奪ってしまうものなのだ。

 そんな時に出会ったのが、学園に転入してきたメルティライアだった。彼女は可憐でかわいらしかった。婚約破棄の熱狂に浮かされた他の令嬢とは違い、やさしさに満ちていた。追い詰められたバーナクサスは、そんな彼女に恋したのだった。

 

 だがそれはイスランシアの演じる偽りの令嬢だった。イスランシアがそんなことをした理由は明白だ。婚約破棄を不成立にするためだ。

 『ブレンゲージの輝く夜』に婚約破棄した者はしあわせになったという学園の記録はある。だが当てにならない。婚約破棄された令嬢は、本人に咎が無くとも問題のある人物と見られ、まともな縁談は来なくなる。婚約破棄を宣言した子息もまた、常識知らずの無礼者として社交界での立場を落とすことになるのだ。

 

 そんな状況を回避するために策略をめぐらすというのは、貴族ならばむしろ当然と言えるだろう。

 そのことを理解しながらも、バーナクサスにはどうしても納得できないことがあった。




「……てっきり君には嫌われていると思っていた。それなのに、どうしてあんなに優しくしてくれたんだ?」

 

 参席した生徒たちも同じ疑問を抱いていた。

 浮気相手の令嬢に化けるところまでは理解できる。相手の心をつかむために誘惑するのも当然の手段だ。しかし先ほど挙げられた行動だけでも、過剰なイチャつきぶりだった。

 バーナクサスが不審を覚えていなかったことからして、嫌々やっていたというわけでもなさそうだ。全てのことが普段のイスランシアのイメージからかけ離れたものであり、バーナクサスがあそこまで疑ったのも無理のないことだった。

 

 そんな誰もが抱く疑問に対して、イスランシアは即答した。


「大袈裟ですね。世の夫婦と言うものはあのくらいのことをしているものなのです。結婚後の予行演習と思えば大したことではありません」


 恥じることなく、眉一つ動かすこともなく。常と変わらぬ楚々とした様子でイスランシアは答えた。

 バーナクサスは口をぽかんと開けた。夜会はざわめきに包まれた。

 先ほど挙がった行動の数々は、恋に浮かれた平民のそれだ。貴族は礼節を重んじるものであり、たとえ愛し合っていたとしても、あそこまでイチャイチャしたりするものではない。

 現実の貴族の夫婦の大半は家同士の契約で結びついた関係に過ぎず、もっと寒々としたものなのだ。

 周囲のざわめく様子を前に、イスランシアは小首を傾げた。

 

「みなさん驚かれているようですが……あのくらいのことは普通の事なのでしょう。ねえ、アールレラ?」

「はい。もちろんでございます、イスランシアお嬢様」


 イスランシアは後ろで控えるメイドに問いかけた。メイドのアールレラは至極真面目に折り目正しく答えた。

 勘のいい生徒は察した。おそらくあのメイドがイスランシアにデタラメを吹き込んだに違いない。

 だがそのことを指摘する者はいなかった。なぜなら、イスランシアはまるでメイドを疑っていないようだった。純真可憐な令嬢に対して、残酷な現実を告げる――確信もなくそんなことができる不作法者など、この夜会にはいなかったのである。

 

 バーナクサスは震えていた。恐怖ではない。怒りでもない。その顔は、感動と歓喜に染まっていた。

 周囲の者は戸惑った。なぜそんな顔をするのか、ほとんどの者がわからなかったのだ。

 彼は震えながら問いかけた。

 

「……じゃあ何か? 君は、結婚したらあんなことをしてくれるのか? 頭を撫でてくれたり、添い寝して子守唄を唄ってくれたりするというのか?」

「それが妻の務めであるならば、私は十全にこなしてみせます」


 イスランシアは躊躇うことなくそう答えた。表情の動きの少ない彼女であるが、その姿はどこか誇らしげに見えた。

 参席者たちの間で衝撃が走った。

 峻厳な雪山と例えられるほど、神聖さすら感じさせる美しい令嬢。そんな彼女が恋に溺れた平民の娘のように甘ったるく接してくれると答えたのだ。

 それは魅惑的であり、蠱惑的であり、背徳的なことですらあった。


「結婚してくれ!」


 バーナクサスは叫んだ。心の底から叫んでいた。それは会場にいる生徒の多くが抱いた想いを言葉にしたものだった。子息のたちは同じことを願った。令嬢たちはそんな乙女に憧れた。

 

「はい。結婚いたします。わたしたちは婚約しているのですから、当然です」


 そう言って、イスランシアは初めて微笑みを見せた。

 それは、春が訪れた雪山の、木々や草花の芽吹きのように温かな笑みだった。

 バーナクサスは跪いた。片手を胸に当て、一心に婚約者を見つめた。

 

「私は今こそ真実の愛を見つけた。イスランシアとの婚約を、この世の終わりまで破棄しないことを誓う」


 まるで神へ人生をささげると誓う司祭のように。厳かに、真摯に、誠実に。バーナクサスはそう、宣誓した。

 イスランシアはゆっくりとうなずいた。


 こうして、今回の『ブレンゲージの輝く夜』の婚約破棄は、失敗に終わったのだった。




 ――『ブレンゲージの輝く夜』。大樹の下で開かれる夜会で婚約破棄を宣言した者はしあわせになる。それ以外の日と場所で婚約破棄した者は不幸になる。


 この伝説は、実は学園が意図的に作り出した虚構である。

 かつて王国では混迷の時期があった。派閥間の争いが激しくなり、社交界では様々な権謀術数が飛び交っていた。

 その余波は貴族である学園の生徒たちにも及んだ。派閥の関係が入り乱れ、婚約が一方的に破棄されることも珍しくなかった。

 

 そして、夜会の場で婚約破棄を宣言する生徒が現れ始めた。

 最初は自らの家の旗幟を鮮明にするという意図で、あえて人目のある夜会で宣言するという意図だった。だが、恋愛小説にかぶれて必要もないのにわざわざ夜会で婚約破棄を宣言する者まで現れた。それが許されてしまう空気が出来上がっていたのだ。

 そんな横暴がまかり通っては、学園の風紀が保てるはずもない。授業中は貴族の学び舎にあるまじきひそひそ声が止まず、授業をさぼる者も少なくなく、学園内の人目につかない場所でいかがわしいことに耽る生徒すらいた。

 

 これを憂いた教師陣は一計を案じた。それが『ブレンゲージの輝く夜』である。

 ブレンゲージの大樹が地脈の交差点に根を伸ばしているのは事実だ。樹齢が数千年に及ぶのもまた本当のことだ。

 しかし大樹が輝きを放つことだけは違った。

 これは学園の教師たちがかけた魔法によるものだった。地脈からの魔力を利用し、樹高100メートルに及ぶ樹木全体から光を放つという大規模かつ高度な魔法をかけることによって光るのである。

 

 そして『ブレンゲージの輝く夜』に婚約破棄した者だけがしあわせになるという伝説を、生徒間の噂として広めさせた。

 最初の一組目は学園が予め用意した。二人は学園の用意した台本通りに、ブレンゲージの輝きの下、婚約破棄を宣言した。

 二人の家にはそれぞれ次の縁談を用意してあり、関係する貴族の家にも事前に話を通しておいた。学園からの後押しもあり、二人は婚約破棄後、無事貴族として返り咲いた。

 

 その後、『ブレンゲージの輝く夜』が来るたびに婚約破棄は宣言された。学園は婚約破棄後の二人がしあわせになるよう全面的にサポートした。必要なら資金を援助した。学園が培ったてきた人脈を活用し便宜を図った。場合によっては相談役として聖女を招き、傷心の令嬢を精神面からケアすることさえした。


 一方で『ブレンゲージの輝く夜』以外で婚約破棄を宣言した生徒については徹底して不干渉を貫いた。婚約破棄した子息もされた令嬢も、放っておけば失墜するのだ。しあわせを得る者もいたが、それは極めて稀なことであり、影響は少なかった。


 『ブレンゲージの輝く夜』を三年に一度としたのは、生徒の不満を発散させるためだ。厳しく押さえつけるだけでは反発心を煽ることになる。だが逃げ道を用意すれば、人は逆らうよりそこに逃げ込むものなのである。そのためには三年に一度くらいがちょうどいいのだった。


 これらの策略により、『ブレンゲージの輝く夜』以外、学園での婚約破棄は発生しなくなった。このことをきっかけに学園の風紀は正常化していった。

 

 『ブレンゲージの輝く夜』は時を経るうちに形を変え、『しあわせになるべき者が婚約破棄をするべき』というおかしな風潮になってしまった。それでも婚約破棄を抑制するという当初の役目は果たしているので、学園側は迂闊な干渉はせずに黙認していた。

 




「あなたのおかげで全て上手くいきました。これからもわたしのことを助けてくださいね、アールレラ」

「もったいないお言葉です、お嬢様」


 『ブレンゲージの輝く夜』の翌実の朝。イスランシアは、自らの髪を整えてくれているアールレラに対し、労いの言葉をかけた。

 今から半年ほど前。イスランシアは自分と婚約者バーナクサスが『ブレンゲージの輝く夜』の主役に選ばれてしまったことに気づいた。

 婚約者の窮状を知りながら、イスランシアに打つ手はなかった。厳格な貴族の家に生まれた彼女は、幼い頃より貞淑であるようにと厳しくしつけられていた。貴族令嬢として身に付けた礼節も作法も、この異常な状況においては役に立たなかった。

 

 そんなとき、メイドであるアールレラは、自らの身を差し出すことを提案した。


 アールレラはかつて男爵家の令嬢であり、恋多き乙女だった。その恋によって様々な問題を引き起こすこととなり、その面倒から逃げるため、名前と髪の色を変え伯爵家の侍女となる道を選んだのだ。


 バーナクサスに話を通し、表面上はアールレラと付き合うふりをする。そして婚約破棄の宣言後は姿を消し、バーナクサスとイスランシアが復縁するという筋書きを立てた。恋愛経験豊富な彼女なら、バーナクサスが恋に狂ったと周囲に見せかけることなど容易に思われた。

 

 だがそれに対しイスランシアは異を唱えた。その策ではアールレラが帰る場所がなくなる。まさか自分の婚約者を誘惑した彼女を、これまで通りメイドとして傍に置くことなどできるはずがない。

 魔道具で姿を変えるという手もあったが、万が一にも発覚すればまずいことになる。イスランシアのお付きのメイドが浮気相手だったという醜聞は、貴族として命取りになりかねない。

 

 二人はじっくりと計画を練った。そして幻影の魔道具を使いイスランシア自身が姿を変え、男爵令嬢メルティライアという架空の存在を作り出すという計画を立てた。架空の令嬢ならいなくなったところで誰の不利益にもならないはずだった。

 

 幻影の魔道具で架空の令嬢を作り出すことはできる。だが最大の困難は学園にいかにして転入させるかと言うことだった。

 手段を探るうちに、驚くべきことに学園の教師の方から話を持ち掛けてきた。

 

 学園は『ブレンゲージの輝く夜』の伝説を保つために様々な手段を講じており、様々な網を張っていた。それによってイスランシアたちの計画は見つけられたのである。

 学園としては『ブレンゲージの輝く夜』で婚約破棄した者たちにはしあわせになってもらいたい。だがそもそも、婚約破棄自体が不成立になることの方が望ましい。学園の目的は婚約破棄の抑制であり、イスランシアたちの計画は都合のいいものだった。

 学園はイスランシアたちの計画を受け入れ、転入について全面的に協力してくれることになった。

 

 そして男爵令嬢メルティライアは転入生として学園にやってきた。

 殿方の誘惑の仕方についてはアールレラがじっくりと教え込んだ。男爵令嬢だった頃の彼女は交友関係が広かった。町の恋多き美女や色街の経験豊かな女性と、男性の落とし方について語ることも多く、その知識は膨大なものだった。

 

 しかし、いかに優れた手段を授けようと、恋愛経験に乏しいイスランシアが十全に使いこなせるかはわからない。当初、アールレラは要所でメルティライアの役を代わるつもりだった。

 だがそれは杞憂に終わった。

 女性というものは、外見を少し変えるだけで気分が変わるものだ。新しいアクセサリ一つで気分が上がる。前髪を少し切り損ねただけで気分が沈む。雪山に例えられるイスランシアも、そんな乙女の一人だった。


 魔道具で姿そのものを変えたイスランシアは、完全に別人となった。表面はその外見に相応しい可憐で明るくかわいらしい性格。それでいてその内面は氷に例えられるほどに冷静沈着。その上で、男を落とす手練手管に長けている。

 恋愛経験豊富なアールレラが戦慄を覚えるほどの、実に恐るべき魔性の令嬢が生まれたのである。

 

 バーナクサスは意志が強くたくましい貴族の青年だったが、恋愛には疎かった。そんな彼がメルティライアに対して抗えるはずもない。メルティライアは見事バーナクサスの心をつかみ、真実の愛を見せるところに至ったのである。


 本来はある程度バーナクサスと親しくなった時点で正体を明かし、婚約破棄不成立の計画に加わってもらうつもりだった。だが下手に明かすと演技がバレやすくなり、周囲の不審を煽る危険がある。バーナクサスには気の毒だが、このまま騙されてもらうこととなった。実際、誰にも疑われることなく『ブレンゲージの輝く夜』を迎えることができた。


 計画は全てうまくいった。

 だがアールレラの心は罪悪感に苛まれていた。

 彼女は、男性を落とす手練手管と、貴族の令嬢にはあり得ないスキンジップの数々を、「結婚すれば当たり前にすること」と偽ってイスランシアに伝えたのである。

 これはイスランシアの行動を躊躇いのないものにし、確実にバーナクサスを落とすための方便だった。

 主のためとは言え、嘘をついてしまった。その罪悪感がアールレラを苛むのだ。

 敬愛する主の髪に櫛を通しながら、アールレラはそっと小さなため息を吐いた。




 イスランシアもまた、罪悪感を抱えていた。

 自分に授けられた男の落とす様々な手段。それが普通の貴族がするものではないと知っていた。いかに初心(うぶ)な貴族令嬢とはいえ、常識的にどんなことが許されるかくらいは彼女にもわかっていた。


 教えられたからと言ってその手段を使うかどうかはイスランシアの自由である。令嬢として相応しくないと思ったのなら、使わなければいいはずだった。彼女も最初はそのつもりでいた。

 だが、使わずにはいられなかった。

 

 厳格な貴族に家に生まれたイスランシアにとって父は絶対の存在だった。男性と言うものは固く揺るがぬ存在だと、ずっと思っていた。

 彼女にとって、バーナクサスもそういう種類の男だった。

 

 婚約してから間もなくの頃。学園内で模擬戦をしたことがあった。氷の魔法で遠距離からの戦闘を得意とするイスランシアと、拳を当てて発動する炎の魔法による近距離戦を得意とするバーナクサス。まったく戦い方の異なる二人の試合は、極めて激しい接戦となった。

 

 近接戦闘を旨とするバーナクサスは遠距離攻撃に備えて強固な防御魔法を纏っていた。イスランシアは様々な氷の魔法を使えたが、その防御を突破することは容易ではなかった。得意の氷の槍ならば防御を抜けるが、それは当然バーナクサスも警戒しており、ただ放つだけでは炎の拳に砕かれるばかりだった。

 一方でバーナクサスも攻めきれなかった。イスランシアの精妙にして多彩な氷の魔法の数々は、彼の炎の魔法をもってしても容易に近づけないものだった。

 

 二人の戦い方は決着がつかないまま時間が過ぎ、途中で教師によって止められた。二人の実力は伯仲していた。もし決着がつくまで続けていたら、どちらかが、あるいは両方が大けがをしていたかもしれない。

 

 氷の魔法にまるでひるまず前に出続けるバーナクサス。困難に屈しないそのあり方は、魔法使いと言うより戦士のようだった。イスランシアの中にある「男性は固く揺るがせない存在」という固定観念に合致するものだった。

 

 そんなバーナクサスだったが、メルティライアの前では違った。

 可憐でかわいらしい笑顔。砂糖菓子のような甘い言葉。情熱的で巧みなスキンシップ。氷の魔法をいくら繰り出そうと砕けなかった青年は、それらの前にたやすくとろけてしまったのである。

 イスランシアはこの時初めて、男と言うものは好きな女に甘やかされると、柔らかく融けてしまうものなのだと知った。

 

 それはあまりに刺激的であり、背徳的でもあり、なにより楽しいものだった。たくましいバーナクサスがとろける様が、どうしようもなく愛おしくてたまらなかった。幻影の魔道具によって別人になったこともあり、歯止めが利かなかった。(ねや)を共にすることこそなかったが、そのギリギリ手前までのあらゆる手段を躊躇なく行使した。


 当初はバーナクサスに途中で正体を明かして計画に引き入れるつもりだったが、やめた。アールレラにはその方が周囲に疑われないからと説明したが、本当のところは違う。

 メルティライアとして彼のことをもっともっと甘やかしたかったからだ。


 魔道具を外して元の姿に戻るたびに我に返った。メルティライアの姿でした行為の数々を、自分の意志でやったことだと受け入れられなかった。あまりに恥ずかしいことだった。

 だから「夫婦だったらあれくらいはやって当然だ」と思い込むことにした。アールレラのついた嘘に縋った。それを建前に無知を装った。

 婚約破棄を乗り越えた今となっては、イスランシアのままでバーナクサスを甘やかすことに抵抗はない。だが、今さら自分の欲望をさらけだすこともできなかった。

 自分の恥ずかしい欲望を嘘で隠していることに、イスランシアは罪悪感を抱いているのだった。




 『ブレンゲージの輝く夜』の嘘。アールレラが主についた嘘。イスランシアの自らの欲望を隠す嘘。

 いくつもの嘘によってこの婚約は保たれた。だが、嘘はいつかバレるものだ。その報いを受けることもあるだろう。

 だが、たとえ嘘がばれることになろうとも、イスランシアがしあわせになるという結末だけは変わない。

 なぜなら、彼女は既に愛しい男性(ひと)の心をつかんでいる。どの嘘がバレようと、その愛が失われることなどないのである。



終わり

これまで書いてきた作品では、原則として「婚約破棄はやってはいけないもの」という説明をつけてきました。

ふと、たまには違う方向で書いてみるべきだと思いました。

そこで「婚約破棄が推奨される状況で婚約破棄する」というネタを思いつきました。

日常的に婚約破棄がOKになるのはちょっとどうかと思うので、期間限定にしよう……などとあれこれ考えて設定を詰めてキャラを作っていったらこういうお話になりました。


とても基本的なことですが、視点を変えて物事を考えるのは大事なことだなあと、改めて思いました。



2024/6/12 18:30頃

 誤字指摘ありがとうございました! そのほか、読み返して気になった細かなところも修正しました。

2024/6/13、7/1

 誤字指摘ありがとうございました! 修正しました!

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― 新着の感想 ―
[良い点] イスランシアが目的のためとはいえぶりっ子のふりしてぶりぶりデートすんの可愛すぎない?
[気になる点] >恋に慣れている令嬢たちは一目で覚った。あれは別れると決めた恋人に向ける、最後の笑みだ。 ここでてっきり別れるのかと思ったので結末は残念だった 周囲に流され浮気を決める男にまだ惚れて…
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