学友
「2、3、5、7、7、9。この6つの数字を使って、左辺が素因数の積の式で、右辺がその解である等式を作ってみたまえ」
「グレゴリウス、昼食中に数学の問題を出すのはやめろ」
「ははーん、降参か、バルド。情けない。使わない頭はよく鳴る打楽器になるぞ」
「うるせえ」
「それ、足し引きは禁止?」
「ああ。数字を複数使って2桁や3桁の数にしても良いが、積のみ。分数や階乗も禁止だ」
「2✕35=77(9)」
「77(9)?」
「9進数表記の77」
「アッシャー、ひねり過ぎだ!このバカ!!」
学友は年齢はバラバラだったが、概ね上級貴族の子息だった。学費の高い王立学院で、子供に実用的でない高等学問を学ばせる余裕のある家というのは、裕福な家庭なのだ。
「並べ替えは自由なの?」
「もちろん」
「なら、37✕7=259」
「御名答」
「シャルロット、グレゴリウスなんかの駄問に真面目に付き合ってやる必要はないんだぞ」
「でも、この問題は楽しいわ。解の1桁目から絞って解くのね。よくできてる。グレゴリウス様、345779で作ってみてくださいな」
「なんと。出題者である我に挑戦か!えーっと……」
「そこは即答しろよ。だせえな」
「いや、バルド。答えてないお前が言うな」
男爵家で男兄弟と育ったお陰で、私は物怖じすることなく、年上の男子に交ざって雑談ができるようになっていた。
「53✕9=477」
ただし、物事には限度と節度がある。やってきた相手が誰だかわかった途端に、私は席を立って一礼した。
「合っているかい?シャルロット」
「はい。殿下」
楽にせよの許可の身振りが出ても、下げた視線はそのまま。直接、ご尊顔を拝するのは控える。
これが前世での婚約者であるフェルナンド殿下との、現在の正しい関係だ。
本来は直答も許可がいるが、学院内なのでそのあたりはかなり簡略化されている。
とはいえ!
身分ロンダリングで伯爵令嬢を名乗ってはいるが、元は生まれもわからぬ孤児である。王子様と雑談など気軽にできる身ではない。
私は殿下が現れると、いつも目立たぬようにそっと下がって、殿下と上流貴族の御学友との会話の邪魔をせぬように努めた。
四男とはいえ公爵子息のグレゴリウス様や、侯爵家の長男なのに頭が良すぎて学者になると言って家督を弟に譲ろうとしているアッシャー様は、男同士の気楽さもあってか、相手が殿下でも無頓着に話す。
バルド様は伯爵子息だが、単なる伯爵子息ではなく、北辺の国境を守る辺境伯のお孫さんで、近衛騎士団の団長の息子という軍閥のサラブレッドだ。
親の因果と殿下のもの好きの巻き添えで、こんなところでしたくもない勉強をする羽目になったとぼやいているが、歴史と国際文化と外国語のエキスパートでもある。
前世でも殿下とよくご一緒にいらっしゃったので、一方的にだが面識はある。前世の最期でも不審者から殿下を守ってくださった頼もしいお方なため、私は今世のバルド様にも好感を持っていた。
入学したばかりの頃、知らない方ばかりの学院で、知っている顔がいた嬉しさで、私はついバルド様を目で追ってしまった。見ていると様子がわかるもので、偶然お困りのところをお見かけした折に、微力ながらご助力できた機会が何度か重なった。
相手からしたら、不可解な好意だったろう。しかし、自称、単純思考の筋肉バカのバルド様は、すぐに気さくに学友として接してくださるようになった。
数学と哲学の単位が多いために、同一カリキュラムを受講する同年代の女生徒がおらず、交友関係が作れなくて困っていた私は、バルド様にご友人をご紹介いただいたお陰で、寂しくない学院生活を送れるようになった。
彼の交友関係は広く、ご友人は皆とても賢くて愉快な方ばかりだったが、一つ困ったのは、その中に殿下もいらっしゃったことだった。
そもそもバルド様は殿下の御学友兼警護係として学院にいらっしゃった(本人曰く“蹴り込まれた”)のだから、交友関係の中心人物が殿下なのは当たり前である。
私はできるだけ殿下のお目に触れぬように、お近くに寄らないように気をつけた。なぜなら殿下は年齢を考えるとすでに前世の私と婚約しているはずだからだ。あのときの自分の視点で考えると、この立場で殿下に近づくなんて恥知らず過ぎてとてもできない。
私は同じ理由で、殿下の取り巻きの華やかな貴族子弟との交流も避けた。バルド様はご婚約はまだだそうだが、総じてこの世界の婚約年齢は低い。いらぬ火種にはなりたくなかった。
その点、グレゴリウス様とアッシャー様は、婚約も結婚もしないと日頃から公言しているので気安く付き合えた。曰く、バカな令嬢のお守りはしたくないし、親族からも結婚は期待されていないのだそうだ。相続でもめるもとだから子供もいらないらしい。
少し淋しくはないですかと尋ねたら「自分で選んだ友人と過ごす時間があればそれでいい」と言われた。前前世の価値観ではかれば、そういう生き方も自由でいいと思える。
「では、私は一緒に過ごすに足る友人として選んでいただけるように精進しないと」
「うむ。シャルロットは有意義な会話ができるだけの前提教養と知性を有しておるからな。よく研鑽を積めば我が生涯の友の座に座らせてやっても良い」
「今の時点でシャルロットのがグレゴリウスよりも賢いから、研鑽を積まれたらお前が置いていかれる」
「アッシャー!」
「シャルロットは僕と会話が成り立つ上位存在だぞ。崇めろ」
「お前は神か!?」
「であればシャルロットは天使だ」
「うむ。それには同意する」
「神学的冒涜を含む日常会話はいかがなものかと思いますわ」
「アッシャーがどの層における上位存在かという定義によっては、冒涜に当たらない」
「あら、私、堕天使ですの?」
「シャルロット。まともそうな顔しているけど、実は中身こいつらと同列か、それ以上なのな、お前……」
「バルド様と、同じ色の鳥になれて嬉しいですわ」
「真っ黒かよ」
「堕天使らしい色ですこと」
「バルドは堕天使というよりペテン師」
「エセ紳士であるな。コヤツは。シャルロット、もう三歩離れなさい」
「はい。グレゴリウス様」
「慎み深くしとやかに距離を取ってんじゃねぇ!」
こういう他愛ない日々の会話は本当に楽しかった。二度の転生を経て初の、得難く貴重な交友関係を、私は大切にした。
その日、私は楽堂で新しい曲の練習をしていた。
次回の伯爵家の音楽会で披露する予定の短い聖歌だ。高音部が伸びると美しい曲なので、十分に練習して、きちんと披露したい。
夕暮れの楽堂に気持ちよく声が響いた。ここは音響効果がいいので好きだ。ちょっとうまくなった気分になれる。
サロンでもこれくらい歌えるといいなと思いながら、最後の一息まで吐ききって、歌い終えたところで、楽堂に入ってきた人物に気づいた。
「素晴らしい歌声だね、シャルロット」
「これは殿下……お褒めに預かり恐縮です」
私は深く膝を折って礼をとった。
「こちらをご利用でしょうか。失礼しました。すぐに片付けて空けます。申し訳ありません」
急いで制服のローブや楽譜をまとめて抱える。
「待って。……少し話をしないか」
逃げるように立ち去ろうとした私を殿下は呼び止めた。そう言われてしまうと、「はい、殿下」と言って控える以外ない。
「前から一度聞いてみたいと思っていたのだけれど、君は私のことが嫌いなのかな?」
「いいえ。殿下のことはご敬愛いたしております」
「でも、いつも私のことを避けているよね」
「いいえ、殿下。身分をわきまえているだけでございます」
私は楽堂の出入り口をちらちら見た。他に誰かがやってくる様子はない。
「……今日はバルド様はご一緒ではないのでしょうか」
「気になるのか。君はバルドといるときは、随分楽しそうだよね」
「いつも過分なご配慮を頂いております」
「そう……私も他の友人達と同じように君と忌憚のない意見を交わしたいと思っているのだけれど」
「身に余る光栄です。殿下」
「そういうのはいいから、君はどう思うか、もっと率直に聞かせてもらえないかな」
私はどうしたものかと迷った。
だが、視線を下げたままでも、殿下の声にかすかに苛立ちが含まれているのはわかった。この場ではある程度の発言はしたほうが良いのかもしれない。
「お恐れながら殿下。御身は現在、いくつもの不要なリスクを冒していらっしゃいます」
「もっと平易な表現で」
「承知いたしました。殿下がこのようなひと気のない場所に一人でいらっしゃるのはよろしくありません」
「一人ではない。君がいる」
「わたくしでは、いざという時十全に殿下をお守りできません。単独行動はお控えになり、護衛をお連れください」
もちろん、なにかあれば身を賭して殿下を守る所存ではあるが、というと、殿下は苦い顔をした。
「年下のか弱い令嬢に守られるつもりはない」
「王族としての覚悟と自覚が足りません、殿下。御身の安全は、一臣下の子とは比較するまでもなく優先します。それにわたくしを一臣下、一学友として見ておらず、令嬢として扱うつもりであるならば、このような場所で余人を交えずに会うのはなおさら悪いです」
「そんなことはわかっている」
「では適切な行動を」
「私はただ君ともう少し親しく話してみたかっただけなのだ」
「殿下は婚約しておいでですよね?」
私はあまりしたくなかった話題に踏み込んだ。
「ああ、だが、彼女とは名のみの婚約だ。ほとんど会ったこともない」
「それでも、この行為は、婚約者への配慮に欠ける行いです」
私は殿下の口から、それ以上、前世の自分を軽んじる言葉を聞きたくなかった。この方は自分をそんなふうに見ていたのかと思うと悲しかった。
「実質が何であれ、ゴシップの芽になるような行為は慎まれたほうがよろしいかと存じます。下世話な噂は王室の品格を損ない、求心力を下げます。ご自身だけのことではないとお考えになって行動なさってください」
私はこの方が私のことで陰口をたたかれるのは嫌だったし、前世でお世話になった王妃様にご迷惑をおかけするのも心苦しかった。
「今後は必ずバルド様かどなたかの同席をお願いいたします」
「結局、バルドか」
フェルナンド殿下は、吐き捨てるようにそう呟くと、「もうよい」と言って退出の許可を示す身振りをした。
私は荷物を抱えて、その場を立ち去ろうとして……出入り口の扉のところで足を止めた。
「なんだ」
「戸締まりをして鍵を返す必要があります」
「わかった。ここは私が引こう」
殿下が学舎の方に戻るのを確認してから、私は楽堂を施錠して帰った。
「おーい、シャルロット。ちょっと来い」
「なんでしょう?バルド様」
「いいから、いいから」
雑な呼び出しで連れてこられた談話室には、殿下がいらっしゃった。
「バルド同席だ。これで文句あるまい」
ティーセットの用意は二名分で、バルド様は扉の前に立っていらっしゃるのは同席というのだろうか?
どういう状況なのかと、バルド様に視線で尋ねると、面倒だから合わせてくれと、目で訴えられた。
大人しく席に着いた私に、殿下はたいして内容のない世間話をいくつか語った。私が型通りの返事をしていると、そのうち殿下の話すペースが落ちた。
「違う……こうじゃない」
落胆した顔。
こんなに表情が出る方だったのか。前世では穏やかな笑顔しか見た覚えがない。
「何をお望みでしたか?」
「臣下ではなく学友としての君との会話を」
「それは難しゅうございます」
「そうか……」
退出間際に、ご婚約者様を大事になさってくださいと申し上げたら、とても嫌そうな顔をされた。
前世でのあの穏やかな礼儀正しい笑顔の裏で、この人は他の女性にこんな風に婚約者への不満を見せていたのかと思うと心が沈んだ。
その後も何度か殿下は私との“親しい会話”を実現しようとなさり、その度に私は丁寧に消極的辞退をした。
私と殿下のそんなやり取りを、グレゴリウス様は面白がり、アッシャー様は無関心にスルーし、バルド様は同情的に見守った。
「少しはバルド様からも殿下をお諌めください」
「あー、俺の立場からだとちょっと微妙というか、火に油を注ぐというか、難しいんだよなぁ」
「フェルナンドはバカ」
「アッシャー!」
「我から言ってやろうか」
「言い過ぎる未来しか見えないからやめてくれ、グレゴリウス」
「うちのシャルロットがこれだけ言っても聞かんのだ。少々言いすぎなぐらい言ってやったほうが良かろう」
「全然、良くない。……まぁ、殿下もじきに卒業だ。卒業すれば会う機会はなくなるから大丈夫だろう」
もうそんな時期が来るのかと、私はしみじみと感慨にふけった。
「バルド様もご卒業ですね」
「上手くいけばな」
「…………まさか!卒業単位が足りないんですか!?」
「次の試験と提出論文で頑張ればなんとかなる」
「どうしてそんなことに!」
「家での朝練と、休日の騎士団でのシゴキがキツくて、朝の講義がいくつか……その……」
「自主補習をしましょう!」
「うぇえ!?」
「歴史と外国語がお得意ということは暗記はいけますよね?詰め込みましょう」
「ど、どうやって?」
「毎日、勉強時間を定めて強制的に勉強するんです」
「勉強は今でももうやっているから……それに基本的に殿下についていないといけないから、そんなにまとまった自分の時間は取れない」
「と言いつつ、毎日ここにこうして遊びに来ているのはなんですか」
「いや、それは」
バルド様は視線を泳がせた。
これは一人にしておくとダメな人だ。
「時間がないならなおさら効果的に勉強する必要があります。効率の悪い学習は成績につながりません。学習法をお教えします」
「面白そうであるな。我も協力してやろう。この部屋は好きに使うがよい」
「僕もシャルロットの学習法、聴きたい。アホのバルドをしごくの手伝うよ」
「お前らは受けてない科目だぞ」
「知識は持っていてじゃまにならないからな」
「僕ら、まだ専科に残るから卒業しないし、そもそも単位は足りてる」
「心強いですわ」
「悪夢だ……」
かくして、“バルドを卒業させる会”、通称“黒鳥会”が発足した。
いつも雑談に使っていた部屋……公爵子息のグレゴリウス様のお陰で使わせていただける高位貴族用談話室で、私達は勉強会を始めた。
私は大学受験的勉強法を、バルド様に伝授した。
チャート式参考書などないこの世界で、図表化してビジュアルにわかりやすく資料をまとめるというテクニックは特殊能力だ。
幅の広い紙に、各国の歴史を同一時間軸でまとめた資料を作ってみせると、バルド様は目を丸くした。
婚姻、親子関係を表す系統図もこちらの世界では表記法がなかったので、自国内貴族、王族及び近隣各国の支配層の血縁関係図を整理して図示してみせると感激された。
語呂合わせという文化もないので、数字を音で別の言葉から連想するという概念から説明するのは面倒だったが、一度、要領を覚えてもらえば、年号暗記は捗った。
「この無駄に多い各国王朝名と王族名は、もう歌にして覚えましょう」
「歌!?」
「よく知っている曲の歌詞の代わりに語を並べて歌うと、ただ言葉を暗記するよりよく覚えられます」
元素や中国王朝名は、転生2回しても覚えている。まったく使い道はないが。
「よくわからんな。例えばどういう感じなんだ?」
私は、前世で詰め込み暗記のためにこっそり作った歌をいくつか歌ってみせた。バルド様はこの替歌暗記方式を気に入ってくださったようで、その後、何度も私に歌ってほしいとリクエストした。
「ご自分で作って歌うのが一番覚えられますよ」
「君の歌声で覚えるのが一番頭に入る」
丸暗記用の語の羅列の音韻を既存の有名曲に合わせるという命題は、グレゴリウス様やアッシャー様もいたくお気に召されたようで、私はお二方が作った替歌を次々と歌わされた。
「こんな歌詞なのに、シャルロットが歌うと、天からの妙なる調べに聞こえるのが面白い」
「流石、天使の歌声」
「不規則変化表で聖歌って、神学的に大丈夫なんだろうか」
「聖歌の聖なる部分は歌詞ですから、曲は問題ありません」
「サビのリズムが単語と完全一致するのが気持ちいいだろう」
「才能の無駄遣いだ」
「全部お主のためなんだぞ、バルド。無駄にしないでキリキリ覚えよ。聖歌が嫌なら俗謡で作ってやる。シャルロットに歌わせたい曲を選べ」
「ご自分で歌うのが一番覚えられるんですってば!」
「わかっておらぬな、シャルロット。野郎が野太い声で歌う声より、女子の声の方が圧倒的に男の脳には染み込むのだ」
「グ……グレゴリウス様からそんなお言葉が出るとは意外でした」
「バルドをサンプルとした平均的男子の行動から分析した一般論だ」
「標本1点で統計を取るな。でも、僕もバルドの歌よりもシャルロットの歌のほうが聞きたい」
「もー。歌うと言ってもこの部屋では小声で口ずさむぐらいしかできませんからね」
「それでよい」
「うん」
「むしろ、それがいい。こいつらに聞かせる必要はないから、耳元で小声で歌ってくれ」
結局、暗記用替歌は、毎回、私が歌わされた。
次回、卒業。(できるといいね)