89、切れなかったカード
「――失礼いたしました」
ロウラントが戻ってきた。表面上はいつもの冷静さを取り戻していたが、右の拳が真っ赤になっている。治す余裕すら欠いているようだ。
「殴った壁は後で修理してね。それで話の続きだけど、ルテア皇妃には父上以外に恋人がいて――」
「どういう話になってるんですか……」
椅子に座った途端、頭を抱えるロウラントを無視して、カレンは話を続ける。
「母上の幼馴染である先生もそれを知ってたんだね。……姉上の脅しのネタはそれ?」
フレイは小さくうなずいた。
「ああーもう! イヴ姉上は人が悪いなあー。これ以上切れるカードはないとか言ったくせに」
イヴリーズはあれほど追い詰められながらも、一番の切り札をやはり隠していた。
「さすがロウの姉上だけあるよね。ホント計算高くて性格悪いんだからっ!」
そして家族への愛情が人一倍深いので嫌いになれない。むしろ大好きだから困る。
「……私はカレン様が、皇家の血を引いていない可能性をずっと考えてきました」
カレンが皇帝の子でなかった場合、皇家の血を飲めば生死に関わる。フレイが慌てた理由はそれだ。
ロウラントが前のめりになる。
「待ってください! それならスウェンは!?」
「はい。おそらく皇家の血は継いでいません」
「そうか……あの二人は互いに血の繋がりがないことを知って――」
ロウラントが脱力したように天井を仰いだ。
「イヴはカードを最後まで切らなかったのではなく、最初から切るつもりはなかったということか……」
カレンの脅しにルテア皇妃の秘密を持ち出せないのは当然だ。それは恋人であるグリスウェンの破滅に繋がる。
「あちらはスウェンが皇家の血を持たないことは把握しているようですが、殿下が真の皇女である事実は知りません。その点こちらに不利はなくなりました。……よくそこまで一人で考え至りましたね」
「実はアンフィリーネ皇妃の件を聞いた時から、少し疑問に思ってたんだよね。不倫が見過ごされやすい環境なら、他の皇妃にだって可能性はあるんじゃないかなって」
「……確かに出自の怪しい皇族は、歴史上にも少なくありません」
ロウラントが複雑そうな表情で言う。
「私も皇女じゃないかもって考えたら、ちょっと怖かったけど、こういうことはすっきりさせた方がいいじゃない? だからロウが怪我した時に使った、血の付いたハンカチを持って帰ったの。少し舐めて試すくらいなら大丈夫かなーって」
「だからどうして、気軽に人の血を舐めるんですか!?」
「犬みたいに言わないでよ」
カレンは唇をとがらせる。
「それにあの二人の関係って、やっぱり引っかかるもん。二人の性格からして、禁断の愛に酔って、互いの立場を危うくするとか考えにくいじゃない?」
「確かにイクス教の教えでは近親相姦は大罪です。教団が刑罰の執行権を握っていた時代なら、確実に死罪でしょうね」
父ディオス皇帝の改革によって、教団はいくつかの特権を取り上げられている。経典法に背く者への刑罰の執行権もその一つだ。現在は教団の訴えを、地方領主や宮廷法院が精査する形で、罪状が確定し刑の執行がされる。
「死罪って……そんなあっさり言わないでよ。でもほら、今は時代が違う訳だし、どっちにしても姉上たちはその一線は超えてないんだから……」
「さあ、どうでしょうね。公には実の姉弟とされているわけですから。殺されないにしろ、どこまで無事に済むかはわかりませんよ」
無情なロウラントの言葉に、フレイが沈痛な表情で青ざめる。
「その辺りはどうでもいいことです。こちらに不利はないのですから。妊娠の秘密を握っている分、むしろ殿下の方が優位にある。結構なことじゃないですか」
ロウラントが冷ややかに吐き捨てる。事情がはっきりしたところで、混乱が一転して怒りに変ってきたのだろう。
自分の知らぬところで、結果的に血の繋がりはなかったとはいえ、姉と弟と呼んだ二人が恋人同士になっていた上、子供まで設けていたのだ。心の内が複雑なのは仕方がない。
とはいえ、馬上槍試合の日の自分も、こんな感じにやさぐれていたのかと思うと居たたまれなくなってくる。
「ロウ……そろそろ落ち着いて。あと、そのどっちが優位とかいう話もやめようよ。姉上たちはそれどころじゃないんだから――」
「俺の知ったことじゃありませんね。自分で自分の首を絞めた馬鹿共のことなんか。文字通り自分たちのまいた種だ。放っておけばいい」
あまりに遠慮のない言葉に、カレンは少し身を引く。いつものロウラントに戻るまで、これは時間がかかりそうだ。
「……私もそう思います」
「せ、先生まで……」
「カレン様が皇家の血を引くのなら、道を阻む事情はもうありません。皇太子にふさわしいのはあなたです。自業自得である私や姉君のことは捨て置き、ご自分を優先すべきです」
「捨てるって……そんな真似できるわけないでしょ!?」
フレイは静かに首を振った。
「私にはずっと不貞を隠し続けていた罪があります。結果的にカレン様は陛下の御子でしたが、グリスウェン殿下の人生を狂わせた、私の責任は大きい……。それにカレン様を裏切ったのは事実です。これ以上ぬけぬけとお仕えするわけには参りません」
その強固な意志を感じ取り、カレンは小さく息をつく。
「……だったら、せめて教えて。スウェン兄上の本当の父親は誰? 母上の友達だった先生なら、その人を知ってるよね。まさか手引きしたのって――」
フレイはいつもの穏やかな笑みを浮かべたまま、きっぱりと首を振った。
「ルテアは私の友人などではありませんよ」




