87、裏切者
その日は前日から降り続ける雨のせいで、招かれていたお茶会の予定がなくなった。やることがなくなったカレンは、書斎で溜まり溜まった手紙の整理をしていた。
続きの間では、フレイが各所から送られてきた贈り物を仕分けている。小物からドレスの生地に至るまで、今のカレンの元には売るほどの量が贈られてくる。さすがに売りさばくわけにはいかないが、余った物は寄付として、救貧院や孤児院への支援に充てることになる。
必要な手紙と、そうでない物に分けていると、フレイが時折カレンの趣味に沿いそうな物を見せに来る。
「――こちらの帽子は、先日お仕立てになった空色のドレスに合うかと思います。こちらの扇はどうしましょうか?」
「じゃあ、これとこれは取っておいて」
ノックの音が響き、返事を返すとロウラントが現れた。続きの間に戻るフレイと入れ違いに、カレンの机の前に立つ。
「代筆の手紙はこれで全部です。確認をお願いします」
「ありがとう」
ロウラントには手紙の代筆を頼んであった。カレンの場合、文字を書くことに自信がないこともあるが、身分の高い者が膨大な手紙に返事を出すため、従者や侍女に代筆を頼むのはよくあることだ。
馬上槍試合の日以来、ロウラントとは表面上はいつも通りに付き合っているが、確実に壁ができてしまった。
ロウラントは試合でひどい怪我を負ったが、離邸に戻るとすぐに自らの『祝福』で治してしまったので、体の方に問題はない。それなのに些細なやり取りすら、どこか動きがぎこちないのは、多分気のせいではないだろう。
もはや「職を辞す」と言われても仕方ないと覚悟していたが、ロウラントがあの日のことを話に出すことはなかった。知人とやらの義理だけで、カレンの元に留まっているのかもしれない。
「――ロウ」
「はい」
「こっちの手紙の束を全部開封して、目を通して。必要なら私に寄越して」
「わかりました」
新たな指示にも、ロウラントは淡々と応じる。
手紙の束を手に、自室へ戻ろうとするロウラントを呼び止める。
「――待って。ここでやって」
カレンがペーパーナイフを手渡すと、ロウラントはかすかに怪訝そうな目を向けたが、無言で手紙を開封していく。
しばしした後、ロウラントが小さくうめいた。
「何だ……これは?」
ぱたりと、ロウラントの指先から血が滴る。
「どうしたの?」
「……手紙の中にこれが」
ロウラントが封筒から何かを慎重につまみ上げ、机の上に置いた。薄く小さいガラス片だ。
「宛名はありません」
「――先生、ロウが指切った! 何か傷を押さえる物持ってきて!」
カレンは続きの間へ呼びかける。
ロウラントが小さく舌打ちし、眉をしかめる。
「くだらない真似を……開封したのが俺で幸いでした」
「傷を見せて」
カレンは立ち上がり、ロウラントの手を両手で包む。
「たいした怪我では……もう塞ぎましたよ」
ロウラントの言葉通り、指先は赤く染まっているが、それ以上の出血はなさそうだ。
「……殿下?」
カレンはロウラントの傷跡をまじまじと見やってから、深紅に濡れた指先に唇を寄せた。
「なっ……」
軽く指を食み、舌で血を舐め取る。鉄さびじみた味が口内に広がった。味わうように唇についた血を舐め上げる。
視線を上げると、ロウラントが凍りついたように固まっていた。
「――何をしているのですか!?」
やって来たフレイが突然声を荒らげ、二人を引き離すように割って入る。フレイに突き飛ばされるように、押しやられたロウラントだったが、それでもまだ状況を把握していないのか茫然としていた。
カレンの肩を掴み、フレイが見たこともない険しい視線を向ける。
「血を飲んだのですか!? すぐに吐いて! 早く!!」
「どうして?」
「……え?」
動揺するフレイに対して、カレンは静かな口調で問う。
「どうしてそんなに焦ってるの、先生? 皇族の血を私が飲むと何かまずいの?」
「それは……」
目に見えて狼狽するフレイの肩をカレンは軽く叩く。
「落ち着いて。私には血の毒は効かないよ。――だって私は皇女だから」
唇をわななかせ、動揺に震え始めたフレイをしばし見やってから、カレンは小さく嘆息した。
「ちょっと休憩にしようか。――ロウ、お茶準備して」
立ち尽くしたままだったロウラントが、ぎょっとしたようにカレンを見る。
「うん、ガラスを仕込んだのは私だよ。怪我させてごめんね。……そんなに痛かった?」
「いえ、それは別に……」
カレンは腰に手を当てて、「はあー」と大きくため息をつく。
「……舐められたのがそんなに嫌だったの? 悪かったけど、動物か何かに嚙まれたと思って諦めてよ。ほら、さっさと手を洗ってきて」
「そ、そういうことじゃないでしょう!? 何をしてるんですか!?」
声を上擦らせるロウラントを、カレンは呆れたように見る。
「だからー、これからそれを説明するんだってば」
「だって……普通……」
ロウラントが言葉を失ったように、額を押さえたままがっくりとうなだれた。
カレンはふと悟り、ぱちんと手を打つ。
「大丈夫! 私、病気とかないよ」
「だから、そういうことじゃない!!」
なぜか怒鳴られて、カレンは釈然としない気持ちになる。
「どうして……」
フレイがうつむいたまま、くぐもった声で問う。
「……どうして私を試すような真似をしたのですか?」
「先生をっていうか、私は二人を平等に試したつもりだよ。だって先生かロウのどっちかが、私を裏切ってるのは確実だったし」
その言葉に、ロウラントがまた信じられぬものを見る目を向ける。
「でも……そうだね。人を試すのって気分よくないね」
ロウラントとフレイを正面から見据えて、カレンは微笑んだまま聞く。
「じゃあ正直に自分から告白して。――私を裏切ったのはどっち?」
しばしの間の後、フレイが青ざめた顔を上げた。




