86、捧げられた花冠
「――殿下方に恨みつらみをぶつけても仕方ないでしょう! 他人を恨もうと、失われたものは返ってこないのですよ!?」
「わたくしの気持ちなど、あなたにはわかりません!」
カレンは息を飲む。天幕の隙間から垣間見えたのは、言い争う二人の皇妃の姿だった。思えば、なれなれしい態度だったのはイゼルダだけで、ベルディ―タはそんな彼女から少し距離を取っていた。
第一皇妃である母イゼルダを、ロウラントはあからさまに避けていた。もしかすると彼女も息子が健在であることを知らないのでは、という疑惑がよぎる。
本来ならランディス皇子は、家柄でも他の兄弟姉妹に引けを取らず、知略も武勇もイヴリーズやグリスウェンといい勝負だ。第一皇子として生まれた息子に、母が掛ける思いは大きかったはず。
一方ベルティータは、六人の皇妃の中で最後に輿入れをしたが、ついに子供を設けることはできなかった。彼女も七家門ほどではないが、古い名家出身と聞いている。その期待が大きかった分、唯一子供を持てなかった心の内は想像がつく。
この過酷に立場が入れ替わる皇太子争いを、一番冷ややかに見ているのはベルディ―タかもしれない。
カレンは天幕からそっと離れた。
皇妃たちの悲痛な叫びが耳にこびりついている。宮廷にいる限り、ずっとあんな声を聞かなければならないのだ。あらぬ疑いをかけられたとき、ミリエルが『疲れた』と言った意味が、今ならわかる気がした。
観客席まで戻ると、闘技場の中心で優勝者のグリスウェンを中心に、人だかりができていた。騎士団の団員だけでなく、貴族の子弟らしき若者たちからも、親し気に肩を叩かれている。彼の人気の高さがよくわかる。
周辺では、そんな皇子の姿に頬を赤くし、ぽうっと呆けた様子で見つめる令嬢たちの姿があった。
「遅いですよ、カレンお姉様!」
振り向くと、腰に手を当て仁王立ちになっているミリエルがいた。その後ろにはミリエルの侍女と共にフレイの姿もある。
「ミリー! フレイ先生も一緒だったんだね」
「すぐにお側に参れず、申し訳ありませんでした。」
フレイがしょんぼりした顔で頭を下げた。
「しょうがないよ。この人だかりだもん」
「お姉様の侍女がウロウロしていたから、わたくしが声をかけて差し上げました」
「そうだったんだ。ありがとう」
「それよりどうでしたか? その……お姉様の従者の様子は」
「うん、たいしたことなかったみたい」
本当はまずまずの怪我だが、結果的にすぐ治るので、ひとまず大事ないことにしておく。
「……それならよかった」
ミリエルがほっとしたように息をついた。
「ミリエル殿下、花冠が兄君に渡りましたわ!」
侍女の言葉に、カレンも闘技場に目を向ける。
グリスウェンが手に持った花冠を頭上に掲げると、ひと際大きい歓声と、黄色い悲鳴が上がった。『勝者の花冠』は優勝者の手に渡った後、その人が敬愛する女性に贈られる習わしだ。
大抵は妻など身内の女性や、主君である貴婦人に捧げられるが、未婚者が恋人や密かに思慕する女性に渡せば、そのまま妻問いと見なされることもある。時期皇太子と目され始めた皇子から、花冠を贈られることを期待する令嬢は多いだろう。
「スウェンお兄様はどうなさるんでしょうね?」
ミリエルが悪戯っぽい笑みをカレンに向ける。
遠目から見ても、グリスウェンは困惑した顔で若者たちに冷やかされていた。彼は辺りを見渡し、ふと視線を止める。柵に身を乗り出したミリエルを見つけると、グリスウェンはにこやかに手招きする。
ところがミリエルはわざとらしくそっぽを向いた。侍女たちがその様子に扇の影でクスクスと笑う。
「わたくしで誤魔化そうなんて、そうはいかなくてよ! わたくしの騎士はお兄様に負けたんですもの。少しお困りになればよろしいのです」
ふふん、とミリエルは人の悪い笑みを浮かべた。
この状況で適当な令嬢に花冠を渡せば、後々問題になるのは目に見えている。グリスウェンは身内でまだ子供のミリエルに渡すのが、一番角が立たないと考えたのだろう。
当てが外れたグリスウェンは呆然とし、その姿が周囲の人々の笑いを誘う。カレンもあらかじめグリスウェンと目が合わないように、明後日の方を見る。準優勝者の主であるカレンに、労いをこめて花冠を捧げるのも自然な流れではあるが、それはそれで今は気まずい。
グリスウェンは花冠を捧げる相手を、なかなか決められないようで、促すように青年たちから手拍子が上がる。
闘技場に視線を戻すと、冷やかしてくる周囲の青年たちを、渋い顔で小突き返すグリスウェンの姿があった。周囲を見渡していたグリスウェンの視線が、ふとある一点で留まる。
それは一陣の風が雲を吹き払うような瞬間だった。グリスウェンの顔に晴れやかな笑みが広がる。見たことのない兄の表情にカレンはどきりとする。
グリスウェンは花冠を持ったまま、観客席の方へと歩いていく。ひらりと柵を乗り越えると、そのまま真っ直ぐに、客席にいた一人の女性の前に進み出てすっと跪く。呆気にとられた様子で、そこに座っていたのはイヴリーズだった。
「――尊き御身に花冠を捧げる名誉を賜りたく存じます」
グリスウェンは闘技場に響き渡る朗々たる声で、形式に乗っ取った古風な口上を告げる。
『しかたないわね』といった様子で、イヴリーズ笑って肩をすくめるのが見えた。グリスウェンから差し出しされた花冠をすんなりと受け取る。拍手と共に、「結局姉君か」と周囲からからかいの言葉が飛び交った。
しかしカレンはイヴリーズが花冠を受け取った瞬間、微笑んだまま泣き出しそうに唇を噛み締めたことに気づいてしまった。熱っぽい眼差しで、一心にイヴリーズを見つめるグリスウェンにも。どれほどあの二人が互いを想い合っていたか、今まで気づかなかったのが不思議なくらいだ。
(私には、やっぱりあの二人を引き離せない……)
カレンは目の前の柵をぎゅっと握る。
そのために何をすべきか、カレンの心にある決意が固まりつつあった。
「カレン様? どうかなさいましたか?」
物思いにふけるカレンにフレイが不思議そうな面持ちを向ける。カレンは弱々しく笑った。
「ちょっとね……もう選帝会議まで時間がないのに、自信がなくなっちゃった」
「カレン様の努力は私がよく知っております」
フレイがいつものたおやかな様子に似合わぬ、毅然とした口調で言った。
「この半年でよくここまでご立派になりました。これからもきっとカレン様は多くの人に愛されます。――あなたは私の希望です」
その言葉にカレンは立ち尽くしたまま、込み上げる感情を堪えるようにドレスの胸元をつかむ。
「……ありがとう、フレイ先生。私もこれで覚悟を決められる」
フレイは慈しみを帯びた眼差しで、しっかりとうなずいた。
その帰り道、すっかり試合の熱が冷めやらぬ様子で、熱く語るミリエルに相槌を打ちながら、カレンは密かに決意を固めていた。
イヴリーズには悪いが、やはり皇帝を目指す道を諦めきれない。その上で兄弟姉妹全員を守ってみせる。他の誰でもない自分がやらなくてはいけないことだ。
そのためにはまず自分の身辺を整理しなくてはならなかった。疑惑を抱えたまま前には進めない。
まさかこんな日が来るとは思わなかった。ずっと側にいて、カレンにたくさんのものを授け信頼していた者を、いざとなれば切り捨てる決断を迫られるなど。




