5、従者の憂鬱
ロウラントが地下の厨房に降りると、すでに窯の火は落とされていた。思えば、夕食の時間が終わってからずいぶん時間が経っている。料理人はすでに引き上げたのか姿はなく、下働きの少女らが床を磨いていた。
同じ主人に仕える身とはいえ、皇女付きの従者で騎士位にあるロウラントと、厨房メイドでは身分に大きな差がある。少女たちはロウラントの姿に気づくと、弾かれたように立ち上がり、礼を取るとそそくさと立ち去って行った。水を飲みに来ただけなので、作業を続けるよう声をかけようとしたが、少し頭を冷やしたかったのでそのままにした。
ついでに何か軽食でも失敬しようかと、厨房の奥の食糧庫へ足を向ける。すっかり夕食を食べる機会を逃してしまった。もちろん『ダメ元だけど、やるだけやってみよう』などと、能天気にのたまった少女のせいだ。
カレンディアの部屋を辞してすぐ、ロウラントは自室の戻った。夜会までに彼女が覚えるべき貴族の名前と特徴を、一日中書きつづっていたのだ。最低限に絞るにしても、百人以上はいるだろう。今晩は間違いなく徹夜だ。
そもそも彼女がそんな膨大な情報を詰め込めるか怪しい限りだ。あの軽そうな言動を見ている限り、頭の出来はディアと大差なさそうだ。
大人しいだけで毒にも薬にもならぬ、みそっかすの《ひきこもり姫》。それがロウラントや、宮廷の人々のカレンディア皇女への評価だった。
それなのに、昨晩寝付いてからの数時間で何があったのか、彼女はまるで別人のようになってしまった。昨日の夕方から『頭痛がする』と寝室にこもっていたのは知っていたが、カレンディアのひきこもり癖は今に始まったことではないので、特に気にしていなかった。……やはり頭か何かの病気だろうか。
ふと厨房から人の気配がしたので振り返ると、フレイが立っていた。
「これは……ロウラント様」
ロウラントが手にした、残り物のパンを目にして、彼女はおかしそうに笑う。別にやましいことをしているわけではないが、ロウラントはばつが悪くなる。
フレイはその少し変わった経歴のせいか、感情の振れ幅が少なく、人というより、樹木や彫像でも相手にしているかのような気分になる。穏やかだが、どこか人の心を見通すような眼差しが、ロウラントは少し苦手だった。
「……夕食を食べ損ねました。フレイ先生は?」
「大丈夫です。私はカレン様のご相伴に預かりました」
「殿下は?」
『あれ』を殿下と呼んでいいものかわからなかったが、他に呼びようがないので割り切ることにした。
「明日に備えてもうお休みになるそうです」
あの中身の怪しい皇女様は、人があれこれ悩んでいる間に、きっちり夕飯まで食べて寝たらしい。彼女の話の通りなら、見ず知らずの世界に飛ばされて間もないはずだが。最初から神経の細い人間とは思えなかったが、なかなか豪胆――いや、はっきり言って図太い。
「お茶をいただこうかと思ったんですが……」
すでに冷たくなっている窯をちらりと見た後、フレイは戸棚を探り始める。調理台の上に小さなグラスを二つ置いた。
「いい物がありました。一緒にいかがですか?」
フレイはワイン瓶を持って微笑んだ。
「せっかくですが先生、これから徹夜で作業しないと。夜会で殿下と接触しそうな方を、書き出している所なんです」
その言葉にフレイが気まずそうな笑みを浮かべた。
「実はお休み前にカレン様と話していて、気が付いたのですが……その」
おっとりとした性格だが、有能な彼女らしからぬ歯切れの悪い言い方に、嫌な予感を覚える。
「カレン様は文字が読めないようです」
「……は?」
食べかけのパンが、ロウラントの手からポロリと零れ落ちた。
「いや、だって言葉は通じているのに……」
「ええ、不思議ですよね。でもやっぱり、カレン様が嘘をついているようには見えませんでした」
その理由もありませんし、とフレイがため息をつく。
もう何度目かわからないが、ロウラントは頭を抱えたくなった。元々今度の夜会がうまくいくとは期待していない。それでも無能や無作法は、『ひきこもりだったから』という理由で誤魔化せる。だが文字が読めないとなると、さすがに頭の具合を疑われだろう。即、皇太子候補から外されてもおかしくない。
「とりあえず詩の朗読は、耳で覚えていただくしかないですね」
「……俺の今までの作業は、無駄だったというわけですね」
文字が読めないのであれば、いくら文章で貴族たちの特徴をまとめても意味がない。
「あの……飲みますか?」
怒りとも絶望ともつかぬ感情に捕らわれているロウラントに、フレイがワイン瓶を掲げて恐る恐る声をかける。
「いいえ」
ロウラントはつかつかと厨房を横切り、戸棚の下を探る。粉石鹸や掃除用のブラシが入れてあるさらに奥から、茶色い瓶見つけ出す。料理長秘蔵のブランデーだ。
「――これで」
強い酒でないと、このやり場のない感情を流すことはできないだろう。
次々と水を干すように、強い酒を煽り続けるロウラントを、フレイが茫然と見ていた。
「あの……ロウラント様、大丈夫ですか?」
「はい。幸いほとんど酔わない体質なので」
それでも飲まなければやっていられない。自らを痛めつけるように喉に酒を流し込む。焼けつくような痛みで少し怒りが紛れた。
「お気持ちはわからなくもありませんが……」
フレイもゆっくりだがグラスを傾け続けている。離邸の主である皇女が、酒類をほとんど口にしないのをいいことに、こっそり高級酒をくすねていた料理長には気の毒な話だ。
「先生は長い間、修道院で過ごしていたと聞いています」
「はい、レイローグ女子修道院で育ちました。宮廷に比べれば質素な食生活で、お酒の類は食事時にほんの一杯ワインを口にするくらいでした。……私も元々お酒に強い体質なのでしょうね」
ロウラントの言わんとしていることを察したのか、フレイは顔色をまったく変えぬまま微笑む。
「レイローグ修道院……カレンディア殿下が宮廷に残れなければ、いずれはそこに送られるのですね」
「そうです。あの方にとっては母君が育った場所でもあります」
カレンディアの母、今な亡き第三皇妃ルテアが修道院の出身であるのは有名な話だ。
レイローグ女子修道院は、継承権争いに敗れた皇女が送られる、外界から隔てられた孤島にある修道院だ。二度と表舞台に戻れない皇女を幽閉するのに、うってつけの場所だった。
そのような所ゆえ、皇女だけでなく訳ありの貴族令嬢が送られてくることも少なくない。ルテア皇妃は親を早くに亡くし、厄介払いに遠縁の手で修道院に送りこまれたと聞いている。
一方フレイはというと、北方の国タルタスの出身で、幼い頃に政変で荒れた故郷から逃げ延びてきたと聞いている。幼くして運命に翻弄され、最果ての地へ送り込まれた少女たちが、強い友情で結ばれたことは想像がつく。
「レイローグ島は小さな島で、どこにいても波の音が絶えず聞こえてくる、穏やかな場所です。春には島全体に花が咲き乱れ、宮廷の人々が噂するような不毛な地などではありません。でも私はできることなら、ディア様には日の当たる場所で様々な物を見てほしかった。……だって一度きりの人生なのですから」
フレイは淑やかな彼女だが、ときどきその心の奥にある、毅然とした強い意志が垣間見える時がある。複雑な人生を送る彼女は若く見えるが、ルテア皇妃の幼馴染であるのだから、それなりの年齢は重ねているだろう。
「一つ不思議に思っていたのですが……」
ロウラントはいい機会だと思い切って切り出す。
「フレイ先生はいいのですか? あなたは親友の娘であるから、カレンディア殿下に仕えていたのでは? 」
カレンディアと話している間。ずっと心の片隅に疑問があった。――本物のカレンディア皇女の魂はどういう状態にあるのかと。
『多分私死んじゃったんだよね』などと、カレンはあっけらかんと言っていた。単純に推測すれば、魂の位置が交換され、カレンの遺体にカレンディア皇女の魂があるのではないだろうか。つまりカレンディア皇女の魂が、二度と戻ってこない可能性も高い。
そしてフレイは肩書に惹かれて、皇女の側仕えをしているわけではない。出世とは無縁な皇女の指南役を引き受けたのは、親友母子に対する『親愛』が唯一の理由であるはずだ。
「こうなってしまっても、先生は殿下にお仕えし続けるのですか?」
フレイは目を瞬かせ、きょとんとした顔で見返してくる。
ロウラントは言葉を選びつつ言う。
「あの……つまり、今のカレンディア皇女は昨日までの方とは別人です。カレンという少女の魂があの体に宿っているということは、ディア様の精神がどういう状態にあるのか心配ではないのですか? あなたが今まで通り、お仕えする義理はないはずです」
「え? ああ……そういうことですか」
フレイはようやく得心がいったように、何か含みのある笑みを浮かべた。
「でも、ちょっと驚きました」
「何がですか?」
「ロウラント様はカレン様の言葉はすべて信じていたのですね」
「え……」
今度はロウラントが呆ける番だった。
「先生は違うのですか……だって」
カレンのことを、明らかに自分たちの知るディアとは違うと言い切ったのは彼女だ。ロウラントは自分の頬が熱くなるのを感じ、思わずフレイから顔を逸らす。これでは、カレンのおとぎ話のような言い分を鵜吞みにした、自分がマヌケではないか。
「ええ、あの方が昨日までのディア様と違うことは間違いありません。そしてカレン様の言葉に嘘もないと思います」
羞恥にかられるロウラントを取りなすように、フレイは言う。
「以前ディア様がおっしゃっていたんです。何かに挑戦しようとすると、急に目の前に靄がかかって、うまく頭や体が働かなくなると。ディア様が何もかも諦めてしまったのは、ここ数年……それまでは、確かに不器用な方ではありましたが、努力は怠ってはいませんでした。私も練習ではできていたことが、いざ人前ではできなくなるのが不思議だったんです」
「精神的なものでは?」
あがり症の人間ならあり得ることだ。
「私もそう思っていました。でも、ここ数年その傾向が顕著で、以前はできていたことすら、できなくなってしまっていて……。ディア様の人嫌いもひどくなるばかりでした。だから今はディア様の言う靄が解け、ようやく本来の状態に戻ったのではないでしょうか」
「そんなことがあるのか……」
得心はいかなかったが、確かにディアの不器用さは呪われているのでは、と思えるくらいひどかった。他の兄弟姉妹たちが優秀なだけに。
「まあ……精神が異世界から飛ばされたという言い分よりは、信憑性があるかもしれませんね」
「それに私は今のカレン様も好きです。私を慕ってくれる、信頼の眼差しは今までと何も変わっていませんから」
自らの言葉を噛み含めるように、フレイは幸せそうな笑みを浮かべる。前々から思っていたが、この人は親バカならぬ、相当の先生バカだ。親友の愛娘とはいえ、あの取り柄のないカレンディアの長所を、こじつけてでも見出すあたり、善人を通り越して、はっきりいって酔狂の域だ。
そして自分も他人のことは言えないな、とロウラントは密かに自嘲する。
元々カレンディアに仕えるようになった経緯は、ある人物からの頼みだったからだ。先行きが明るくない皇女とはいえ、建前上はそれなりに側付きの人間を置く必要がある。ロウラントは騎士階級であり、貴族社会では末端に位置する。それでも《ひきこもり姫》には十分事足りる人選だろう。
選帝会議が終わればお役目御免。暇を持て余していた身には調度よい退屈しのぎ、のはずだった……。しかし待っていたのは、人生で最も不毛と言っていい日々だ。自分の仕える皇女のあまりの不出来に、いっそ職を辞して逃げ出そうかと、半ば本気で考え始めていたところだった。
そこへ来て、《ひきこもり姫》が狂人に成り代わるという、絶望的な状況だ。ここで逃げても言い訳は立つだろうと思う反面、自分の中に妙な好奇心が沸き立つのも、否定し切れなかった。
皇帝を『夢と希望の化身』と称した時のカレンが、なぜか頭から離れない。まるで宣託を告げるような確固たる口調は、それまでの頭の軽い小娘の物言いとは別人だった。瑠璃色と茜色が混ざり合う瞳は、夜明けの空を想起させ、何かが始まる前触れのように、背筋がぞくりとした。
困惑しているのも、面倒なのも嘘ではないが、カレンの言う通りどうせ駄目で元々だ。失う物はない。あそこまで豪語したあの少女が、どこまでやれるか見てみたかった。
「……主が主なら、我々も気狂いなのかもしれませんね」
思わず口を突いてから、さすがに年上の婦人に失礼な言葉だったかと思ったが、フレイは意外にも楽しそうだった。
「はい。どうせなら、とことん今のカレンディア様を信じてみましょう」
ロウラントは引きつった笑いを浮かべながら、フレイが掲げたグラスに自身のグラスを重ねた。