84、揺らぐ信頼
闘技場付近には、出場者ごとに設けられた天幕があった。自分の天幕に戻ったロウラントは、兵士たちの手を借り重装備をすべて取り外すと、椅子に座り、ぐったりとうなだれていた。兵士が医官を呼びに天幕から出ていく。
カレンはロウラントの髪がじっとりと濡れていることに気づき、ハンカチを当てる。見る間に血に染まる痛々しさに、唇を噛み締める。
「……うかつに血に触るなと言ったでしょう」
まだ本調子には遠いらしく、ロウラントの声にはいつもの覇気がない。
「治さないの?」
「折を見て適当に回復します。今はこのままにしておかないと、医官が不審に思います。……あれだけ派手に落馬しましたしね」
ロウラントの怪我は勝手に治るというものではなく、自分の意志で調整できるらしい。つまり意識を失った場合、回復ができないということではないだろうか。過信すれば、危険を伴う能力だ。
カレンは腰に手を当てて短く嘆息する。
「らしくないなあ……」
重要な局面でもあるまいし、ここまでする必要があったのだろうか。
「だいたい試合に出るなら、出るって言ってよ。そしたら一回戦からちゃんと応援したのに」
「ここまで勝ち残るとは思わなかったんです……」
その割には、泥臭い戦いに執着していたように見えた。
「他に怪我は? 痛いところはないの?」
痛覚が鈍いと言っていたが、さすがに怪我に気づかぬほどではないだろう。ロウラントは左肩を探るように抑えてから、顔をしかめる。
「槍が当たったとこだよね? 折れてるの?」
「いえ……おそらく肩関節が外れただけです」
「だけ、って……」
バルゼルトといい、騎士にとって、一般とは怪我の程度の認識が違うのだろうか。
ロウラントが悔しげに小さく舌打ちした。
「あの馬鹿力……体力まで底なしとか反則だろう」
毒づいているが、それは弟への気安さを意味していた。
「もしかして、スウェン兄上に本気で勝つつもりだったの?」
「あえて勝ちを譲る理由はないでしょう。……あいつは昔から身体能力は高さにかまけて、攻撃が単調なんです。体力を削りながら焦らして、油断を誘えば勝機はあるかと思ったんですが……」
「逆に追い込まれちゃったんだ」
図星を刺され、むっとしたようにロウラントは黙り込んだ。
「騎士団の前線で戦うような人を相手によくやるよ」
「……すみません。ひさびさに腕が振るえる機会に熱が入って、冷静さを欠いていました」
「そこで『殿下に勝利を捧げるため』とか言っておけば、可愛げがあるのになあー」
「言いませんよ。そんな白々しい台詞」
心底嫌そうに顔をしかめられた。
その顔を見つめながら、カレンはふっと笑う。
「結局、私はロウのことを何も知らないね……」
「殿下……?」
「こんなに強かったんだね」
ロウラントは騎士位であり、普段から剣も帯びていたが、形ばかりの物かと思っていた。
(私は本当に何も知らなかったんだ……)
冷淡なほど計算高くありながら、兄弟の勝負に我を失うほど熱くなる一面も。カレンの見ていない所で、彼が何をしていたのかも。いまだに抱え続けたまま、決して明かそうとしないその秘密も。
自分が今まで知っていたロウラントなど、表面上のほんの一角なのだと、まざまざと思い知らされた。
カレンは手近にあった椅子を引き寄せて、ロウラントの前に座る。
「……何かあった時、あなたを守れるのは俺だけです。鍛錬は欠かしていませんでしたよ」
「そうだったんだね、全然気づかなかったよ。てっきり文官系の人なのかと思ってた……。ロウは頭が切れるもんね」
「そんなことは――」
「それでかな? 何か考えがあったから、私にイクス教団の件を言わなかったんでしょ?」
満面の笑みでそう言うと、目に見えてロウラントが顔色を失う。
「……ミリーから聞いたんですね」
「あ、否定しないんだ」
我ながら嫌な性格だなと思う。本当はロウラントにこんな真似はしたくなかった。聞きたくない、困らせたくないと思いながらも、言葉が口をついて出る。
「私はちゃんと大司教の誘いを断ったよ。ロウもそうした方がいいって言ったよね?」
「確かに言いました……。でもあの頃とは状況が違います」
ロウラントは必死に言い募る。
「後もう少しなんです。バルゼルト殿下と交流を持ったことで、宮廷があなたを見る目は明らかに変わりました。そして最大勢力のイヴとミリーは実質消えたようなもの。あともう一手なんです! 皇太子になれるかどうかの瀬戸際の今、この際イクス教団だろうと利用しなくてはならないんです」
カレンは静かに首を振る。
「それでも、バルゼルト王子の友情をルスキエの権力争いに利用してほしくなかったよ」
「宮廷に純粋な友情などあり得ませんよ」
カレンは「ああ……」と絶望的な思いで、地面に視線を落とす。その言葉が今どこに刺さっているか、ロウラントは気づいていないのだ。
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