76、この闇から仰げば10
イヴリーズが宮廷からいなくなっても、本来の才気を取り戻したグリスウェンなら、継承争いを乗り切れる。そのまま皇太子に決まれば、遠くない内にグリスウェンは彼に相応しい令嬢を妻に迎えるだろう。家族を得れば、もう自暴自棄になどなるまい。カレンディアたちもきっと助けてくれる。
自分とグリスウェン、妹たち、そしてお腹の子。皆が未来を生き延びるための道だ。罪悪感はあっても、イヴリーズに迷いはなかった。――それがグリスウェンに対する、最大の裏切りであっても。
グリスウェンがつとイヴリーズの頬に手をかける。寄せられる口づけに、微睡みのような心地よさを覚えながら、イヴリーズは密かに覚悟を決めていた。もう後戻りはできない。すでに事態は動き出している。
「――殿下!」
ふいに扉を遠慮なく叩く音があった。
「……何だ?」
グリスウェンはあからさまに不機嫌そうな返事をし、イヴリーズと距離を取る。
「しばらく、ここには近寄るなと言っただろう?」
「火急の知らせです!」
従者らしき声に、グリスウェンはいぶかしげな顔をする。促すようにイヴリーズがうなずくと、扉の方へと歩き去っていく。
やがて切羽詰まった従者の声と、驚きと怒りに満ちたグリスウェンの声が、部屋の奥まで響いてくる。
(そうよ……もう止まれない)
イヴリーズは罪悪感に押し潰されそうな心から、意識を逸らすように強く目を閉じた。
しばらくしてから、グリスウェンが愕然とした様子で、イヴリーズの元へ戻って来る。
「……ミリーが陛下から呼び出しを受けた」
「わかっているわ。あの子の従者を通じ、私の襲撃を計画した嫌疑がかかっているのでしょう?」
あえて冷ややかな口調で、イヴリーズは言った。
グリスウェンの瞳が驚愕に見開かれる。
「――どうして、それを……?」
グリスウェンに知らせをもたらしたのは、おそらく近衛騎士団に属する者だろう。近衛騎士なら皇帝の身の回りの情報をいち早く得やすい。彼らの中にもグリスウェンの信奉者は多い。
宮廷内のどこよりも早く持ち込まれた情報より、イヴリーズが事実を熟知している理由は、もちろん一つだ。
「……トランドン伯爵の親類が賄賂を受け取っていたのも、その知己だったミリーの従者が、あの子によからぬ妄想を抱いていたのも本当よ。……伯は狡猾なくせに、アンフィリーネ様のことといい、昔から身内に対する脇が甘いのよ。そして私はそれを利用しただけ。教団の情報網はもう使えないけど、デ・ヴェクスタ本家が私側に着いてくれたおかげで、そういった事情を知ることができるのは助かったわ」
イヴリーズは淡々と事実を告げる。
「イヴ……? お前、まさかミリーを……」
「――あなたにも言ってなかったわね。筆跡を真似るのは得意なの。ミリエルの従者は特徴的な癖字だから簡単だったわ」
イヴリーズの趣味は景色や人物を模写することだ。対象を観察し再現することは、文字でも同じだ。
「念のため手紙には、私の手の内の者に持ち出させたカレンの香水を使ったわ。父上から詰問を受ける時に気付くかは賭けだけど、うまくいけばカレンへの不信感を植え付けられる。ミリーの性格からして、カレン本人に問い詰めるでしょうね。そうなればカレンは勘がいいから、今度は私に疑いを持つわ」
「イヴ! お前はいったい何を考えているんだ!?」
「中途半端なことをしていては、何も守れない。あなたも理解しているでしょう?」
激高しかけていたグリスウェンが、我に返ったように押し黙る。
このままミリエルが皇太子なっては、兄弟姉妹全員にとって不幸な結末になる。
イヴリーズがしたことが、独善的であるのは重々承知だ。だがミリエルの名誉を傷つける結果になったとしても、後でどれほど罵倒されようと、これがすべてを守るための最善だとイヴリーズは信じていた。
「わかっている……わかってるさ。だが、もっと他にやりようが――」
イヴリーズは混乱しながら額を押さえるグリスウェンを見て、静かに瞼を閉ざす。
(……スウェンはやっぱり優しすぎる)
そういう性分をイヴリーズは愛しているわけだが、このままでは、いずれその甘さが彼の足元を掬うだろうとも確信していた。目的のために、心を殺し冷徹になることの必要さを説く。――それがイヴリーズにできる、最後の置き土産となるかもしれない。
「スウェン、私達は無力よ。この手ですべてを掴み取ることはできない。このまま兄弟姉妹で慣れ合っていては、いずれあの子たちの自由も未来も奪われる。最悪に備えるなら、今は距離を取った方がいいわ。……だからあなたも、カレンと袂を分かつ道を選んだのでしょう?」
グリスウェンは悔しげに顔を歪めたが、やがて感情を押し込めるように、長く息をついた。
「……すまない」
「いいのよ。わかってくれたのなら」
「それもだが、ミリーへの工作は俺がやるべきことだった。覚悟が足りなかったばかりに、お前の手を汚させてしまった」
そう言い切るグリスウェンからは、迷いも後悔もそぎ落とされつつあった。覚悟を決めた瞳には強い光が宿っていた。――あの斜陽の光だ。
そう思った時、ふいに背中がぞくりとした。
「ここから先は俺がやる。――お前は自分の身のことだけ考えてくれ」
「……わかったわ」
うなずきながら、なぜかイヴリーズの中に得体の知れない恐怖が込み上げる。グリスウェンの心がいよいよ据わった。喜ぶべきことのはずなのに、この何か取り返しのつかないことを見逃しているような、焦燥感は何なのだろう。
彼の瞳に宿る斜陽の光。夕闇に呑まれる直前の、燃え尽きる太陽の最後の輝き。
まるで終末を暗示するかのような色が、イヴリーズの眼に焼きついていた。
いつもお読みいただいている方、『あなたに夜伽を~』をきっかけに読み始めてくださった方、本当にありがとうございます。
今後活動報告で先の展開についてや、本編で(私の技量不足で)書き切れなかった裏話など、後書きだと邪魔になるかなーって感じのことをたまにつぶやくかもしれません。




