4、それがアイドル、そして皇帝
あれはカレンが中学生の夏休み。アイドルの肩書を得たばかりの頃のことだ。
今年一番の暑さになると言われていた昼下がり。何かの用事で事務所にいたカレンは、社長から『散歩に行こうか』と誘われた。社長は七十代の小柄な老人で、飄々とした捉えどころのない人で、何か仙人じみていた。彼はいつも気まぐれなので、特に疑問は持たなかった。
巨大な入道雲が鎮座する空を目指すように、衰えを感じさせない足取りで、急な坂道をスタスタと登っていく社長。置いて行かれないように、カレンは流れる汗を拭いながら、懸命にその後を追った。
坂道の上には赤い鳥居があった。さすがの暑さに人気はほとんどなく。がらんとした境内は、ただただ蝉の声がうるさかった。
参道を通り拝殿に着くと、姿勢を正し、美しい所作で参拝をする社長を真似て、カレンも礼をして手を合わせた。
参拝を終えた二人は、近くのコンビニで買ったアイスを、境内の木陰で食べた。
「――ねえ、知ってるかい? アイドルってもともと偶像って意味なんだよ。偶像ってわかる? 御神体とか十字架とかね。神様なんかの代わりね」
子供のように、チューブ型のアイスを咥えた社長がふいに言った。
「目に見えない存在をあえて見える物にして、人々の心を信仰でもって一つに束ねたんだね。人は苦しくても貧しくても、夢と希望があれば生きていける。心に光があれば、人はいくらでも足掻けるんだ。――僕は君たちアイドルに、そういう存在になってもらいたい」
カレンは社長の言葉の意味を考えた後、溶けかかっていた青いアイスバーをペロリと舐めて、少し笑う。
「だから、ファンが推しにお金を落とすことを『お布施』って言うのかな?」
「はは、言い得て妙だね。君たちは人間でありながら、人々に不屈の魂を与える、神様仏様のような存在になるんだから」
揺れる木漏れ日眺めながら、カレンは「ああ、そうか」とすんなり確信した。
(私、人間を超える、とんでもない存在になるんだ……)
「人々の心の拠り所。夢と希望の化身……」
それがアイドル。ならば、きっと――
「それが皇帝なんだね」
ロウラントが何か信じられない物を見る目で、カレンを見つめていた。
妙に晴々した気分だった。道が見えた。空に向かうあの坂道のように、ひたすら上り続けてきた道は、まだまだ高みへと向かっている。
カレンはにっと口の端を上げて笑う。
「だったら大丈夫。今までとやることは一緒じゃん!」
両手をパチンと叩くと、茫然としているロウラントとフレイに向かって宣言する。
「よし決めた! 私、皇帝になる!」
「……話を聞いていましたか?」
ロウラントがぐったりと疲れたように言う。
「まあまあ。ちょっと考えてみてよ。私があと半年で、政治の知識とか才能とか身につけられと思う?」
案の定、二人そろって言葉に詰まる。
「でも、皇帝にふさわしい人間であることを証明するなら、私にもきっとできるよ。コネがないのは知ってるけど、他の兄弟姉妹より圧倒的な価値があるってわかれば、不可能じゃないでしょ?」
「それはそうですが……」
「だから、どこにそんな根拠があるんですか」
フレイが困惑の表情を浮かべ、ロウラントが力なく首を振った。
カレンは両手を広げて当然のごとく言い放つ。
「だって私は、夢と希望の偶像だし!」
この世界は『剣と魔法の世界』と言えなくもないが、残念ながら伝説の勇者の力や聖女の奇跡は授からなかった。あるのはあちらの世界とそう変わらない、体一つとシビアな現実だ。
だったら手持ちのカードで勝負するしかない。ただしこのゲームに関してなら、カレンはとびきりのカードを手にしている。
(……すっごいバカだと、思われてるんだろうな)
自信満々に宣言したが、実は内心ではビクビクしていた。
さすがに目の前でうなだれている、ロウラントとフレイの絶望感を理解できないほど、頭の中がお花畑というわけでもない。これでも中学生の頃から大人の社会で揉まれてきたのだ。読むべき空気くらいわかる。
二人の立場からすれば、不出来だが大人しいお姫様が、ある日突然豹変して、「皇帝になる」などと突拍子もないことを言い出したのだ。だが勢いでもハッタリでもこの二人を巻き込まないことには始まらない。彼らの助けを得られなかったらそこで終わりだ。
これは自分を売り込むための最初のプロモーション。人知れず幽閉生活など、絶対にごめんだ。
「とりあえず、何から始めればいい? 目標とかある?」
フレイが戸惑う素振りを見せつつも、答える。
「そうですね……ちょうど十日後に正宮殿で夜会があります」
「ここは宮殿じゃないの?」
「ベスラ宮殿の一部ではあります。ここは離邸と呼ばれる独立した建物で、皇族のお住まいの一つです」
説明を引き継いだのは、げんなりとした表情を浮かべるロウラントだった。
「ここは帝都レギアにある皇宮ベスラ宮殿です。敷地の中心に、皇帝陛下のお住まいであり、政治の場でもある正宮殿があります。そして広大な敷地内には、独立した離宮や離邸がいくつもあり、他には騎士団の駐屯地や聖堂、森や湖などもあります」
最初に外を見た時も思ったが、本当にテーマパークみたいな構造だ。
「その全体が宮殿なのです。後で地図をお渡ししますので、頭に入れてください。ひきこもりとはいえ、あなたはここで十七年暮らしているんですから、知らないのは不自然です」
まったく乗り気ではなさそうだが、ロウラントも他に良い案がないのだろう。諦めた様子で淡々と現実的な話を続ける。
「もうすぐ正宮殿で夜会が開かれます。皇太子候補にとって初めて参加する、公の催しになります。つまり社交界での正式なお披露目も兼ねています」
「公のは、ね」
「はい。貴族が主催する、私的な催しへの参加に制限はありませんでした。他の兄弟姉妹方の陣営は、とっくに周囲への根回しや、働きかけを行っているはずです」
「じゃあディアだけが、本当に初めてのお披露目ってこと?」
「そうです。既に出遅れているんです」
「でも、それって好都合じゃない?」
眉を寄せるロウラントに向かって、カレンは笑う。
「だって夜会に来る人たちは、他の皇女様たちを見慣れてるんでしょ? だったらどうしたって、カレンディア皇女に注目が集まるじゃない。ここでうまくやれば、一気に印象付けられるよ」
「そうかもしれませんね。……うまくいけば」
ロウラントが言わんとすることはわかる。逆に言うなら、もうディアには後がなく、失敗すれば取り返しがつかないということだ。
「夜会って食事会みたいな感じ?」
「いいえ。今回は殿下方の来場は、正餐会の後の舞踏会からです」
舞踏会。ようやくお姫様っぽいイベントだ。
「ダンスかあ……舞踏会のダンスって、ワルツみたいなやつだよね? やったことないけど、がんばってみるよ。フレイ先生が教えてくれるの?」
「ダンスでしたら専属の講師を呼べます。もともとディア様はダンスが得意ではありませんでしたし、ここ二年はほとんど練習されていなかったので、多少たどたどしくても誤魔化しは効くと思います」
「よし。あと絶対必要なことは?」
「舞踏会が一段落すると、飲み物や軽食が振舞われます。一般的な夜会では、主催者がそこで簡単な娯楽を提供するのが流れとなります。今回は宮廷主催の催しになりますので、おそらく殿下方にお声がかかるでしょう」
「娯楽って、一発芸みたいなやつ?」
「演劇、楽器の演奏、あとは歌唱などでしょうか。姉君方も何か披露されるでしょうし、時間はそう長いものでなくていいかと思います」
「それは困るね。どうしよっか……」
「あなたは職業歌手だったのでは?」
悩み始めたカレンに、ロウラントは意外な顔を向ける。カレンが歌手だったと聞いていたので、『一発芸』の心配はあまりしていなかったのだろう。
「うん、でもこっちとは好みが違うと思うんだよね」
「好み、ですか?」
「例えば、多分貴族の嗜み的な音楽と、庶民が盛り上がった時ノリで歌うものって違うよね?」
「あなたのは大衆向けということですか?」
「そうそう。私のは一般人向けの劇場で歌うやつね」
「なるほど。それはまずいですね」
「でしょ?」
お貴族様の前で持ち歌なんぞ歌おうものなら、恥かきイベントになること間違いなしだ
(こっちの歌って、クラシックみたいな感じかなあ……)
「歌劇とかはあるの?」
「歌劇は貴族の娯楽としては一般的です。ですが、人前で披露するなら数日の練習では難しいかと」
「そうなんだよねえ」
ベルカント唱法などは、レッスンで教えてもらったことがあるが、あくまでも専門はポップスだ。カレンはアイドルとして、そこそこの歌唱力と自認している。しかしあくまでアイドルとしての、『そこそこ』だ。専門で学んでいる人たちとは比べるまでもない。それに慣れない歌唱法では不安がある。
……楽器の方は、小学生の時に習った鍵盤ハーモニカと縦笛がせいぜいのレベルなので、もちろん問題外だ。
「……詩や短い物語の朗読はいかがでしょうか?」
ずっと考え込んでいたフレイが、ぽつりとつぶやく。
「それほど見栄えはしませんが、無難ではあるかと思います」
「いいね! さすが先生」
朗読なら、いかにも淑やかなお姫様っぽい。派手さはないが、内気と評判のディアなら違和感もないだろう。
「覚えなくてはいけないことは、それだけではありません」
ロウラントが再び険しい表情で言う。
「まずは皇女らしい、立ち振る舞いと作法は身に着けていただかなくてはなりません。その他にも主要な貴族の名前、位や役職など、頭に入れなければならないことは山ほどあります」
「その辺は最低限ボロが出ない程度に覚えるしかないでしょ。時間ないし。どんな場面で、何がどの程度必要なのか判断は任せるよ。私は言われたことを覚えるのに集中するから」
さらりと難題を押し付けられたロウラントが、ため息をつく。
「そーんな暗い顔しないでよ。どうせダメ元なんだから、やるだけやってみよ?」
カレンはロウラントの肩をポンポンと叩いた。