74、この闇から仰げば8
しばらくして、視界の隅に動かぬ人影があることに気づいた。飾り気のないドレス姿で、背が高く、目を引くような華やかな容姿ではないが、清廉に整ったその横顔をイヴリーズは知っていた。
「フレイ……?」
名を呼ばれ、妹の侍女であるフレイがはっと振り向く。
「これは――イヴリーズ皇女殿下……」
女性にしては少し低い、なめらかなに流れる東方の洞簫ように心地よい声だ。
カレンディアが幼少時からずっと仕えている、作法の指南役でもある人だ。最近妹に同行するのは地味で愛想のない従者だけで、フレイの姿は久しく見ていなかった。古参だけあって、それなりに歳はいっているはずだが、面影が昔からあまり変わっていない。
「あなたの顔を見るのは久しぶりね。カレンは一緒ではないの?」
「それが……」
フレイが視線で示す先の光景に、イヴリーズは瞬時にはらわたが煮えくり返るような怒りを覚える。困惑するフレイをその場に残し、つかつかと歩いていくと、耳に入ってくる言葉にさらに不快になった。
「――本質はあの頃から変わっていません。わがままで身勝手な姫君のままです」
「誰が、わがままで身勝手ですって?」
声をかけると、うすら笑いを浮かべる大司教と、顔を引きつらせたカレンディアが振り向いた。
イヴリーズは歯噛みする。
――大司教レスカ―・ティーエ・デ・ヴェクスタ。表向きはイヴリーズの強力な後ろ盾である、実の伯父だ。実は彼がイヴリーズと手を切り、後釜としてカレンディアに接触したがっていることは耳に入っていた。
そして人を煙に巻く態度が鼻につくふざけた男であるが、これで矜持は高い。まさか自ら足を運び、カレンディアに接触するとは思わなかった。
不快な感情を隠さぬまま、レスカーと冷ややかな会話を少し交わすと、イヴリーズはカレンディアの手を取り、引きずるように聖堂の外へと出た。
「あの男に関わっては駄目!」
人気のない場所まで行きつくと、イヴリーズはカレンディアに向かい合い、鋭い口調で言う。レスカーとの思わぬ接触のせいでいまだに冷めぬ怒気に、カレンディアが驚いたように目を見開く。身をすくませた妹の様子に、はっと我に返る。
(何しているのよ……カレンに当たるなんて)
イヴリーズはカレンディアの二の腕を触れる。
「……ごめんさい。あなたは悪くないのよ」
「でも本当に危険なの」
レスカーは相手にそうと気づかせず、人を巧みに支配する手練手管に長けている。すでにカレンディアも影響を受けているかもしれないと心配したが、彼女はいつも通りけろりとした様子だった。レスカーとの会話内容をあっさりとイヴリーズに語る。
(なるほどね……)
カレンの話を聞きながらイヴリーズは想像をめぐらす。さてはカレンの開けっ広げ過ぎる性格に出鼻をくじかれ、レスカーは主導権を握れなかったのだろう。
どんな皇帝になりたいか問われた時、国力増強だの外交関係の改善だの、それらしいことを言っていたら、彼はそこに疑問を抱かせ、揺さぶり、己への猜疑心を抱かせたはずだ。自我を揺るがし、甘く付け入り、自分という存在で相手を塗り替える。それが彼の常套手段だ。
あの男が、この目の前にいる一見能天気な妹を手玉に取るどころか、逆に自分の本音を引き出されるとは。さぞかし見物だっただろう。もう少し早く気づけばよかったと、イヴリーズは密かにほくそ笑む。
しかし、他人を嘲笑う余裕があったのはそこまでだった。
「そういえば姉上、もしかして最近スウェン兄上に会ったの?」
その一言に、イヴリーズは凍り付いた。
男女問わず香水を使うことは嗜みだ。自分の肌に合わせ独自の調香を施す。つまり完全に同じ香りは存在しない。だからこそ、彼の香りが残らぬよう気を遣っていた。まして今日はグリスウェンとは会っていない。残り香などあるはずがない。
戸惑っていると、カレンディアから人は他人の香りに影響されやすいという話を聞かされた。納得はしたが、内心はひどく狼狽していた。下手に誤魔化すよりはと、グリスウェンと頻繁に会っていることを肯定し、当たり障りのないことを答えた。
……迂闊だった。確かに香水の嗜好には、まるで別の組み合わせを選んだとしても、個人によってどこか傾向がある。まさか自分がグリスウェンの影響を受けているとは。
とはいえ、香水は何十種もの香料を微量に組み合わせる物。その内の特徴的な二種がたまたま同じだったところで普通は、二人が会っていたことを連想などしまい。そう普通なら――。
引きこもり生活が長かったせいか、この香水のことのように、カレンディアの知識は妙に偏っている。政治学や歴史の知識の粗末さを、ミリエルによく小馬鹿にされているが、意外なことにはくわしかったりするから侮れない。
そして何より彼女は本質を見抜く勘が鋭い。言語化できない現象を集約し、直感でそれが意味する答えを導きだすことができるのだろう。さらにこれがカレンディアだと、普段の能天気そうな軽い言動に隠されているから怖い。わかっていても、つい妹を前にすると気を抜いてしまうのだ。レスカーを笑っている場合ではない。
その後、カレンディアとしばらく会話をしてから、やがて帰っていく彼女の背中を見送る。
「何か問題がありましたか?」
「……いいえ。大丈夫よ、ジュゼ」
近づいてきた従者に向かって、イヴリーズは静かに首を振る。
遠くなっていくカレンディアの背中を見つめながら、イヴリーズは密かな決意を固めていた。グリスウェンには、彼女なら一年あれば世情を変えられたかもしれないと答えた。だが恐らく、あの分ならカレンディアが成長するのはもっと早い。それでも選帝会議には間に合わない。
自分たちにもう少し余裕があれば、打算抜きでこの妹を応援してやっただろう。イヴリーズ自身などよりよほど帝国にとって価値がある。だが状況は、もはやそれを許さない。孵化直前の卵を潰さねばならぬような、やるせない想いにイヴリーズは囚われていた。
カレンディアも我がことのように、人々の注目を集める兄についてうれしそうに語っていた。今のグリスウェンなら十分宮廷でやっていける。たくさんの人に愛され、妹たちの力を借りながら、善い治世が行えるはずだ。――例え自分がいなくなったとしても。
後はそのための仕上げを、抜かりなく行うだけだ。ためらいはそろそろ捨てなければならない。イヴリーズは静かに決意を固めていた。
2024年8月15日 訂正




