73、この闇から仰げば7
――さらに一か月半後。
それは二日続いた雨の後、ようやく顔を出せたといわんばかりに、太陽がぎらぎらと照りつける、うだるように暑い日のことだった。イヴリーズは慈母エレンティーヌを祀る聖堂へと来ていた。
散歩に出たもののすぐに暑さに後悔し、石造りの涼しい建物に避難することにした。聖堂入り口で、第一皇女の存在に気が付いた夫婦が、脇に寄り頭を垂れる。妻の方は大きなお腹を大事そうに抱えていた。
宮殿の敷地内には二つの聖堂がある。西側には知恵と政の守護聖人である賢老ラムダフを祀った聖堂。東側に位置するのは、女性と子供の守護聖人慈母エレンティーヌの聖堂だ。
イヴリーズがやって来たのは、慈母の聖堂の方だった。ここに出入りできるのは、宮廷への出入りが許された上流階級の者だけだ。そして特に女性が多いのは、お産に備える妊婦が慈母の加護を受けるためだ。
聖堂に来たのは避暑のためだったが、何か天啓じみたものを感じ思わず足を止めた。
(考え過ぎね……どうかしているわ)
「お祈りされるのですか?」
「え? ええ、そうね……」
共をしていた従者のジュゼットがいぶかしそうな顔をする。イヴリーズは大司教の身内で、自身も聖女などと呼ばれているが、実のところ信仰にはさほど興味がない。自分の側仕えならよく知っていることだ。
「たまには、自分を見つめ直すにいいかもしれないわ……」
イヴリーズはそう誤魔化し、出入り口に近い長椅子に座って天井を見上げる。そこには十三守護聖人が描かれていた。地上の穢れとは無縁な穏やかな顔が見下ろしていた。
あれからグリスウェンとは何度か逢瀬を重ねた。ずっと清く正しい世界しか知らなかったが、堕ちた先は思いのほか穏やかで心地よかった。輝かしい未来は断ち切られたはずなのに、なぜか心は満ち足りていた。
そんな中、ふと月の物が遅れていることに気づいた。襲撃事件以来、心身共に疲れることが多かった。そういう時に体調が変わるのはよくあることだ。心当たりさえなければ、特に気に留めなかっただろう。
イヴリーズは慈善活動の傍らで、自ら医学や薬学についても学んできた。望まぬ命を結ばないための薬など、その手のために必要な処置も知っている。ただ最初の時だけは、状況に流されるままだったので何の対策も取れなかった。
(どのみち体調に変化の出る時期ではないし、考え過ぎかしら……)
とはいえ、万一そうなった時は、悠長に身の振り方も考えている時間はない。仮に今妊娠が発覚すれば、考えたくはないがおそらく堕胎を強要される。せめて出産が終わるまで身を隠さなくてはならない。
最悪その後に見つかったとしても、親子の命まで取られはしまい。むろん父親の存在は何があっても黙り通す。運が良ければ、赤子ごと修道院に送られるはずだ。ただし二度とグリスウェンには会えない。それでも彼の面影を持つ子をこの手に抱き、生きていけるのなら――。
(いっそのこと、その方がいいかもしれない……)
このまま何事もなく、目論見通りにグリスウェンが皇太子に決定すれば、彼もまたすぐに妻を娶ることになる。父のように何人もの妻を宛がわれるかもしれない。グリスウェンには『側にいられればいい』などと殊勝なことを言ったが、本音は彼が他の女を妻に迎えるなど、耐え難い程辛い。
本来のグリスウェンは、誰に対しても礼儀正しく誠実な青年だ。政略上の妻であっても尊重し、大切に慈しむだろう。その光景を伝え聞いた自分は正気を保てるのだろうか。腹の奥にたまる暗い感情に、思わずイヴリーズは口元を押えた。
この絶望は、少し前までグリスウェンが抱いていた物と同じ。自分がどれほどグリスウェンに残酷なことを強いていたのか、ようやく思い知った。
グリスウェンは自分がイヴリーズにしたことを悔いていた。騎士道に順ずるはずの自分が激情に駆られ、我を失ったことが許せないのだろう。きっかけは突発的な事故のようなものでも、イヴリーズもすべて覚悟の上で受け入れているのだから、気に病むことではないのだが。
むしろ性根が善良な彼だから、せいぜい互いが痛い目を見る程度で済んだのだと思う。イヴリーズが先に同じ立場を味わっていたなら、何をしでかしたかわからない。
(やっぱりスウェンには黙っておこう……)
あれからグリスウェンは、少なくとも表面上はいつもの彼に戻った。任務にはまだ戻れないものの、騎士団にも顔を出し、同僚たちとの交流を大切にしている。貴族や有力者が集う社交の場にも、積極的に顔を出しているとも聞いている。
今までのグリスウェンは、継承争いから一歩退いた姿勢を貫いていたため、どこか人と壁と作る癖があった。だが元来の彼は、気さくで裏表のない人好きされる性格だ。今ではグリスウェンの周りには、彼を慕う人が絶えない。さすがにあのカレンディアの兄だけはある。有り体に言えば天然の人たらしだ。
イヴリーズからすると少々複雑だが、皇太子の座を狙うのであれば良い傾向だ。あの分ならきっと自分がいなくてもやっていける。前へと進み始めた彼に負担はかけたくはない。
もし身籠っているのであれば、早ければ来月にはつわりなどの体調変化が現れるはずだ。個人差があるのは知っているが、長く隠しきれると希望は持たない方がいい。いずれはどうしたって、体型も変わってくる。
ジュゼットを始め、何があっても忠義や親愛を尽くしてくれると信じられる、側仕えや親族が幾人かいる。彼らの力を借りれば、追手の届かぬ他国に逃げることも可能かもしれない。グリスウェンに二度と会えないのならば、どこへ行こうと同じことだ。
イヴリーズは再び上を見上げた。この場所はあまり好きではなかった。もちろん信仰に興味がないせいもある。実際まさに女神や慈母にすがるべきこの状況でも、祈りを捧げる気が一切しない。何よりも澄まし顔で悩める人々を見下ろす聖人図が、まるでイクス教団の在り方そのもののようで、イヴリーズには憎たらしく思えていた。
それでも、いずれ見られなくなるかもしれないと思えば、この光景にも多少は思い入れが込み上げてくる。その目に焼き付けるように、イヴリーズはしばらく天上を仰いでいた。




