72、この闇から仰げば6
「まず今の状況を考えましょう。このまま私が継承争いから降りれば、皇太子の座はミリーに確定するわ。あの子もきっと、私たちが宮廷に残れるよう働きかけるでしょうね」
「……そうだな」
あの愛情に飢えた哀しく優しい妹なら、迷いなく兄姉を救うために必死で奔走する。
「そして必ずトランドン伯爵たちから反対に合うわ。私たちのために無理を通せば、必ず老獪な貴族たちは、何か譲歩を引き出そうとするはずよ。あの子はまだ幼い……初手を間違えれば、ミリーは一生彼らの傀儡にされてしまうわ」
「それでは駄目だ」
「……ええ」
皇帝としての治世に汚点が付くだけでなく、妹の人生ごと破壊されるくらいなら、自分たちの救済など望まない。それは言葉にせずとも、二人にとって共通の思いだ。
そして特例が許されなければ、イヴリーズとグリスウェンはそれぞれ別の修道院に送られる。一生会うことはできない。やはりミリエルを皇太子させるわけにはいかなかった。
「カレンではだめか?」
グリスウェンの問いにイヴリーズは少し考える。
カレンディアもまた自分たちを見捨てはしまい。そして後ろ盾や義理がないことは彼女の弱点であるが、誰に気兼ねすることなく我を通せる強みでもある。だが現状では、彼女の力となってくれる貴族はまだ少ない。
「あと三年……いえ一年あれば、宮廷の風向きはあの子に変わったかもしれない。でも残念ながら選帝会議までに、カレンが地盤を固める時間はないわ」
「……そうか」
グリスウェンは悔し気につぶやく。
カレンディアも不義の子である可能性を知った時、グリスウェンは自らの誇りをかなぐり捨て、イヴリーズに頭を垂れた。もはやグリスウェンにとって、ただ唯一の血の繋がった家族なのだから当然だ。
それに加えカレンディア自身が持つ魅力。あの何にも怯まぬ度胸と万人を魅了する人柄。実績が追い付いていれば、多くの支持者がついただろう。部屋から出ることもできなかった幼い少女が、あそこまで這い上がってきたのに、あともう少し時間が足りなかった。
カレンディアはイヴリーズにとって、皇太子の座を巡る競争相手であると同時に、同じ苦しみを分かち合える同志であり、可愛い妹でもある。悔やむ気持ちはイヴリーズも同じだ。それに彼女にはグリスウェン同様、『不義の子』の疑惑がある。勝手な話だが同じ重荷は背負わせたくない。
「あなたは武勇など役に立たないと言ったけれど、軍部から信頼と人気は十分武器になるわ。騎士団には名家の子弟も多いでしょう? 次代を担う若者の支持は、上の世代も無視できないはずよ。あなたが本気で働きかければ、必ず風向きは変わるわ。そしてあなたなら、私に代わって修道騎士団の支持も得られるはずよ」
「修道騎士団の?」
「彼らにも、あなたの武勇や人柄は聞き届いているはずよ。私が継承争いから降りても、修道騎士団は今更大司教とは手を組めない。あなたが誘えば必ず飲むわ。そして彼らから、教団関係者に働きかけてもらうの」
すべて理想通りに運ぶとは思えないが、理屈の上では今のイヴリーズと同等、もしくはそれ以上の支持が得られる可能性がある。
グリスウェンは皮肉に口の端を歪める。
「これでも、騎士道に恥じぬ生き方をしてきたつもりだったんだけどな。正当な権利を持つ兄弟姉妹から帝位を簒奪することになるとは……。歴史上でも稀にみる、とんだ大悪党だ」
グリスウェンの言う通り、すべて保身と欲望のため。大義などどこにもない。それでも彼の中に、もはや迷いは見受けられなかった。
「イヴはこれからどうするつもりだ?」
「私は少しずつ人前に出る機会を減らしていくわ。そうすれば、皆は病にでもかかったと思うでしょう。しばらくしたら、皇太子候補から降りると宣言するわ」
「陛下がお許しになるか?」
「継承権の放棄は私たちの数少ない権利よ。ランもそうしたわ。――でも理由が必要なら、私も顔に火傷を作ったっていい」
「……ふざけるな。絶対にそんな真似許さない」
地を這うような声で言われ、イヴリーズははっと自分の発言に恥じ入る。
「ごめんなさい……今のは失言だったわ。ランに失礼よね」
イヴリーズが長く嘆息してからうつむく。
「ランに会いたい……あの子の憎まれ口が、最近とても懐かしく感じるの」
喧嘩も散々したが、自分たち三人の中で誰よりも冷静で聡明な彼は、いつも最短で正しい答えを導くことができた。彼の助言は耳に痛くとも、間違ったためしがない。
「俺もだ。今の俺たちの状況を知ったら、あいつは何ていうかな?」
「『知ったことか、救えない馬鹿が』ってところかしら?」
物心つく頃から皮肉屋な兄弟の口調を思い出し、グリスウェンとイヴリーズは同時に吹き出した。
幼い頃、歳の近い自分たち三人はいつも一緒だった。遠慮なく言葉を交わし、共に寝起きし、時に取っ組み合いの喧嘩もして、犬の子のように外を転げまわって遊んだ。
下の弟妹はもちろん大切だが、守るべき存在でもある。完全に対等な三人の結束は、兄弟姉妹の中でも特別だった。
ランディスはドーレキアに旅立ってから五年後、前触れなくひっそりと帰国した。当時イヴリーズは東部領へ修道院の視察に、グリスウェンは騎士団の演習で北部の国境付近にいた。そしてその最中に、あのユイルヴェルトの事件を起こった。
一報を聞き、慌てて帝都へ帰還したが、すでに手遅れだった。ユイルヴェルトは死亡したと聞かされ、姿を見ることも叶わなかった。巻き込まれたランディスは重傷を負った。イヴリーズの『祝福』も時間が経ち過ぎた傷には効果がない。ランディスは命を取り留めたが、顔や体に酷い火傷痕が残った。
事件後、イヴリーズたちはただ一度だけ見舞うことができた。ランディスの顔は全体が包帯に覆われていた。かすかに覗く目元から、子供の頃から変わらぬ濃紺の瞳が見えた。それがなければ、彼とわからなかっただろう。
どれほど酷い傷なのかは、包帯に滲む血や、薬臭と混ざるすえた傷の匂いから予想はついた。幼い頃のランディスは白桃のような頬に長いまつ毛の、少女のように繊細な美貌の少年だった。それだけに、あまりにも痛ましかった。
「大丈夫、きっと良くなるから」と励ましの声をかける傍から、それが叶わないことがイヴリーズにはわかっていた。美しい容姿と共に、弟の未来が永遠に失われてしまったことを痛感していた。
その後ランディスと会うことはなかった。宮廷を辞し、密かに皇太子候補から降りたと聞いた。彼の母である第一皇妃を通じ手紙を送ったが、面会は拒否された。返ってきた手紙には『自分が失った物を持つ皆に会うのは辛い』とあった。それ以上は何もできなかった。
「また手紙を書くわ」
「ああ。俺もそうする」
もう一度ランディスに会えるかもしれない。闇に落ち、輝く世界を仰ぐ虚無感を知った今ならば――。
「あー……そうだ。話は変わるんだが、イヴ……」
なぜかグリスウェンが言いづらそうに、躊躇している。
「何よ?」
「こんな状況で言うのはなんだが――いや、そもそも言えた義理じゃないんだが……」
視線を逸らし赤くなりながら、グリスウェンは言葉を探す。
おおよその予感はあったが、イヴリーズはあえて厳しい顔で、腰に手を当てて顎を逸らす。
「いいから、言いなさい」
「――イヴ、愛してる。子供の頃からずっと、今も」
「知ってるわよ。本当に今更ね」
呆れ混じりの声で言うと、グリスウェンが「……え?」と、茫然とした表情で立ち尽くす。その反応に思わず声を立てて笑うと、グリスウェンがむっとしたように、横を向いた。
「お前、人がどんな気持ちで……」
「私も愛してるわ、スウェン。多分あなたよりも、ずっとずっと前からね」
驚ろきに目を見張った後、ゆっくりと泣き出しそうに破願するグリスウェンを見て、この瞬間を得られただけで、後悔はないと思えた。
――この先に、例え何があろうとも。




