71、この闇から仰げば5
ミリエルの母アンフィリーネは、表向きは病で亡くなったことになっている。しかし、重大な軍事機密を他国に売り渡した罪で、処刑されたことは公然の秘密だった。
そしてアンフィリーネの奔放な品行から、ミリエルの正統性も疑問視された。ミリエルは母と同時に皇帝の血を賜り、生き残ることで自身が真の皇女であることを示した。
「ルテア妃はすでに亡くなっていて、不貞の痕跡は一切ないはずだけど、何がきっかけであなたに疑いがかかるかわからない。そうなった時、自分にはスウェンを守る術が何もないことが怖くなったの」
イヴリーズは自身の細い五指を見つめる。
幼い頃は年齢、血筋、才覚、すべてにおいて最も優位な自分は、がむしゃらな努力をせずとも、当然皇太子に選ばれると思っていた。この手で何でも掴めると信じていた。
そんなものはまやかしだと、グリスウェンを失うかもしれない恐怖の中で、初めて思い知った。
「ただのお飾りの存在ではない、己自身の力で理想を貫き通せる皇帝になろうと決めたの」
「俺のために……?」
「もちろんこの国の未来について本気で考えていたわよ。たくさんのことを学んでいく内に、帝国繁栄の裏にある歪みにも気づいた。誰かが変えなければいけないのなら、私がやるべきだと思ったわ」
「そうだったな……お前は救いを求める人々について、誰よりも真剣に考えてた」
グリスウェンを通しいつしか、その人生が始まった瞬間から不遇な立場にある人々を、救いたいと本気で考えるようになった。そこには目を背けたくなるような光景もあったが。それでも自分に何ができるのか、ずっと考え続けてきた。
「結局私の根底にあったのは――スウェン、あなたなのだと思う。私は人々が生まれた環境に一生囚われるのではなく、自分で自分の道を選べる世界を作りたかった。……あなたの生きられる世界を」
グリスウェンが目を見開く。
凪いだ瞳が、再び強い意志を取り戻しつつあるのがわかった。
茜と瑠璃の混ざったカレンの瞳が『夜明け』の象徴なら、グリスウェンの持つ、金色がかった茜色の瞳は『斜陽』を思わせる。沈みゆく太陽が最後に放つ、何よりも苛烈な光――。
「……イヴ、本当にすまなかった。俺は今まで何も知ろうとせず、能天気に生きてきて、勝手に絶望に耽溺したあげく、お前まで救いのない泥沼に引きずり込んでしまった。謝っても謝り切れない……」
イヴリーズは首を振った。
「謝罪は必要ないわ。言ったでしょう? この状況は私が選んだことよ」
「ああ。だから泣き言はこれが最後だ。……もし俺を見捨てないでいてくれるなら、力を貸してほしい。教えてくれ、どうすればお前に報いることができるのかを」
イヴリーズはグリスウェンを見据え、厳かに告げた。
「スウェン――あなたが皇帝になりなさい」
思いがけぬ言葉にグリスウェンは驚愕する。
「俺が……? だが俺には――」
「そうよ。皇族の血を持たぬあなたが、この国の帝位を『簒奪』するの」
イヴリーズはあえて、過激な言葉でグリスウェンを焚きつける。
「待ってくれ! そもそも大司教が認めない。自分の姪を差し置いて、不義の子が皇太子になるなど、さすがに黙っていないだろう」
「どの道、私を手駒にすることなどできないとわかっているはずよ。そしてあの人は、自分に利益のないことに徹底的に興味がないわ。あなたとの交渉に使える可能性がある限り、ある意味誰よりも頑なに秘密を守り続けるはずよ」
イヴリーズはすっと目を細めて言う。
「……大司教のことは後回しでも大丈夫。対応する時間は十分にあるわ」
いざとなれば、汚い手段を使ってでも表舞台から引きずり降ろす。どうせ向こうも、イヴリーズを消したがっているのだからお互い様だ。
「お前やカレンたちはどうなる?」
「今の私たちなら――もちろんカレンも含めて、父上や宮廷の心証は悪くないわ。最悪でも修道院送りは免れるはずよ」
継承争いに敗れても、才覚のある者は、皇帝と皇太子の許しがあれば宮廷に残ることができる。ただし身分を剥奪され、家族や一定以上の財産を持つことは許されぬ、国の僕としてだが。
「もちろんあなたが自分の足元を固めた後は、妹たちだけでも本当の意味で自由になれるよう、働きかけてちょうだい。できることなら、あの子たちには幸せな結婚をして、家族を持ってほしいもの」
幼少期を歪な世界で過ごし、普通の人間が当たり前に得られる愛情を知らない妹たち。いつか本当に、安らげる場所を手に入れてほしい。それは心からの願いだ。
「……イヴはどうなる?」
「私はいいわ」
イヴリーズは無理やり笑みを作って言う。
「宮廷に……スウェンの側に居られればそれでいいわ。表向き姉弟である以上、最初からそれ以上は望めないもの。例え自由を得られても、結婚するつもりもない。……もちろんあなたは、いずれ妃にふさわしい娘を迎えるのよ」
皇太子になれば、結婚しないなどと言うことは許されない。グリスウェンもまた皇太子に決定すれば、すぐにふさわしい家格の娘を宛がわれるだろう。それを思えば胸が苦しくなるが、同時にグリスウェンは決して自分を見捨てないとも信じられた。
形に出来る関係ではなくても構わない。心を得られたのだから。
グリスウェンは口惜しそうに顔を背ける。
「……そんな真似はできない」
「その辺りは、無事に皇太子になってから考えればいいことよ」
痛みを振り切るように、イヴリーズはあえてあっさりと話題を逸らした。




