70、この闇から仰げば4
ずいぶん長いこと、浅いまどろみと現の間をさ迷っていた気がする。窓から入る日の傾き加減からして、そこまでは時間が経っていないようだ。
じんわりと伝わる体温と、規則的な打つ心臓の音は心地よく、離れがたかった。もう一度意識を沈めたくなる誘惑を堪え、イヴリーズは体に回された腕の中で身じろぎした。
「そろそろ支度しないと……女官たちが戻って来る」
差し入れられていた腕をそっと解かれると、イヴリーズはひどく気怠さの残る体をゆっくりと起した。
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身支度を整え終わり「もういいわよ」と声をかけると、壁に向かって項垂れる姿があった。
こういう時の振る舞い方などイヴリーズの知識にもないが、さすがにその対応はどうかと思う。
「……スウェン?」
呆れ混じりの声で呼ぶと、消え入りそうな声が応じる。
「……すまない……本当にどうかしていた……」
グリスウェンはこちらを振り向かない。罪悪感で顔も見られない、といったところか。イヴリーズは腰に手を当てて嘆息する。
「その……大丈夫、か?」
「あなたの方がよほど、大丈夫じゃないように見えるのだけど……」
近づいてグリスウェンの顔を覗き込むと、悲壮な表情で恐る恐るイヴリーズをうかがってくる。幼い頃の、おもちゃを壊してしまった時と変らぬ表情に、思わず笑いを嚙み殺す。と同時に、その瞳から暗い陰りが拭われていることに安堵する。
「少しは正気に戻った?」
「余計に死にたくなった……」
「冗談でもやめて」
両手で音を立ててグリスウェンの頬を挟む。
「イヴ……!?」
「よく聞いてね、スウェン。――私達は共に禁忌を犯した共犯者よ」
真っ向から視線を合わせ、詠い上げるように言う。
グリスウェンの茜色の瞳が大きく見開かれた。
皇太子に決定するまで、皇子皇女は婚姻も異性と交わることも許されない。『血』を管理するための厳格な掟だ。それが露見した時点で、皇族としての身分も権利も剥奪される。今更ながら、グリスウェンはそのことを思い出したようだ。
「違うっ……俺のせいだ! お前は何も悪くない!」
イヴリーズは手を下ろすと、静かに首を振った。
「事実は事実。経緯は関係ないわ」
「だが、露見しなければ――」
「それは無理よ。男性のあなたはともかく、私は誤魔化しが効かないもの。――わかるでしょう? 私がもし皇太子になれば、すぐに夫君を宛がわれるのよ」
イヴリーズは既に二十二歳。平均的な婚礼年齢を考えれば、むしろ遅いくらいだ。そして次代の皇太子候補を少しでも多く設けるのは、帝位を継ぐ者の義務だ。
「夫君……――?」
グリスウェンが絶望的な表情を浮かべる。呆れると同時に少しうれしかった。
「政略目的の夫が、妻が生娘でないことに目をつぶるとは限らないでしょう」
世間に秘密を暴露されるにしろ、秘密を種に強請られるにしろ、イヴリーズは立場を失うことにある。
「だったらお前はもう皇太子には――」
「なれない――いいえ、ならないわ。言っておくけれど、これは私が望み選んだことよ。あなたは私に機会を与えたわ。そして私が選んだの」
「何でそんな簡単に言えるんだ!? おまえは皇帝になるために、ずっと努力をしてきたじゃないか!」
「確かにそうだけど、私が本当にしたかったことは別にあるの――ようやく思い出したわ」
不思議と何か呪縛が解けたように、晴れやかな気持ちだった。
「ランがドーレキアに行ってしまった頃のことを覚えている?」
ランディスは周囲の反対を押し切り、わずか十一歳で北国へ遊学のため旅立った。血筋才覚ともに、有力な皇太子候補の一人でありながら、彼は帝位に興味を示さなかった。制約の多い、ルスキエ宮廷を出たかったのかもしれない。
「もちろん。ちょうど俺が従騎士として、騎士団への入団を認められた頃だ」
「ランがいなくなって、あなたは宮殿にあまり顔を出さなくなった。あの頃は、急に遊び相手がいなくなって寂しかったわ」
「『うるさい男の子たちがいなくなってせいせいする』って言ってたじゃないか」
「強がりよ。本当は寂しくてしかたなかったの。……そして私がルテア妃の秘密を聞いたのもその頃よ」
十二歳になっても、皇女としての淑やかさに欠けたイヴリーズに、さすがの大司教も頭を痛めていたのだろう。皇太子候補としての自覚を促すため、もしくはその覚悟を測るためだったのかもしれない。
「そんなに前から……」
「私は秘密を大司教から聞かされて、『この秘密はお前の好きに使いなさい』と言われたの。私はその話を自分の中に収めようと決めたわ」
グリスウェンが実の弟ではない可能性を知ったとき、驚いたが妙に納得もできた。言葉で説明できるものではないが、グリスウェンは他の弟妹と何かが違うと薄々感じていた。それでも大切な存在であることは揺るがなかった。
「……ずっと俺を守り続けてくれていたんだな。そうとも知らずに、恩知らずもいいところだ」
「それでよかったのよ。私はあなたやカレンに、負い目など感じてほしくなかったの。大司教は油断ならない人だけど、他人に委ねた物を反故する性分ではないわ。私が秘密を守り続ければ、何の問題もないと思っていたの。……あのアンフィリーネ様の事件があるまでね」




