69、この闇から仰げば3
2023/02/21 誤字訂正
「待ってよ……一体何を言っているの?」
「……そうか、わからないよな。帝国で最も高貴な血筋に生まれて、たくさんの才能に恵まれた、傷一つない美しく完璧な聖女様には」
微笑を湛えたまま、グリスウェンは暗い瞳でとうとうと語る。
「対して俺はどうだ? 母の不貞の末に生まれた、どこの馬の骨とも知らぬ人間だ。皇子として宮廷に潜り込んでも所詮は下賤。お前やミリーにはもちろん、健在なら兄弟たちの足元にも及ばなかっただろうな」
「何でそんなに自分を卑下するのよ!? あなたは騎士として誰よりも優れた実力と、精神を持っているじゃない」
「武勇なんて皇帝になるのに必須なものじゃない。イヴもわかっているだろう?」
グリスウェンの言う通り、一国の長が先陣を切って戦に臨む時代とは違う。だからこそ女である自分が、皇太子の最有力候補になれたのだ。
「そもそも、俺の秘密が世間に露見したらどうなるか、頭のいいお前がわからないはずないだろう?」
「父上は厳しいけど無情な方ではないわ。そもそも、あなたには何の罪もないもの。絶対に命を奪うような真似はされないわ。もちろん私からもお願いするから――」
「輝かしい人生を歩むイヴリーズ皇女のお情けにすがり、地位も名誉も失いながら、人に嘲笑されて生きろと? 自分がどれほど残酷なことを言っているのかわかっているか?」
イヴリーズは身を乗り出し訴える。
「いいじゃない、生きてさえいれば! そんなものいくらでも挽回できるわ。でも、失われた命だけは取り戻すことができないのよ」
「それは美しく約束された世界で生きる人間の理論だ。この世界には、努力することすら許されない人間もいる」
「さっきから何なのよ!? 悲劇の主人公気取り? 自分だってずっと宮殿で、何不自由ない皇子として暮らしてきたくせに。一緒に貧民街を見たでしょう!? 泥水をすすりながら必死に生きる、あの子供たちに同じことが言えるの!?」
「――だったら、イヴ」
底冷えするような怒気を孕んだ声音に、イヴリーズは身をすくませる。
「今すぐ俺の目の前から消えてくれ……」
「スウェン……?」
「……そうだ。俺が貧民街で暮らすあの子たちと同じ立場なら、命があるだけマシと思えるだろうな。どうして俺がこんなに惨めな気持ちになると思う? ――イヴ、お前がいつも目の前で、高みから俺を見下してるからだよ」
イヴリーズは信じがたい台詞に動揺し、頭を振る。向けられる憎悪の眼差しも言葉も、自分が誰よりもよく知る弟の物とは思えなかった。
「……気づいてなかったのか? 俺はずっと、お前が妬ましくて疎ましかったんだ」
「嘘……だってあなたは――」
「子供の頃はな。あの頃は自分を取り巻く世界のことなど何も知らなかった。だから恥ずかし気もなく、お前に憧れることができたんだ」
皮肉にもイヴリーズは、グリスウェンの今しがたの言葉を思い知らされる。努力が許されない人間もいる、と。自分では――約束された輝かしい未来を持つ皇女イヴリーズでは、どんな美しい言葉を重ねても、闇に囚われたグリスウェンは救えないのだ。
グリスウェンは椅子から立ち上がると、イヴリーズの横を通り過ぎ、促すように扉を開け放つ。
「わかったら、とっとと部屋から出て行っていただけますか、皇女様?」
おどけたような口調から一転、嫌悪のこもった目で睨まれる。
「――そしてもう二度と俺に構うな」
「行けない……」
イヴリーズは幼子のように首を振る。
きっと彼は同じことを繰り返す。今ここでグリスウェンから離れれば、遠くない内に彼を永遠に失う。理由のない直感にイヴリーズは動けなかった。
次の瞬間、グリスウェンが拳を扉に打ち付けた。大きな音と共に部屋が揺れ、イヴリーズは身を竦ませる。
「失せろ!」
「行かない!」
大きな舌打ちと共に、グリスウェンはぐしゃぐしゃと頭を乱す。苛立ちをあらわに、扉を壊れんばかりの勢いで閉めた。
ぎろりと、飢えた獣のように剣呑な眼差しを向けられるが、イヴリーズはまじろぎもせず睨み返す。例え殴られようと、逃げるつもりはなかった。
グリスウェンは寝台の前に立ち、目を細めてイヴリーズを見下ろす。
「……言ったはずだ。皇女が男と二人きりになるなって」
肩に強い衝撃を感じイヴリーズはうめいた。突き飛ばされたと気づいた時には、グリスウェンの肩越しに天井が見えた。
「それともこういうのを期待して来たのか? 弟じゃないと知った途端見境なしとは、とんだ聖女様だな」
グリスウェンの物とは思えない嘲笑に、イヴリーズの瞳に涙が浮かぶ。自分への侮辱ではなく、そこまで彼が追い詰められていることに。その痛々しさに胸が締め付けられた。
どうすればグリスウェンを救えるのだろう。妹のカレンの存在すら、彼をこの世に繋いでおけないのなら、後は何があればいいというのか……。
グリスウェンの指がイヴリーズの顎にかかる。思わずびくりと身じろぎするが、その指は形をなぞるように頬を撫でる。思いがけず優しい触れ方に、イヴリーズは当惑する。
「……これが最後だ。イヴ、頼むから……俺の前から消えてくれ」
力なく掠れた懇願だった。涙に揺らぐ視界の中でグリスウェンと視線を交らわせたまま、イヴリーズは「……消えない」と小さく答えた。
その言葉に、グリスウェンが今にも泣き出しそうに顔を歪めた。それをどうにかしてあげたくて、イヴリーズは反射的に両腕を彼の背中に回し引き寄せる。幼い頃よく抱きしめた、子供らしい柔らかな感触はもうない。筋張った厚みのある鍛え上げられた体だ。
もう後戻りはできないことを思い知らされ、イヴリーズは瞼を閉ざした。
光り輝く高見からでは、彼を救い上げることができないなら、共に地獄に堕ちる。
彼が隣にいないのなら、清く正しい道など歩めなくていい。自らが鎖となって、彼をこの暗く温い汚泥に繋ぎ留める。
与えられる熱に浮かされながら、そう誓った。




