66、父親の正体
もう一度深く嘆息してから、イヴリーズは勢いよく顔を上げ、両手を広げる。
「――降参よ。私の負けだわ。もう私には打つ手がない、手持ちのカードは全部お終い!」
「よかったあ……私もこれが最後の切り札だったんだ」
胸を撫で下ろすカレンを、イヴリーズはきっと睨む。
「調子に乗らないで! あなたミリーの離宮に押し入って、刃物を向けられたばかりでしょう! スウェンにも怒られたくせに、まったく懲りてないじゃない。いつか本当に夜道で刺されるわよ」
「実際に刺された、姉上に言われても……」
「……それは言わないで」
ぐったりとつぶやくその様子に、カレンはほっとする。少なくとも襲撃事件そのものは、イヴリーズの自作自演ではなさそうだ。
「えーっと……それで、今妊娠何か月なの? その様子だと安定期には入ってないよね」
決定的な言葉を告げられ、イヴリーズは沈痛な面持ちで空を仰いだ。
「……もうすぐ四か月に入る頃だと思う。――あなた若いくせに、何でそんなことくわしいのよ? 隠し玉が多くて本当に嫌になるわ。だいたいどうしてわかったの!?」
恨みがましく睨まれ、カレンは苦笑いを浮かべる。
「今の兄弟姉妹の状況を重ね合わせたら、やっぱり変だもん。だけどはっきり確信したのは、今日の姉上を見たからだよ」
「何か変なことをしたかしら?」
「私ね、前に妊婦さんが近くにいたことがあったんだ。どうしてもお腹を無意識にかばうから、少し動きに違和感出るんだよね。あと何かあったら怖いから、他人に距離を詰められるのも神経質になるし」
イヴリーズからは恐ろしい物を見る目を向けられる。
「そんな些細なことで普通気づく……? 信じられない……」
「どうだろう? 私はちょっと……色々あったから、そのせいだと思う」
少なくとも自分と同世代の友達は、妊娠出産など遠い世界の話で、細かい知識などなかったはずだ。母のことがなければ、カレンもきっとそうだった。
あの日からずっと、母のようにお腹の大きな女性を見るたびに、目で追う癖がついていた。――あの時母をもっと気遣っていれば。買い物など自分だけで済ませていれば。車道側を自分が歩いていれば……。できることがあったのではないかと、何度も何度も繰り返し自答した。
何年経っても、あの時あの場所に、カレンの心はずっと囚われたままだ。
「私の知り合いはカミツレ茶が大好きだったけど、妊娠中は『今は飲めないの』って、一切口にしなかったんだよね」
後になり、カミツレ茶には子宮を収縮させる効果があるため、母は避けていたのだとわかった。修道院で妊婦の世話をした経験のあるフレイからも、予定日を過ぎた妊婦に出産を促すため、あえて飲ませることもあると聞いた。奉仕活動の傍で医術や薬学の勉強をしているイヴリーズも、当然知っているだろうとは思っていた。
「そう……これからは気をつけるわ」
「それで、これからどうするの? 無事に生める当てはあるの?」
「……ないわよ。でも絶対に生む」
イヴリーズはぷいと横を向き、不貞腐れた少女の様な口調で言う。それでも何のためらいもなく断言したことが、カレンには嬉しかった。
「よかった……。でもそうすると予定日は――えっとー……来年の春くらい?」
カレンは指を折って数える。
「私はその頃には宮殿にいないわ。選帝会議の前にどこかへ逃げて――宮廷には二度と戻らない」
その言葉にカレンはぎょっとする。
「本気なの?」
「ええ。今宮廷にばれたら、おそらく堕胎を強要されるわ。最悪でもそれだけは避けないと。生まれてしまえば、さすがに赤子の命までは奪わないでしょうけど、私から引き離される可能性はあるわ。できるなら、私は先の人生もこの子と一緒にいたい。だから逃げるしかないのよ」
まだ兆しなど見えない薄い腹に手を当て、イヴリーズは毅然と言う。
当てはないと言っていたが、イヴリーズのことだ、ある程度の算段はあるだろう。それでもこの世界で、赤ん坊を抱えて女が一人で生きていくなど、簡単なことではないはずだ。
「私は姉上と会えなくなるのはイヤだな……」
「私だって寂しいわ。……でもごめんなさい。私は何に変えてもお腹の子を守りたいの。そのために、あなたやミリエルを陥れたんだから、今更引き返せないわ」
頑なに言い切るイヴリーズを見つめてから、カレンはっとする。
「兄上はこの話を知ってるの?」
「スウェン? いいえ、この件はまだ誰にも話してないわ。侍女たちにもね。……さすがにジュゼだけは、何か感づいているかもしれないけど」
「誰にもって……姉上だけの問題じゃないでしょ! せめてお腹の子の父親には、ちゃんと話すべきだと思うよ」
「……無理よ。当てにはできないわ」
カレンはその言い草にかちんと来て、眉を寄せる。
「そんな言い方したら、兄上が可哀想だよ!」
「……さっきから、あなた何を言っているのよ!?」
裏返った声で詰問するイヴリーズに、カレンは至極当然のように言う。
「だって兄上でしょ、お腹の子の父親」
イヴリーズは声もなく、絶望に満ちた眼差しを向けた。




