60、皇女の矜持
「何が皇帝になっても、ですか。本当に厚かましい……」
ミリエルの言葉にはいつもの毒気はあったが、暗い感情はなかった。
「――ミリー。俺はこの数か月ずっとこの人を見てきた。間違っても、お前を陥れるような真似はしない」
ミリエルははっとしたように目を見開く。そして力が抜けたように長いため息をついた。
「……もういいです。どのみち私の嫌疑が晴れたとこで、汚名までは払拭できません。真実はどうあれ、あの母の娘ならやりかねないと言われ続けるでしょう」
「ミリー……」
「それに私は疲れました。身内や兄弟姉妹を疑い続けるのが。……時々、もう終わりにしてしまいたいと思うんです」
人の愛情を心から欲している妹にとって、今のこの状況がどれほど耐え難い物であるかは想像がつく。人の一挙一動を読み、疑い。悪意や嘲笑に晒されながら、すべてを統べる者として、泰然とした態度で立ち続けなければならない。皇太子になるなら、この先も細い糸を渡るような緊張感をずっと強いられるということだ。
「ミリー……まさか皇太子候補を降りるなんて言わないよね……?」
カレンの問いに、ミリーは泣き出しそうに顔を歪め、うつむく。その痛々しい姿にカレンははっとする。
(何で気づいてあげられなかったんだろう……)
ミリエルはもうとっくに、もしかすると最初から限界だったのかもしれない。それでも愛情を注いでくれる祖父に報いるため、母の汚名を雪ぐため。ただがむしゃらに歩み続ける以外、他の道は選べなかったのだ。
「ミリー、もしお前が望むなら――」
ロウラントが言いかけた言葉を遮るように、ミリエルは顔を上げる。
「何を馬鹿なことを言っているんですか!」
そこにあったのは、いつもの高慢なほど強気な笑みだった。
「辞退するなどありえません。血筋、品格、知性、未来の皇帝にふさわしい資質をわたくしはすべて備えているのですから。わたくしが屈するとしたら、それは自分より皇帝にふさわしい圧倒的な存在を前にしたときだけ。だから絶対に継承権を放棄するなどあり得ません。やましいことなどないのだから、選帝会議が終わるまで、堂々と振舞うだけです」
「ミリー……」
思わずカレンは口元をほころばせる。
まだ勝負を降りない、共に戦うと言ってくれたことがうれしかった。
「だいたい、わたくしの兄弟姉妹は、そろいもそろって、いまいち頼りないのだから仕方ないでしょう」
返す言葉がなく、カレンはロウラントと目を合わせ苦笑した。
「笑い事ではありませんよ。カレンお姉様は言うまでもないみそっかすだし、宮廷から逃げ出したランお兄様とユールお兄様も論外。スウェンお兄様だって同母の妹になど遠慮せず、もっと最初から皇子らしい振る舞いをされていればよかったんです」
ミリエルの元にも、同母の兄妹が不仲であるという噂は届いていたのだろう。
「イヴお姉様も体調不良などとおっしゃっていますが、案外選帝会議が近づき、怖気づかれただけなのではありませんか」
辛辣な言葉の中には、離れ離れになりつつある兄弟姉妹仲を慮る気遣いがあった。
先ほどまで絶望に打ちのめされていた様子が嘘のように、ミリエルはすでに精神を立て直しつつあった。守られる存在でなく、守る存在。ミリエルも自負するように、間違いなく皇帝にふさわしい強靭な精神の持ち主だ。
「……うん、ありがとう。ミリエルはすごいね」
「馬鹿にされているように聞こえるので、当然のことをいちいち口に出さないでもらえますか?」
ついと横を向く、気位の高い猫のようないつもの仕草にカレンは笑う。
「いや、確かにすごい。まさか誰よりも先に、ミリーが俺の正体に気づくとは思わなかった」
「そ、それはたまたまで……」
かつて非の打ちどころのない、完璧な皇子と言われた長兄に手放しで褒められ、ミリエルは少し頬を赤くする。
(私が褒めた時と反応が違い過ぎない……?)
密かに不貞腐れるカレンに気づかず、ミリエルは言う。
「みんなが鈍感すぎるのです。カレンお姉様はともかく、イヴお姉様たちまで気づかなかったのは、正直どうかと思います」
ロウラントが複雑そうな面持ちで言う。
「どうも俺は子供の頃の面影があまり残っていないらしい。そこは結構自信があった。……さすがにスウェンに話しかけられた時は、少し肝が冷えたけど」
ランディスとグリスウェンは誕生日が一か月しか離れてない、同い年の兄弟。つまりロウラントの実年齢はグリスウェンと同じ、二十一歳ということになる。ランディスが遊学に出たのが十年前。その間に一度だけイヴリーズとグリスウェンに再会しているが、火傷のせいでまともに顔を合わせていないだろう。
十一歳の少年と大人になって再会したのなら、わからなくても仕方ないかもしれない。むしろ当時三、四歳だったミリエルがよく覚えていたものだ。
「ランお兄さまのお顔は、実はわたくしもあまり覚えていません。でも困った時のお声は変わっていませんでした。……あの頃もわたくしが泣くと、お兄さまはすごくお困りになっていたでしょう? 不器用なのはお変わりないようですね」
「……俺もまだ子供だった。年齢の近いイヴや男のユールと違って、お前やディアみたいに小さな女の子はどう扱っていいか、よくわからなかったんだ」
「私のこと扱いあぐねてるのは、今も一緒じゃん」
二人から同時に半眼で睨まれ、カレンは黙る。
「……心中お察しします、お兄様。でもあえて茨の道を選ぶあたり、やはり不器用でいらっしゃいますね」
「本当に返す言葉がないよ」
ロウラントは軽く肩をすくめた。




