57、兄の顔
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ぎゅっと目を閉じ、迫りくる刃が体を貫くのを覚悟したが、予想した痛みはしばらくしてもなかった。恐る恐る目を開けると、ミリエルの背後にロウラントが立っていた。
「……ナイフを捨ててください、ミリエル殿下」
眦を釣り上げたミリエルが、自分の手首をつかんだロウラントを睨みつける。大人の男に拘束されているというのに、その力も殺意もまったく緩まない。
「わたくしから手を放しなさい下郎……!」
「ナイフを捨ててください」
罵倒にも怯むことなく、ロウラントは冷静に同じ言葉を繰り返す。しかしその表情には、かすかに困惑があった。
ロウラントならその気になれば、無理やりミリエルの手からナイフを叩き落とすことも、その手を捻り上げることもできるはずだ。とはいえ、まだ子供であるミリエルを力尽くで取り押さえる真似は、さすがのロウラントでも気が咎めるらしい。
カレンは床を這うように距離を取り、立ち上がって痛みに顔をしかめる。転んだ時に足を捻ったらしい。
「……ミリー、お願いだから落ち着いて――」
言ってはみたものの、ぎろりと、手負いの獣のような眼光で睨まれ、説得は無理なことを悟る。
その時ロウラントが、空いていた左手を動かした。ミリエルの手首を掴んだまま、もう片方の手をナイフの刃に添える。
「――もう一度言います。ナイフを捨ててください」
「放しなさい!」
ミリエルが拘束から逃れようと、身をよじろうとした瞬間、ロウラントはナイフの刃に触れた手に力を込めた。熟れた果実を握りつぶしたかのように、手の中から赤い血があふれ出す。
その光景に、ぞわりと背筋が凍りつく。
ややあってから、ぱたり、ぱたりと滴った血が白い絨毯の上で、赤い花が咲いたように模様を作る。
それを間近で見せられたミリエルの恐怖は、カレンの比ではなかっただろう。喉の奥から「ひっ」という悲鳴が聞こえた。
ロウラントは恐怖する少女たちとは対照的に、涼しい面持ちでさらに刃を握る力を籠める。手の甲が白くなるほどの力が加わり、さらに刃が肉に食い込む。どくどくと大量の血が流れ落ちていく様に、カタカタと震えるミリエルの手から、ようやくナイフが離れた。
しかしロウラントは、刃を握ったまま掲げた手を下ろそうとしない。
「ロウ、何してるの!? もうやめてよ!」
カレンの悲鳴のような叫びにも構うことなく、ロウラントは淡々と血の滴る拳を突きつけながら、ミリエルに語りかける。
「人の殺すのなら、流れ出す血はこんな物の比ではありません。これに怖気づく程度の覚悟なら、あなたに刃を人に向ける資格はない。二度とこんな振る舞いをしないと誓いますか?」
目の前で滴り落ちる血に、ミリエルは完全に硬直していた。
「――ミリエル殿下?」
地を這うような声で名を呼ばれ、ミリエルはびくりと肩を揺らし、ぎこちなく何度も頷く。
ロウラントは短く嘆息すると、ようやく懐から取り出したハンカチでナイフを包む。
「ロウ!」
カレンはテーブルの上にあったナプキンを掴み、ロウラントの手を取る。
「……汚れますよ」
「うるさい、馬鹿!!」
カレンに怒鳴られ、ロウラントは目を丸くする。
ロウラントを床に座らせて、手の傷にナプキンを抑える。しかしすぐに布地が真っ赤に染まり、使い物にならなくなる。カレンは皿や果物が落ちるのも構わず、テーブルクロスを引き寄せる
(これ……まずくない?)
いくら急所ではないとはいえ、恐らく太い血管が切れている。そして生々しい肉から覗く白い物の存在に気づき、カレンは「うっ」とうめく。血の気が引き、気が遠のきそうになった。
「……気持ち悪いなら、見ないでくださいよ」
「誰のせいだと思ってるの!? もっとしっかり布を握っててよ、止血にならないじゃない!」
「もう手の感覚が無いので無理です」
「本当何してんの!?」
「ふっ……ああ…あ……」
ふいに悲鳴のような声が漏れた後、ミリエルは大きく瞳を見開きしゃくりあげる。そして幼子のように大声をあげて泣き始めた。その様子にカレンは呆気にとられ、思わずロウラントと顔を見合わせる。
「ミ、ミリー!? ちょっと待てって、今それどころじゃ――」
わんわん泣く合間に、「ごめんなさい」や「カレンお姉様」といった言葉がどうにか聞き取れたが、今のカレンには落ち着いて話を聞く余裕がなかった。
「ああ、もう……」
「ミリエル殿下……大丈夫ですから、まず落ち着いてください」
ロウラントが恐る恐る話しかけるが、ミリエルはますます大声で泣きわめく。
「あの、だから大丈夫なので――」
「全然大丈夫じゃないでしょ!」
「ややこしいから、殿下は黙っていてください!」
理不尽に怒鳴られ、カレンは鼻白む。何が何やら、もう滅茶苦茶だ。
「な、泣かないでください、ミリエル殿下」
「い、いやぁ……ごめんなさい、ごめんなさい――!!」
「……ミリエル殿下」
いやいやと、むずがる子供のように頭を振る少女を前に、かつてないほど困り果てた様子のロウラントは、空いている手で目元を抑える。カレンが恐慌状態に陥った時に、憎らしいほど冷淡な反応を見せた男とは思えなかった。
「もう頼むから……泣かないでくれ……」
今まで聞いたことがないほど狼狽した、ロウラントの声にカレンは驚く。
しかしふいに、ミリエルがぴたりと泣くのをやめた。紫色の瞳をいっぱいに見開いて、ロウラントを見つめている。その視線になぜかロウラントはさっとうつむいた。
「ね、ねえ……これはお医者さん呼ぶしかないよ」
この騒ぎが露見するのはミリエルのためにも避けたかったが、ロウラントをこのままにはできない。騎士である彼が剣を取れなくなる――その重大さはカレンでも想像がつく。
「……必要ありません、殿下」
落ち着きを取り戻したロウラントが、いつもの声音で言う。
「だって――」
「本当に大丈夫なんです」
ロウラントは血液で重く濡れた布を傷から離す。
「あ、あれ……?」
血で汚れながらも、そこに骨まで見えていたはずの真新しい傷はなかった。そっとドレスの袖でロウラントの手を拭うと、傷口の肉がいびつに盛り上がっているが、完全にふさがっている。
「……もうそろそろ潮時だと思っていました。だからこれでよかったんです」
どこか自分に言い聞かせるような口調で、ロウラントはひたとカレンを見据えていた。
「どういうこと?」
「これは俺の『祝福』です。イヴとは逆で自分の傷だけ自在に治せる。そういう体質なんです」
世間話のような声音が冗談にしか聞こえず、思わず乾いた笑いが零れる。
「いやいや、何言って――」
「……ランディス、お兄さま」
「え……?」
かすかに聞こえたミリエルのつぶやきに、カレンは息を呑む。
「あなたは……もしかして、ランディスお兄さまですか?」
恐々とすがるようなミリエルの問いかけに、ロウラントが濃紺の瞳が揺れる。わずか一瞬の間に、躊躇、悔恨そして諦めと、様々な感情が彼の心を過ったのがわかった。
やがてロウラントは嘆息と共に、かすかな笑みを浮かべた。
「……鈍感な兄姉たちより、よほど敏いな、ミリー」
ロウラントは汚れていない手を伸ばし、ぎこちなくミリエルの頭を撫でた。それは一度たりともカレンに向けたことのない、彼の『兄』としての顔なのだとようやく気づいた。




