54、濡れ衣
「……誰も部屋に来ないで」
正宮殿で皇帝との謁見を終えたミリエルは、真っ青になって自分の離宮へ戻って来た。足取りもおぼつかない様子で、ふらふらと自室に向かいながら、侍女たちに告げた。
「お、お姫様ぁ……」
あたふたと取りすがろうとする元乳母のメイベルを、ミリエルは無言のまま暗い瞳で一瞥し黙らせる。侍女たちがおろおろとしている間に、ミリエルは自室へと入りドアを閉めた。そのままドアに背を預けるように、ずるずると床に座り込む。
ミリエルは目を見開いたまま、銀細工で飾られた黒髪を両手でぐしゃりと掻き乱した。このまま襲撃事件の嫌疑が晴れなければ、皇太子候補からは脱落するかもしれない。特例として宮廷に残ることすら期待できない。
(……それに、嫌疑が晴れたところで、もう――)
何の前触れもなく、皇帝の書斎に呼び出されたミリエルは、父ディオスからある話を聞かされた。トランドン伯爵の遠縁に当たる宮廷官吏が、出入り商人から賄賂を受け取った罪で告発され、捕縛されたと聞いた。
その話を聞いた時点では、それほど大事になっているとは思っていなかった。祖父の遠縁とは言え、その官吏はミリエルの管理義務にある人間ではない。選帝会議が近づく今の時期、親族の脇の甘さに対する軽い注意程度だろうと、考えていた。
だが父は険しい顔つきで、ミリエルに一通の手紙を差し出した。官吏の自宅から押収された物だと告げた。その手紙の内容にミリエルは愕然とする。手紙の差出人はミリエルもよく知る、自身の従者である青年だった。その従者もまた祖父方の親族だ。
手紙には親しげな親族同士と思しき挨拶のやり取りの後、こう書いてあった。
『我が愛しき君は、イヴリーズ皇女の存在にお心を曇らせている。なんとか亡き者にできないか』と。それはどう見ても、イヴリーズを暗殺するための計画を持ち掛ける内容だった。
さらに手紙にはミリエルへの主従を超えた募る想いや、その愛に応じてくれたミリエルの様子などが書かれていた。色恋のことなど断片的な知識しかないミリエルにとって、それは耐え難い内容だった。むろんすべて事実無根だ。だがその筆跡は――特徴的な右下がりのその字は、間違いなく左利きである従者のものだった。
あの出過ぎたところのない控えめで真面目な青年が、こんな恐ろしい妄想をしていたなど考えたくもなかった。さらに問題なのは、この手紙はミリエルがイヴリーズの襲撃を唆したとも取れる内容だった。ここに来て自分が置かれている立場を理解し、ミリエルは恐怖に囚われた。
ミリエルは慌てて自分の潔白を父に訴えたが、言っているそばから、自分でもその言葉が軽薄な物にしか聞こえないとわかっていた。だがミリエルには他に無実を証明する方法がなかった。
ガタガタと震え涙を浮かべる娘に、父は言った。
「父としては娘の潔白を信じたい。だが少なくとも従者を監督できなかったことは、主であるお前に責任がある」
それはもっともな指摘であり、返す言葉もなくミリエルはうなだれるしかなかった。
そして気づいてしまった。手に持った手紙から淡く香る匂いに。おそらく手紙をしたためた人間の移り香だろう。従者の趣味ではない。女物だ。どこか馴染みのあるその香りに、ミリエルの脳裏にすべての道筋が浮かび上がる。
父はミリエルの動揺に気づかず、話を続ける。
「手紙だけでは、お前が首謀者だと断じることはできない。襲撃事件の件で罰を下すことはない」
ミリエルがほっとするのもつかの間、父は険しい表情を崩さぬまま言った。
「宮廷中にこの一件が知れ渡るのは時間の問題。そうなれば必ず、十年前の事件と重ね合わせ噂されるだろう」
十年前の事件――ミリエルの母アンフィリーネが軍事機密を他国に流し、処刑された件のことだ。他国の特使との色恋に溺れ、言われるがまま罪を犯してしまった母。そして事実無根ではあるが、形としては従者を色香でたぶらかし、姉殺しという大罪を犯そうとした娘。引き合いに出されるのは確実だった。
その屈辱を想像するだけで、心が焼け切れそうになった。いっそ先程気づいた、手紙に残る香りについて父に進言しようかと思ったが、この状況では聞き苦しい言い訳にしか聞こえないだろう。潔白を信じる、と言った父を失望させかねない。
「従者への監督不行き届きの責任として、しばらくの間離宮での蟄居を命じる」
最終的に父はミリエルにそう命じた。
けじめの意味もあるだろうが、心無い噂からミリエルを遠ざけようという、気遣いであることもわかっていた。アンフィリーネの件でひどく心を痛めているのは、父もまた同じはずだ。ミリエルはその命令を受け入れるしかなかった。
灯りのない暗い部屋の中で、膝を抱えながらミリエルは考える。この件でミリエルは、やはりあの母の血を引く、罪深くふしだらな娘と言われ続けるだろう。犯行を指示したという疑いが晴れたとしても、男を誑かしたという噂まで払拭できまい。
皇太子に選ばれた者をのぞき、皇子皇女は純潔でなければならない。その汚名だけで皇太子候補としての失墜を意味していた。
ミリエルはゆっくりと泣き濡れた顔を上げる。闇をたたえた瞳で、虚空を見据える。
(全部、あの人のせいだ……)
父から受け取った手紙に残された香りは、ミリエルがよく知る人物が使っている香水と特徴が似ていた。もちろんいつも同じ香りをまとっているわけではない。しかしミリエルが茉莉花の香りを好むように、彼女も常に際立たせて使う香りがある。手紙からはその特徴的な香りがした。――まるで挑発するかの如く。
愛情を示し、油断させ、突き落とす。美しい顔とは裏腹に、小賢しい彼女ならやりかねない。
「……絶対に許さない――お姉様」
血がにじむほど口唇を噛み締めて、ミリエルは呪うようにうめいた。
2023/10/10 誤字修正




