47、異国の王子
(バルゼルト王子のことは噂には聞いていたが……。それに彼女がフィンシャー男爵夫人か)
フィンシャーという名前はロウラントも知っていた。一年ほど前に、若くして落馬事故で亡くなった男爵だ。これといって目立つ人物ではなかったが、真面目で勤勉な青年として知られていた。夫人との間にはまだ幼い子供もいたはずだ。
近くにいた貴婦人たちが、気遣わしげにささやき合う。
「お気の毒に……シレナ様はいつもバルゼルト殿下にあのように?」
「ええ、噂ではすでに結婚を迫られているとか」
「でも未亡人の男爵夫人と一国の王子では……」
「お妾ということでしょうね」
王子がさらに顔を寄せると、シレナは今にも泣きだしそうだった。婦人たちはその光景に小さく悲鳴を上げ、痛々しそうにそっと扇の陰に顔を伏せた。
無理もない。バルゼハルトは武人の国の王族らしく、筋骨たくましい山のように堂々たる体躯の持ち主だ。さらに粗く削られた岩のような顔立ちに加え、額や頬に無数の刀傷がある。笑うたびに乱杭歯がのぞき、凶悪な獣を思わせた。あれで身なりがそれらしければ、完全に山賊だ。
対してシレナは成人女性としては華奢で、慎ましやかな容姿もあり、カレンとそう変わらぬ少女のようにも見える。王子はあくまで熱心に語りかけているだけで、けして夫人に無体を働いているわけではない。しかし二人があまりに対照的すぎて、とにかく傍から見た絵面が悲惨過ぎた。
これが街中であれば、即時衛兵が駆け付ける騒ぎになっていただろう。しかし厄介なことに相手は一国の王子だ。迂闊に格下の者がいさめに入れば、王子に恥を掻かせることになりかねない。だからあの悲惨な状況を、誰も止められないのだ。
こういう時は下手に男が割って入ると、大抵話がこじれる。できれば王子と同格の異性――つまり皇族女性に、やんわりと場を収めてもらう方がいい。ロウラントは周囲を見渡すが、主催者であるイゼルダ皇妃の姿は近くに見えない。となれば――。
「殿下、イヴリーズ殿下はどちらに?」
「それが私も姉上の姿を見てないんだよね」
「……先ほどデ・ヴェクスタ家の方から聞きました。イヴお姉様は体調がよろしくないから、今晩は欠席されているそうです」
話を聞いていたらしく、ミリエルが扇の陰でひそひそと言う。
「体調が? そういえばこの間会った時、あんまり元気がなさそうだったような……」
「ここ十日ほど、どの催しにも出ていらっしゃらないそうですよ」
「そう……それは心配だね」
「……はい」
姉妹は眉尻を下げて顔を見合わせた。
その間に、婦人たちのざわめきが大きくなる。もはや非難の声を隠そうともしていない。
「ひどい……っ」
「……いくら何でもご無体が過ぎるわ」
見れば、バルゼルトはシレナが背を預けた木の幹に、覆いかぶさるように手を付いている。あれがルスキエの華やかな青年貴族であれば、熱心に未亡人を口説く情熱的な若者として、周囲も見守ったはずだ。……視覚の印象とは残酷だ。
「あれではまるで、遊び女の扱いね」
「でもあの方、毎回バルゼルト殿下にあのように絡まれてるのよ」
「この間の舞踏会だって酷いものよ。……口にするのもはばかられるわ。どうしてこうなるのがわかっていて、毎回夜会に来るのかしら?」
「案外、あの方も期待しているのではなくて?」
同情の声が上がる一方、くすくすと嘲るような笑い声が聞こえて来た。カレンが眉根を寄せ、険しく表情を引き締める。
ロウラントには、シレナが小まめに茶会や宴に顔を出す理由がわかる。フィンシャー男爵家は先代夫人が浪費家だったせいで、男爵が存命の頃から困窮していた。それを生真面目な若夫婦が何とか挽回しようと、あちこちに援助を求め、領地経営の見直しを計っている最中だった。
その最中に男爵が亡くなり、若妻と乳飲み子が残された。我が子が成長するまで、なんとかシレナの手で家門を立て直すしかない。夫が残した人脈を維持するためにも、シレナには社交界で顔を出しておく必要があった。どんなに侮辱を受けようと、愛した夫が残したものを守るため、彼女にはただ耐えるしかないのだ。
ロウラントはシレナを侮辱する貴婦人たちを冷ややかに見つめる。
美しく化粧を施した下にあるのは、傷を負った者の血の匂いをかぎ分け追い詰める、獣のような素顔だ。どんなに身分が高かろうと、巨万の富を得ていようと、それは彼女たちの父や夫に付属するもの。日銭を稼ぐ術のない彼女たちにとって、明日は我が身であるかもしれないのに。なぜ男爵夫人を嘲ることができるのか、まるで理解ができなかった。
「お姉様! スウェンお兄さまが――」
ミリエルがカレンの袖を引く。
バルゼルトの元へ向かおうとするグリスウェンを、彼の従者が必死でなだめる姿が見えた。王子の狼藉を見かね、自分が止めに入るつもりだろう。
ロウラントは歯噛みする。いかにも実直な彼らしい行動だが、グリスウェンが行くのは一番の悪手だ。年下の、それもいかにも見目が良い皇子に、貴婦人への礼儀をいさめられるなど、確実にバルゼハルトの矜持を傷つける。王子同士が未亡人を巡って、揉めごとを起こしたなどと噂されれば、醜聞もいい所だ。それならばいっそのこと……。
ロウラントが隣を見やると、視線に気づいたカレンが腰に手を当てて、不敵に笑って見せる。その様子にロウラントは苦笑する。
いい加減、カレンという人間のことはわかっている。彼女ならうまく機転を利かせ、場を収めるだろう。いくらバルゼルトでも年下の皇女には無体はできまい。その点の心配はなかった。
ただし一言だけ、ロウラントはカレンに告げた。
「……殿下、言っておきますが、男爵夫人を助けても、彼女は救われませんよ」
カレンはその意味を考え小首を傾げる。しかしすぐに、ロウラントの真意に思い至ったのか、にんまりと笑う。
「うん、わかった。助けない」
「それがよろしいかと思います」
「お姉様……?」
カレンは不安そうな表情を浮かべる、ミリエルの頭を撫でる。
「いい子で待っててね、ミリー」
「だから子供扱いしないで!」
姉の手を払い、むくれるミリエルをおかしそうに笑うと、カレンはバルゼハルトの元へと歩き出した。少し離れて、その後ろをロウラントは付いて行く。
「御機嫌よう、バルゼルト殿下、それにフィンシャー男爵夫人。今宵は風の気持ち良い夜ですこと」
その声にバルゼルトが振り向き、シレナも驚いたように涙に潤む瞳を向ける。
「そなたは……」
「第二皇女カレンディアと申します。先ほど兄たちと共にご挨拶させていただきましたね」
「ああ、そうだったな。……それで姫、何用だ?」
シレナとの会話を邪魔されたバルゼルトは、不機嫌を隠さず不躾に言った。
対してカレンは、動じた様子もなくにっこり笑う。
「お二人の仲睦まじいご様子が、あまりにも微笑ましくて――」
「ほう?」
「まるで『マクシス伯爵とミレッサ』のようなのですもの」
この成り行きを周囲は息を潜めて見守っていたため、カレンの良く通る声は風に乗り遠くまで響いた。その物言いにバルゼハルトは呆気にとられ、シレナは目を見開き硬直していた。
『マクシス伯爵とミレッサ』――帝都で今人気の歌劇の登場人物だ。まぬけで女好きなマクシス伯爵と、元娼婦の愛妾ミレッサは、周囲をはばかることなくあちこちで情事を交わし、周りを呆れさせる道化役だ。
そのあまりに無礼な言葉に周囲がざわめき出す。
「――取り消せ、姫」
バルゼルトの鋭い眼光がカレンに向けられた。
「子供でも、言ってよいことと悪いことがある。ルスキエではそんなことも教えられないのか?」
「だって、あまりにも人目を気にされないのですもの。――ああ、そうだわ男爵夫人。お帰りの際は、馬には気を付けられた方がよくってよ」
「え?」
きょとんとしているシレナに、カレンは口元に手を当ててクスクスと笑う。
「だってミレッサの元夫は馬に蹴られて死んでいるんですもの。そして話の最後では、ミレッサが同じ馬に蹴られて肥溜めに落ちるのよ」
その一言に、誰もがシレナの夫が亡くなった落馬事故を思い浮かべた。あまりの侮辱に言葉にシレナは絶句し、やがて唇を震わせて涙を浮かべた。




