37、清く、暗く
2022年9月20日 誤字訂正
「馬鹿を言うな!? 母を侮辱する気か!?」
母が不貞を働いていたと聞かされ、思わず声を荒げるグリスウェンを、イヴリーズは静かに見つめ首を振る。
「事実よ。それに侮辱するつもりはないわ。皇妃たちは誰もが望んで、父上に嫁いで来た訳ではないもの。……私の母も含めてね」
イヴリーズの母、第二皇妃セシリアも病のため若くして亡くなっている。敬虔なデ・ヴェクスタ家に生まれた娘らしく、淑やかで従順な女性だった。そして家族の意向に逆らえない弱い人でもあった。
「……では俺の本当の父親は、母と通じていたその男なのか?」
グリスウェンは愕然としていた。彼は兄弟姉妹の中でも、特に父である皇帝を敬愛している。これを伝えるのはあまりにも辛かった。
「おそらく――いいえ、この状況からして間違いなくそうなるわね」
「誰なんだ、その男は……――いや、そんなことはどうでもいい。とにかく俺には、皇子を名乗る資格はないんだな?」
グリスウェンは目を見開いてうなだれる。
彼が何を考えているか、イヴリーズにはよくわかる。
皇帝である父は決して非情ではないが、厳格なことで知られている。必要とあれば私人としての情より、皇帝としての判断を優先するだろう。――アンフィリーネ皇妃の処刑を命じたときもそうだった。そして身分の僭称は罪が重く、まして皇族を騙ったとなればどうなるかわからない。
「スウェン、落ち着いて」
イヴリーズが思わず伸ばした手を、グリスウェンがふいに掴む。
「待ってくれ! じゃあカレンは!?」
言われてイヴリーズもはっとする。彼を心配するあまり、そこまで考えが及ばなかったのが自分でも不思議だ。
カレンディアはグリスウェンの同母の妹。グリスウェンとイヴリーズたちに血の繋がりはなくとも、カレンが妹であることに変わりはない。
腕を掴まれたまま、イヴリーズも困惑する。
「……わ、わからない。でもカレンが生まれる直前まで、ルテア妃とその男性の交流はあったはずよ」
その言葉にグリスウェンの瞳に絶望が灯る。
グリスウェンはイヴリーズの両手を握ったまま、懇願するように頭を伏せた。その手は冷たく、ひどく震えていた。
「イヴ、助けてくれ……」
いつもの陽気な彼から発せられたとは思えない、何もかも投げ打った悲痛な声に、イヴリーズは胸が締め付けられた。
「俺はどうなってもいい! どんな罰も甘んじて受ける! だからカレンだけは……イヴの力で守ってくれ、頼むっ……」
グリスウェンの後見役で親戚とはいえ、現アーシェント伯爵は野心家だった先代とは違い、事なかれ主義で強い発言力を持った人物ではない。あっさりと兄妹を見限り、自分の保身に走るだろう。兄妹には他に力になってくれそうな人脈もない。グリスウェンは矛盾とわかりつつも、自分の秘密を握るイヴリーズにすがるしか方法がないのだ。
イヴリーズは一つ息をつき、覚悟を決めてグリスウェンを見やる。
「……グリスウェン、私から手を放しなさい」
あえて厳かな声音で、イヴリーズは彼の名を呼んだ。
息を呑む気配の後、グリスウェンは力が抜け落ちたようにイヴリーズの手を離した。伏せた顔の下で、彼がかすかに自嘲するのがわかった。大方、どこの馬の骨ともわからない自分が、皇女に触れる資格はないなどと考えているのだろう。――それが腹立たしかった。
イヴリーズは高く音が鳴るほどの勢いで、グリスウェンの頬を両手で挟む。痛みに歪む顔を無理やり持ち上げる。
「イヴ……?」
視界の中で、狼狽する顔が見る見る内ににじんでいく。イヴリーズは涙で潤む瞳でグリスウェンを睨み続ける。少しはその意味と価値が伝わるだろうか。
「馬鹿ねっ! 何がどうなってもいいよ。言われなくたって、あなたとカレンのことは私が守るわ。私はいずれ皇帝になる女なの! その程度の度量、当然持ち合わせてるわよ!!」
「す、すまん……」
グリスウェンはイヴリーズの本心を悟り、恥じ入ったように視線を逸らす。
彼とは誰よりも長い付き合いだ。自分のことは一番に理解してほしいし、そうでないことがたまらなく嫌だった。
「……疑われたのは腹が立つけど、わかればいいわ」
イヴリーズが泣き濡れた瞳のまま、澄まして言うのがおかしかったのか、グリスウェンがようやくかすかに笑った。
イヴリーズが涙をぬぐって言う。
「そもそも、ルテア皇妃の不貞を――ごめんなさい、嫌な言い方よね」
「いや、いいんだ」
グリスウェンは静かに首を振る。すでにその表情は冷静さを取り戻していた。
「そういう事実を、どうして今まで伏せさせていたと思う? ――継承争いにおいて、あなたとカレンは私の敵にはならない。だから秘密を暴露するほどの価値はない。むしろこの事実を盾に懐柔する方が、武勇の才に恵まれたあなたを利用できると、私が大司教に言い含めたからよ」
我ながらひどい言い草だとは思うが、「……確かにそうだな」とグリスウェンは納得したようにうなずく。
「だから何も心配しないで。あなたは今まで通り皇子としての役割をこなせばいいの。お茶会で宣言した通り、本気で皇太子の座を目指しなさい。私は負ける気はしないし、それがいずれ私の助けになるのでしょう?」
あの日のグリスウェンの強い眼差しと決意。それを取り戻して欲しいがゆえの言葉だったが、逆効果だったことにすぐに気づく。『皇子』と言う言葉を聞いて、再びグリスウェンの表情が曇った。
「父上や宮廷の人々を欺くのか……」
「……そうよ。これからもずっとね」
性根が真面目な彼にとって、それが苦痛であることはわかっている。しかし魑魅魍魎はこびる宮廷で、秘密を抱えたまま生き残るためには、納得させるしかなかった。
「これはカレンのためでもあるの。あの子を救うのに、あなたにちっぽけな罪悪感など何の役にも立たないわ」
妹の名にグリスウェンの心が動くのがわかった。苦渋の表情のまま、「……そうだな」と小さくつぶやいた。
さすがのグリスウェンも、己の信念と妹の未来を天秤欠ける真似はしまい。イヴリーズはそう考えていた。
――ただし、彼はイヴリーズが思う以上に清廉過ぎた。それを後悔することになるなど、この時のイヴリーズは思いもしなかった。
「納得したよ。……心配かけてすまなかった。真実を教えてくれてありがとう、イヴ」
理不尽も失望も、無理やり飲み込んだグリスウェンの笑みはぎこちない。
「いいのよ。あなたが手のかかる弟なのは、今に始まったことじゃないわ」
「弟か……」
グリスウェンは何かを思い出したかのように、おかしそうに笑い出す。
「何よ?」
「お前は知らなかっただろうけど、俺は子供の頃イヴと結婚できるものと思ってたんだ」
突拍子もない言葉にイヴリーズは呆気に取られる。そして頬に上る熱を誤魔化すように、ついと顔を背けた。
「……馬鹿ね。あり得ないでしょう」
「ランにもそう言われた。『姉弟なんだからあり得ないだろう、馬鹿』って。俺はその時までお前たちを、同じ皇子皇女という立場の友達くらいにしか思ってなかったんだ」
細かい矛盾など気にしない子供なら、あり得なくはない話だと思った。実のところイヴリーズも物心つくまで、グリスウェンとランディスを年下の子分だと思っていた。
「でもだからって、どういう発想で結婚できると思うのよ……」
「だってイヴは俺の憧れだから」
一遍の曇りもない晴れやかな笑みで言われ、イヴリーズはどきりとする。
「綺麗で、頭が良くて、喧嘩も強くて、何でもできて……キラキラした太陽みたいな存在だった」
「それはどうも……」
いや、何か余計なことも言われた気がする。
「皇子たる者は一番優れた女性と結婚するんだと、周囲の大人に言われていたからな。じゃあイヴは俺と結婚するんだと思ったんだ」
そこまで言うなら、お付きの大人たちも姉とは結婚できないと教えてやればいいのにと呆れる。
「だからランに指摘された時、俺はがっかりして、『それならイヴの弟をやめる』って言ったんだ」
「スウェン……」
グリスウェンはうつむくように髪をぐしゃりとかき乱し、声を震わせた。
「……こんな……意味じゃなかったんだけどな……」
「スウェン、私は――」
言いかけたイヴリーズの言葉を遮るように、グリスウェンは首を振った。その表情は異様なほど穏やかだった。
「いいんだ。くだらないことを言ったな。――イヴ、俺はもう大丈夫だから行ってくれ。一人で考えを整理したい」
言葉は柔らかいが、それがはっきりとした拒絶だとわかった。
「でも……」
「皇女様がよその男と二人きりになるのはまずいだろう」
冗談めかした口調だったが、その一言にイヴリーズは心に鋭い痛みを感じた。
「……何かあったら呼んで」
イヴリーズはそれ以上言葉を重ねることができなかった。
立ち上がると、部屋の扉へと向かう。
去り際に顧みた、外を眺めるグリスウェン表情はすでに苦悩する様子はなかった。むしろ憑き物が落ちたように澄んでいて、そのあまりの清さにイヴリーズはぞっとする。
気心知れたはずの弟が、まるで見知らぬ男のように見えた。
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