29、真実よりも信じたいこと
胃の辺りが気持ち悪い。人間ショックなことがあると、本当に吐きたくなるのかと、どこか他人事のように思った。力の入らない足でふらふらと近くの木に辿り着くと、すがるように手を付き、根元に座り込んだ。
「殿下!?」
最後の抵抗で、ロウラントが差し出した手を払いのける。
爪が当たったのか、かすかにロウラントは呻いたが、ゆっくりとカレンの背をさすり始める。込み上げる吐き気に、カレンは抵抗する気力がなかった。波のように幾度となく押し寄せる吐き気にあえぎ、耐えていると、少しずつだが楽になってきた。
カレンの様子が落ち着いてきたことを見計らって、ロウラントがぽつりと言う。
「……もしあなたの言い分がすべて本当だったら、あなたはすでに死んだ人間で、ディア様の体に魂のみが宿ったということになります」
カレンは言葉を返せなかった。背中をさする手のぬくもりに涙が零れそうになるのを、唇を噛み締めて堪えた。
「いつかディア様の魂が戻って、あなたが消える可能性を考え続けなければならないのは……俺だって苦しいですよ」
絞り出すような弱々しい声に、カレンは固まる。
カレンは振り返ってロウラントをひたと見つめると、恐る恐る問う。
「それって、ディアよりは私が『カレンディア皇女』の役割を果たす方がマシだからってこと?」
「……わかってて聞いているでしょう?」
ロウラントは怒ったように顔を背けたが、その頬が少し赤い。
「待って! そこはちゃんと言おうよ!」
「俺があなたに好意を抱いているからです」
思いのほか、はっきりと言われて、今度はカレンが顔を赤らめる番だった。
「や、あの……それって……そういう?」
「妙な意味に取らないでください! 何というか、その、相棒的な観点からと言うか……とにかく友誼とか信頼とか、そういう意味です」
妙な身振り手振りで、慌てて言い繕うロウラントに、カレンは半眼で唇を尖らせる。
「なーんだ。ついに恋の告白されたかと思ったのに」
「……勘弁してください」
ロウラントがげんなりと天を仰ぐ。
「まあしょうがないか。プロデューサーとアイドルが私的に仲良くなると、何かと外野がうるさいらしいしね」
「何ですかそれ……」
ロウラントはひどく疲れたようにため息をつくと、立ち上がってカレンに手を差し伸べる。
「落ち着きましたか?」
「うん……ロウ、ごめんね」
カレンはロウラントの手を取って立ち上がる。吐き気はすっかり治まっていた。
「別に怒っていませんよ」
呆れたような表情ではあったが。
(ロウは心のどこかで、私が消える日が来るかもって思ってたんだ……)
大切な人との別れを覚悟する辛さはカレンも知っている。そう考えると、能天気に彼に頼り切って、日々を過ごしていた自分が申し訳なくなる。
「……ごめん」
「だから、謝らないでください」
「でもそっか……ロウの言う通りに考えれば、私の魂は死体に戻って消える可能性はないんだ。ディアの居場所を盗ったわけでもないなら、フレイ先生も少し安心できるかな」
さすがにあちらの世界の記憶がすべて幻だったとは、そう簡単には割り切れないが。
「でもそうなると、やっぱり異世界転生説もなくもないのかな……」
そうだとすれば、カレンディアとして目覚めた日より前の記憶が消えている点が疑問になる。首をひねるカレンに、ロウラントは「今はやめましょう」と告げる。
「確証のないことや、答えのないことに悩んでも仕方ありません。我々にはただでさえ、考えなければならないことが多すぎるのですから」
「……うん。そうだよね」
部屋に戻ったら、さっそく今日のお茶会での出来事を話し、今後の方針を考えなければならない。ロウラントの言う通りやることは山積みだ。
「ああ、そうだ。フレイ先生のことは気にしなくて大丈夫です。あの方は最初から、カレン様とディア様は同一だと思っていたそうですから」
「先生って、そういうのあっさり割り切るとこあるよね」
「俺の時と反応が違いすぎませんか?」
「ロウだからね」
微笑んで見せれば、ロウラントはカレンを見てため息をつく。
「何にせよ、事実として今のあなたは『そこそこ』優秀な皇女カレンディアです。そこは変わらないのですから、この先もやることは同じです」
「何でもっと素直に褒められないかなー」
「そうやって調子に乗るからです」
ふと、先の横道から女性たちが笑いさざめく声が聞こえて来た。
ロウラントが素早く、カレンの頭を掴むようにフードをかぶせ直し、自身も顔を隠すためにフードを深く着込む。
「……従者とはいえ、あまり皇女と異性が二人きりの状況を見られるのはよくありません」
言われてみれば離邸以外で、彼と二人きりになったのは初めてだ。
女性たちの声が近づいてくる。
「顔を見られないように通り過ぎましょう」
カレンはうなずくと、すっとロウラントの腕に自分の腕をからめる。はっと身じろぎしたロウラントに小声で言う。
「若い男女が距離開けて歩く方が、不自然で目立たない?」
その言葉に、ロウラントは納得したように体の力を抜いて歩き始める。
やがて脇道から五、六名ほどの一団が現れる。若い男女の集団だ。身なりのいい貴族の子弟らしき青年二人に、少し化粧の濃い女たちがしな垂れるように歩く。脂粉と強い香水の匂いがカレンの元にも届いて来た。どういう職業の女なのかはカレンにも想像はつく。
(同伴ってやつかな……)
昼間はピクニックで、日が暮れるこれからは女たちの店へと繰り出すのだろう。
カレンたちの存在に気づいた女が、舐めるような視線を送ってくる。カレンは恥じらう振りで、ロウラントの二の腕に顔を伏せた。こうしておけば、日暮れにこっそり恋人と逢瀬を重ねる貴族の子女とでも思うだろう。
案の定娼婦らしき女は、青臭い貴族の小娘を嘲るように鼻で笑うと、すぐに興味を亡くしたように、隣の男に甘い声でささやきながら身を寄せる。
やがて分かれ道に差し掛かり、一行とは離れいく。
人の声が聞こえなくなった辺りで、ロウラントが咳払いをした。
「……殿下、そろそろ腕を離してもらえますか?」
「ご、ごめん! 痛かった?」
その怒ったように低い声に、緊張感から思わず指先に力が入っていたことに気づく。カレンはロウラントに絡めていた腕をぱっと離す。
「……いえ」
小さく応じるその横顔を、カレンはまじまじと見やる。
「どうかしましたか?」
「ううん。何でもないよ」
カレンはフードの下で笑いをかみ殺す。
(そっか、ロウって――)
不器用なこの従者は、動揺したり困ったりした時ほど不機嫌な顔を作る。今更ながらそんなことに気づいた。




