21、ミリエルの追憶1
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「お休みなさいませ、お姫様」
ベッドの中で掛物を頭から被ったまま、一言も発しないミリエルを、侍女のメイベルがじっと見つめている気配があった。結局彼女は何も言わず、部屋の明かりを落して去って行く。
部屋の扉が閉まると同時に、ミリエルは掛物を跳ね除ける。胸元から銀色の細い鎖を手繰ると、台座に淡い緑色の石が据えられた指輪が現れた。指輪を握り込み、明かりが落された部屋の中で虚空を見つめる。
「……お母様」
この翡翠の指輪はさほど価値のある物ではないが、母アンフィリーネが残した数少ない遺品だ。ミリエルの曾祖母にあたる人から受け継いだ指輪を、母は肌身離さず持っていた。
この指輪と皇帝から賜ったいくつかの物を除き、アンフィリーネが所有していた宝石や装飾品の類は手元にはない。本来娘であるミリエルが受け継ぐはずの物だが、母が亡くなった折に、祖父であるトランドン伯爵が慈善施設に寄進したと聞いている。
ミリエルの記憶にある母は、いつも鏡台に座り背を向けていた。侍女に髪を結わせ、化粧を施し、夜会のための準備に勤しむ姿だ。そのわずかな時間が母と娘が過ごす時間でもあった。夜通し遊び通し、昼頃まで寝ているアンフィリーネが、子供と接する時間などほとんど取れるはずもなかった。
『ご機嫌よう、私の愛しいお姫様。今日もなんて可愛らしいの!』
支度の時間に母の元へ連れて行かれると、アンフィリーネはうれしそうに幼いミリエルを呼び寄せ、抱きしめて頬に口付けた。軟らかな肢体から伝わる温もりと、かすかに香る母の匂いがミリエルは好きだった。しかしミリエルが甘える間もなく、アンフィリーネはその身を引き離し、すぐに鏡台へと向き直る。
鏡の中の彼女は豊かな金の髪を宝石で飾り、鮮やかな緑色の瞳を輝かせ、薔薇色の頬で微笑んでいた。黒い髪に暗紫色の瞳の自分とは似ても似つかぬ、むしろ彼女の方が物語の姫君のようだった。無邪気で可愛い物や甘い物が大好きな、難しいことや汚い物とは無縁のお姫様。
『アンがお前の十分の一でも賢かったなら……』
母の父親である祖父は、事あるごとに肩を落としそう言った。幼いミリエルから見ても、母は子供っぽい人だった。声を立てて笑い、ときに頬を膨らませ、宝玉のような瞳を潤ませる。くるくると感情が変わる人だ。
後で知ったことだが、本来皇妃に上がる予定だったのは、アンフィリーネの年の離れた姉であり、その人が病で亡くなったせいで、急遽母が嫁ぐことになったらしい。
淑女教育をろくに受けぬまま皇妃となったアンフィリーネの、奔放で気まぐれな言動に宮廷の人々は眉をひそめた。それでもそんな母がミリエルは大好きだった。他の皇妃様たちとは違う、お姫様のように可愛らしいお母様。いつも側にいられなくても、ときどき『可愛い、大好き』と言って抱きしめてくれるだけで十分だった。
転機の訪れた日のことはよく覚えている。
珍しく午前中に、子供部屋に立ち寄ったアンフィリーネと人形遊びをしていると、父と祖父が血の気の引いた顔で突然やって来た。いつも冷静な父が珍しく動揺していたことを覚えている。話の内容はよくわからなかったが、急いたように詰問する父に、母はいつもの朗らかな笑顔で何かを答えた。
その言葉に父は感情を失くしたように茫然とし、やがて無言のまま背を向けて立ち去って行った。祖父はその場で泣き崩れて母を罵った。祖父の慟哭ときょとんとした母の横顔に、ミリエルは子供ながら、何かとんでもなく恐ろしいことが起こっていると悟った。
その日以来、母に会えることはなくなった。流行り病と乳母からは聞かされていたが、それが嘘だとなんとなくわかっていた。
季節を一つまたぐ頃、ようやく母が自室に呼んでくれた。母が好きだと言った淡いピンク色のドレスを選び、跳ねるように母の元へと向かった。なぜか手をつなぐ乳母のメイベルは、目頭と鼻の頭を赤くしていたが、ひさしぶりに母に会える喜びにあまり気にしなかった。
待っていた母は以前と同じように、美しく化粧を施し微笑んでいたが、こけた頬までは隠せなかった。
『……いらっしゃい、ミリー』
腕を広げてミリエルを呼び寄せ抱きしめる。
そのいつもと違う骨ばった感触と強い力に、ミリエルが驚き思わず身じろぐと、アンフィリーネは寂しげな笑みを浮かべた。いつもきらきらと輝いている緑の瞳が、なぜかその日は一際澄んでいて、とても綺麗だった。
やがて席を外したメイベルと入れ違いに、父がやって来た。最後に会った時の父の様子がとても怖かったので、穏やかに言葉を交わす両親の姿にミリエルは安堵した。会えない間に母にはたくさん話したいことがあった。ミリエルの拙いおしゃべりを、その日の母はゆっくりと聞いてくれた。
やがて母は父に向って、何か目配せをしてうなずいた。テーブルの上にあった葡萄水を父がグラスに注ぎ母子に渡した。口に含んだ瞬間、妙な鉄臭さにミリエルは顔をしかめた。それでも手ずから注いでくれた物に、文句を言っては父を困らせてしまうだろうと、我慢して飲み干した。
傍らの母は顔色一つ変えずに飲み干して、父に向って微笑んだ。やはり余計なことを言わなくてよかったとほっとした。
その後母は、ミリエルを膝の上に座らせると後ろから抱きしめた。横では父が絵本を読んでくれた。低く柔らかい声と、体を包む温もりにまどろみかけていると、いつしか母の体が自分に伸し掛かるように、傾いでいることに気づいた。
『おかあさま、ねむっちゃだめよ』
かすかな微笑を浮かべたまま、瞳を閉じる母に困惑していると、父が唇を引き結んで、自分を一心に見つめていることに気づいた。
『ミリエル――』
震える声で名を呼ばれ、冷たい両手がミリエルの存在を確かめるように頬を包んだ。
やがて父はミリエルから手を放すと、眠ってしまった母の体を抱き上げた。乳母を呼んできなさいと告げ、母を寝台に運んで行った。
それが母の姿を見た最後だった。
父もメイベルも、あの日のことをミリエルが詳細に覚えているとは、気づいていないだろう。アンフィリーネが愛人のために、軍事機密を漏洩した罪で処されたことは、祖父を始めお付きの者たちもミリエルの耳にいれまいとしていた。もっともどこぞのお節介な夫人が、うっかり口を滑らせたおかげで知ってしまったが。
あの日、母と自分に自らの血を賜った父のことは恨んではいない。母のしたことは本来なら、公の場で斬首されても仕方のない大罪だ。できうる限りの温情を与えてくれた結果なのだろう。
ミリエル自身のことにしても、両親とはあまり容貌が似ておらず、母の奔放ぶりからも、皇女としての正統性が疑問視されるのは当然だった。祖父と対立する貴族たちを黙らせるためにも、確たる証拠を示さねばならなかったはずだ。
娘の不始末の責任を取り、大臣職を辞すと訴えた祖父を引き留めたのも父だと聞いた。アンフィリーネはすでに皇家の人間であり、実家である伯爵家の者に非はないと。
こうして、アンフィリーネ当人以外に咎が行くことなく事件は終わった。
2024/08/03 誤字訂正




