0、俺の推し、今死んだんだけど
「あの、ですからそういったことは、上と相談してからでないと――』
『だからぁ、君の方でウマいことやってくれればいいんだって。ウチも急なリスケで大変なの! お宅とは長い付き合いでなんだからさー、もうちょっと融通利かせなよ。こういうのアドバンテージ取れるチャンスだよ? んじゃ、よろしくぅー』
「あ、ちょっと――」
一方的に通話が切られる。
慌ててかけ直すが、スマホの向こうから虚しくビジートーンが響くばかりで、一向に繋がらない。脱力のあまりスマホが手から落ちそうになった。
いつも通りサビ残をこなし、雨上がりの濡れたアスファルトを小走りで駅へと向かっていると、受け持ちの客から突然電話がかかって来た。
無茶な要求を押し付けようとする相手に、せめて会社を通すように伝えると、『君がちょっとイジっちゃえばいいでしょ』と事も無げに言われた。その『ちょっと』に、ここ一か月の大半の時間を費やしてきたというのに。
「――ぁああああ!!! あんのくそハゲがぁあ!!!」
雄叫びを上げ、道の真ん中で頭をグシャグシャと搔きむしっていると、向かいから来たウォーキング中と思しき、トレーニングウェアの中年女性達が「ひっ!」と悲鳴を上げて退いた。
「うわぁーびっくりした!」
「いやだわ……気持ち悪い……」
「春はああいう人が多いって本当ね」
(やかましい……聞こえてるわ!)
声をひそめるつもりもないのに、わざとらしく口元を隠す様に余計に腹が立った。
馬鹿馬鹿しさに長いため息をつき、ふとスマホのホーム画面を見る。そこには鮮やかなローズレッドの衣装を身にまとった、ボブカットの愛らしい少女が両手でハートを作り微笑んでいた。
小さな卵型の輪郭、すっと通った鼻梁に瑞々しい果実を思わせる唇。見ているだけで心がとろけるような、溢れんばかりの愛らしさをたたえた少女。
春宮カレン。地下アイドルグループ、《garden quartZ》のエース。自分史上、至高にしてただ一人の推し。
まさか自分が三十路過ぎてアイドルにハマるとは思わなかった。二年前、友人に誘われてしぶしぶ地下アイドルのライブに行った時、そのただ一度の出会いで心を盗まれた。
最初は「こんなもんか」という印象だった。確かに顔はモデルと言われても信じるくらい可愛かった。ただし今時テレビもネットも、顔が良いだけの娘など飽和状態だ。歌とダンスにしても彼女以上に上手い娘は、それなりにいるだろうな。
『スゴい娘がいるんだ!』という、友人の大げさな前評価を聞いていたせいか、ライブの途中で少し興ざめしかけていた時だった。歌がカレンのパートに差し掛かると、突然縫い留められたように目が離せなくなった。
伸びやかな甘い声に乗り、彼女の周囲にだけ光の粒子が舞い上がるような錯覚を見た。客席に向かって微笑みかけられと、なぜか泣きたくなるような、せつない想いに胸が苦しくなった。
ライブ終了後もその胸の高鳴りは止まらなかった。そしてカレンの素晴らしさはステージ上のパフォーマンスだけに終わらなかった。
『お兄さん初めて会うよね? 名前は? ――うん、じゃあユウ君って呼ぶね!』
握手会ではまるで教室の同級生を相手にするように、何の気負いもない自然な笑顔で話しかけてくれた。神がかったステージ上の姿とのギャップに、ぼうっとしてしまった。
自分みたいなおっさんが、十代の女の子の華奢な手を握るのが申し訳なくて、恐る恐る差し出した手を、スタッフが終了を告げるまで、カレン方からぎゅっと手を握り続けてくれていた。
列から追い立てられた後も、しっとりと温もりが残る手を呆然と眺めながら、「もう洗いたくない……」と、ベタなことを本気で考えていた。
さらに驚くべきことに、二度目の握手会では「ユウ君だ! また会えたね!」とカレンから先に声をかけてくれた。その日も、初めて会った時も、彼女の前には長蛇の列が並んでいたというのに、まさか覚えていてくれるとは思わなかった。
カレンはとびきり記憶力がいいだけなのかもしれない。実際、他のファンにも同じような調子で声をかけていた。それでも、自分は彼女の特別になれるんじゃないか――そんな夢を見させてくれた。それだけで十分だった。
待ちに待ったライブまであと三日後。またあの眩い笑顔を見られる。そう思えば、カタカナ語混じりの押しつけがましい講釈を垂れてくる客にも、口を開けば嫌味と口臭をまき散らす上司にも耐えられた。
雲の切れ間から瞬く星空を見上げ、再び歩き出した時だった。住宅街の静寂を引き裂くような、甲高いブレーキ音と共に別の鈍い音が響いた。
思わず後ろを振り返ると、ヘッドライトの中で大きな影が舞っていた。それは自分の少し手前で、大きく水しぶきを上げて何度かバウンドすると、再び地面へと落ちた。
(――ひかれた、人が……)
そう認識した瞬間、背筋がぞわりとし、心臓が早鐘のように鳴り出す。
車に跳ね飛ばされたのは若い女のようだった。長い手足をあらぬ方向に投げ出し、仰向けに横たわる。幼い頃の妹が癇癪を起すたびに、床に叩きつけていた人形を思い出す。
恐る恐る近づくと、微動もせず虚ろな瞳で空を仰ぐ少女は、瞬き一つしていなかった。
(……あ、これダメだわ)
人身事故に遭遇したのは初めてだったが、直感で分かった。地面に叩きつけられた時、工事現場のボーリングのような、人体から絶対にしちゃいけない音がした。
まだ十代だろう、こんなにも若く可愛らしい少女が……――そう思いかけたとき、ようやくその顔によく見覚えがあることに気づいた
「……え……あれ……?」
手に持っていたスマホのホーム画面に視線を落とすと、妙に悟りきった気持ちで納得した。
(だって、しょうがないじゃん……)
毎日眺めている彼女はいつだってこんな風に満面の笑みで、その黒い瞳は星空のような輝きでいっぱいだった。だから目の前で転がる、空洞のような瞳をした少女が、春宮カレンとわからなくても仕方なかった。
少女が横たわる濡れたアスファルトが、周囲の明かりをキラキラと反射している。場違いにもライブのステージのようだと思ってしまった。彼女が着ている白いオーバーサイズのスウェットがじわじわと赤く染まっていく。太腿の半ばまで丈があるそれは、ワンピースのようにも見えた。カレンのメンバーカラーであるローズレッドの衣装を思い出す。
「ちょっと! あんた何ボケっとしてるの!?」
「電話持ってるなら、救急車呼びなさいよ!」
少し前にすれ違った、ウォーキング中の女性達に怒鳴りつけられた。無茶言うなババアと、心の中で毒づく。
だって俺の、ただ一人の――。
「推しが今、死んだんだぞ……」