10、エレシアの過去1
カレンは机に上に広げられた地図を指さす。
「――じゃあ、その次の日の経路ね。地図で見ると、ずいぶん遠回りしてるように見えるんだけど……」
「確かにドレーク伯爵領からレブラッド公都を目指すには、ヘルゼ湖畔の東へ行くのが最短です。ただあの近辺の村は昨年鉄砲水に見舞われまして、今も小規模な土砂崩れが頻発しています。迂回する方が安全です」
「それならなおさら、皇太子がお見舞いを兼ねて訪問した方がよくない?」
「お気持ちはわかりますが、治安に不安があります」
カレンが自分の執務室でロウラントを顔を突き合わせ、近々出立することになる巡啓に向けて話し合っていると、ドアを叩く音が響いた。返事すると、茶器をトレイに乗せたエレシアがいた。
「殿下、お茶をお持ちしました」
「ありがとう。――イゼルダ様からユンロンの緑茶をいただいたの。ロウも同じ物でいい?」
「いただきます」
「エレシア、淹れてくれる?」
「かしこまりました」
ロウラントと地図を見ながら会話を続けていると、ふと視線を感じ顔を上げた。視界の端で、お茶の準備をしながらエレシアがちらちらと、自分とロウラントをうかがっているのがわかった。その瞳が興味の色でらんらんと輝いている。
(そりゃあ気になるよね……)
仕える主が、目の前の相談役と夜更けになるまで離宮に戻らず、それまでずっと二人きりで過ごしていたと説明されれば、状況としては致し方なかったとはいえ、何かあったのではと勘繰るのが当然だ。
エレシアの反応は可愛いもので、翌日メイベルと顔を合わせた時は、カレンをうっかり森に置き去りにしてしまったことをしおらしく謝罪されたが、その目つきは冷ややかだった。『何もなかった』ことを見抜いているのは明らかだった。
「――同行するレブラッド旗下の騎士や親衛隊の野営場所も確保しないといけませんし、やはり当初の予定通り湖を迂回すべきかと思います」
ロウラントに話しかけられ、カレンは目の前の会話に意識を戻す。
「うーん、確かに寝る場所の確保は大事だけど……。――ああ、そうだ。話変わるけど、今日の親衛隊の見学にノア伯爵も顔を出してくれるって」
その時、陶器がぶつかる耳障りな音が高く響き、ロウラントが眉をしかめた。
「申し訳ございませんっ!」
エレシアの手元で陶磁の器がひっくり返り、ティーテーブルからお茶がぽたぽたと滴っていた。
「すぐに片づけます!」
「やけどはしなかった?」
「は、はいっ」
貴族令嬢らしからぬ優雅さとはほど遠い動きで、エレシアは茶器を片付けると、あたふたと部屋を一旦出て行った。
(今のもしかして、ノア伯爵の名前を出したから動揺した……?)
エレシアがいなくなると、足を組んだロウラントは椅子の肘置きに腕を乗せ頬杖をついた。カレンと二人きりの時の方が、あからさまにくつろいでいる。臣下が皇太子の前でそれはどうなんだと思いつつ、カレンにだけ見せるロウラントの素の態度に、実は悪い気はしなかった。
「……まさか巡啓に同行させる侍女とは彼女ですか?」
「アーシェント伯爵家のエレシアね。フレイ先生にはちょっと頼みたいことがあるから、こっちに残ってもらうことにしたの。シレナさんにはクレオン君がいるし、親子を長く離ればなれにしたら可哀想でしょ」
「侍女の采配に口出しするつもりはありませんが、あれは以前ミリーと揉めた娘ですよね。もう少し落ち着きのある者の方がよいのでは?」
「確かに先生たちに比べれば若いけど、あれでよく頑張ってくれてるよ。私の下でしっかり仕えて、早くいい嫁ぎ先見つけたいみたい」
「動機が至極不純なんですが」
「ロウにはわかんないだろうけどさ、お嬢様たちにとっては婚活は人生を左右する一大事なの。私だって女主人である以上、侍女の縁談の面倒をみる責任があるしね」
「他人を気にしてる余裕があるんですかね」
あからさまな溜息をつかれたが、カレンは無視して身を乗り出す。
「ロウはノア伯爵のことどう思う? エレシアは伯爵のことを苦手って言いつつも気になってるみたいなんだよね。一時期は婚約の噂が立ったくらいだし」
「俺もそれほど知りませんよ。…まあ七家門の当主の中ではまともな方とは思いますが。スウェンとも交流があるようですし、あいつに聞いてみたらどうです?」
「それがさあ、仲のいい友達の評価って恋愛事情ではあんまり役に立たないんだよね。そうじゃなくても、スウェン兄上は基本的に人を見る目が甘々じゃない」
同性の言うところの『良い人』は、異性から見てもそうだとは限らない。それは文化や時代が変わろうと同じことだろう。
「確かにノア伯爵は仕事ぶりや人柄が真面目で、そういった意味での評価は高いでしょうが、若い令嬢を楽しませる機知に富んだ人ではないでしょうね」
「あ、やっぱりロウから見てもそうなんだ」
「殿下、言っておきますが《やり手ばばあ》の真似事は感心しませんよ。だいたい、ああいう手合いはどうして本人の意向を確認せず、勝手に裏で画策するんだか……」
ドアの外で人の気配がした。ロウラントが居住まいを正すと、現れたのは新しい茶器を持ってきたエレシア、そしてユイルヴェルトだった。今回の巡啓に同行する彼も、打ち合わせに参加するはずだったが、約束の時間からもう小一時間近く経っていた。
「遅れて悪かったね」
「これはユイルヴェルト殿下、ずいぶんごゆるりとしたご到着で」
ロウラントにちくりと嫌味を言われると、ユイルヴェルトは肩をすくめた。
「いやー、お茶会に招かれていたんだけど長引いてね。もう少しだけと、ご令嬢方に寄ってたかって引き止められたら、断るわけにはいかないだろう?」
ユイルヴェルトはたいして悪びれた様子もなく、ロウラントの座るソファーの隣にどさりと座る。喉が渇いていたらしく、エレシアが用意してくれた白い陶磁の器に淹れられた緑茶を一気に飲み干した。お茶会に招かれたと言っていたが、お茶をたしなむより令嬢方を褒めそやすのに忙しかったのだろう。
しかし、こうしてお茶を一気飲みする姿を見ても、ユイルヴェルトの動作は粗雑さとはほど遠く優美だ。令嬢方がよってたかるという話も誇張ではなさそうだ。
(黙ってさえいたら、ユール兄上は正統派の皇子様なんだけどなぁ……)
そんなユイルヴェルトを、静かな怒りを湛えたロウラントが睨む。
「……女遊びにかまけている場合ですか。この巡啓はユイルヴェルト殿下にとっても初の大仕事でしょう。もう少し腰を据えて取り掛かられた方がよろしいのでは? むろん皇族としての地位が重荷で、さっさと他家の婿としてご自分を高く買ってもらう算段でしたら、口出しはいたしませんがね」
エレシアがいる手前、あくまで臣下の立場で苦言を呈しているが、ロウラントなりに、兄たちの身勝手のせいで唯一の皇子となってしまった弟を心配しているのだろう。
「もちろん真面目にやるとも。……でもどうせカレンとロウラントの性格からして、大水で被災した村の見舞いについて、意見が割れて話し合いが長引くだろうと思ったからさ。僕の出番はすぐにないかなって……あれ、違うの?」
テーブルの傍らに立つエレシアに聞こえない程度の大きさで、渋い顔をしたロウラントが舌打ちした。小器用なユイルヴェルトはさぼっているように見えて、抑えるべき箇所はちゃっかり抑えている。『だったら最初から本気を出せ』というのが家族からの総意だ。
「あの……お茶のおかわりはいかがですか、ユイルヴェルト殿下」
「ああ、ありがとう。いただくよ、エレシア嬢」
白皙の美貌に微笑まれ、エレシアが恥じらうように視線をそらした。名家の娘とはいえ、宮廷に出入りしているだけでも百人以上いる令嬢の名を把握している辺り、さすがユイルヴェルトは抜け目がない。
その様子をロウラントがなぜかじっと見つめていた。
「殿下さっきの話ですが、やはりはっきりと当人にどうしたいのか聞いたらよろしいのでは?」
「え?」
「――アーシェント伯爵令嬢、率直に言ってノア伯爵の人柄をどう思われますか?」
突然ロウラントが、エレシアに向かって思いがけないことを口にした。
「えーっと……今日は巡啓の打ち合わせじゃなかったの?」
困惑の表情で苦笑いをするユイルヴェルトを無視し、ロウラントはエレシアに向き直る。普段カレン以外の人間は、あからさまに添え物扱いのレブラッド公爵から突然話しかけられ、エレシアは驚いたように立ち尽くしていた。しばらくしてから、たどたどしく言葉を発する。
「ご、ご立派な方と存じますが……」
そしてカレンに視線を向け、心なしか青ざめた顔で尋ねる。
「あの、それはつまり……カレンディア殿下の夫君候補としてのお話でしょうか? それでしたら、わたくしごときが申し上げることは――」
「そうではありません。殿下はその気があるのなら、あなたとノア伯爵の仲を取り持ち、縁談をまとめてもいいと考えています。皇太子からの勧めによる良家との縁談ともなれば、ノア伯爵家にとっても悪い話ではないはずです」
あまりの内容に茫然としているエレシアを見て、カレンは小さく溜息をつく。
(だから直球過ぎるっ……)
相手の感情を一切考慮しない、結論だけを求める情緒の欠片もない会話に、いくら仕事ができても、やはりこういう男はモテないなと改めて確信した。