9、未来も野望も3
気まずさに言葉を失うカレンに、ロウラントはつらつらと語る。
「当初《ひきこもり姫》と呼ばれていた皇女は俺の教えを聞き流し、怠惰を貪るばかり……。世の中にはあんなに話が通じない人間がいるのかと、まざまざと自分の無力と世間知らずを思い知らされました」
「へ、へえ……」
「かと思えばある日突然、自分は異世界の人間だとのたまって好き勝手に振舞い始める。……こんな狂人、手に負えませんよ」
苦労人とはいえ、皇子であるロウラントの周囲を取り巻いていたのは、良くも悪くも型にはまった上流階級の人間ばかりだったはずだ。彼の知識や理解の範疇にない人間の取り扱いに、頭を抱えるのも無理はない。
「面倒もかけたなあーとは思ってるんだよ……これでも」
「――そしてその人は、いつの間にか俺の想定を超えて、皇帝になるべき資質を開花させ周囲に示して見せた」
ふと気づけば、いつの間にかロウラントは吹っ切れたように澄んだ笑みを浮かべていた。
「人を惹きつける求心力も、あらゆるものを受け止める器の大きさも、皇帝の資質においては、俺は絶対にこの人に敵わないと思い知りました。……完膚なきまでに完敗すると、悔しさすら感じないのだとも。だから俺の人生に影響を与えることを恐れているのなら、そんなものは今更なんですよ。あなたはもうとっくに俺の自己をへし折り、人生を変えてしまったのだから」
「ロウ……」
「もし一年前あなたと出会わなければ、俺は兄弟姉妹を開放するために、自ら玉座に座っていたかもしれません。……それが破滅の道に繋がるとわかっていても。でもあなたは俺の卑小な思惑なんかそっちのけで、自ら皇太子を座を射止め、俺たちを運命から解き放ってくれた。呪いの象徴でしかなかった玉座があなたという存在でどう変わるのか、それを見届けるのが今の俺の野望です。もし俺に報いたいと思うなら、その願いを叶えてください」
普段の仏頂面が嘘のように、未来を語るロウラントの表情は晴れやかだった。数々の苦難を経ても、削ぎ落とされずに残っていた、彼の中の純粋さが垣間見えた気がした。
「……ロウは本当にそれでいいんだね?」
「はい。だから殿下はどんな結論を出そうと、俺に申し訳なさそうな顔をしないでください。いつも通り馬鹿みたいに根拠のない自信を持って、堂々としていてくれる方が俺も救われます」
「馬鹿……?」
遠慮のない物言いは従者だった頃から変わらないもので、少しほっとした。どんなことがあっても、どんな関係になろうときっとこの距離感は変わらない。それを伝えてくれているような気がした。
「わかった。……私は皇帝になるために正しいと思った選択をするね」
「そうしてください」
「その上でロウのことは手放さない。結婚することだってまだ諦めてないから」
「往生際が悪いと言いたいところですが、殿下がそう決めたのなら従います」
ふと今の会話の中で考えていたことがあった。どんな形であれ、自分とロウラントの間に子供が生まれれば、正統なレブラッドの血を引いていることになる。それが彼の実子を公爵家の跡継ぎに据える唯一の方法なのではないだろうか。もちろん簡単に約束できることではないし、何より『私が産んであげる』とまで口にするのはさすがに恥ずかしい。
考えを読まれていたわけではないだろうが、ロウラントはまじまじとカレンを見て言った。
「……それはそれとして約束通り殿下が十八歳になったら、個人としての行動には自重しませんので。そこは承知しておいてください」
「どういう意味!?」
「そういう意味です。――雨、上がりましたね」
いつの間にか、屋根を叩く雨音がやんでいた。木戸を開けて窓から外をのぞくロウラントの背中を見つめながら、心臓の音が高鳴るのを感じていた。普段の彼にすらこうして心乱されているというのに、本格的に『恋愛』という舞台に上がったら何を仕掛けてくるか想像がつかない。
「この分ならしばらく雨は降りそうにないですね。今のうちに皇太子宮に行って迎えを寄越すように伝えてきます」
「え、私は? ロウの服だってまだ乾いてないでしょう」
カレンは雨が降り始めてすぐにこの小屋にたどり着いたが、ロウラントの存在に気づいた時には外はどしゃ降りだったはずだ。
「まだ多少湿っていますが、この程度なら大丈夫でしょう」
「じゃあ私も一緒に戻るよ。……ここに一人で残るのはちょっと怖いし」
ロウラントは少し考え込む素振りをしたが、建物の中とはいえ夜の森にカレンを残していくのは、やはり気がかりだったらしく、思ったよりすんなりとうなずいた。
「わかりました。では早く支度を――」
言って、また自分が手を貸さなければカレンがドレスを着られないことに気づいたらしい。
「……できるだけご自分で努力してください。どうしても無理な所は手伝いますので。俺はあっちの端で着替えてきます」
カレンが返事を返す前にロウラントは部屋の隅に寄ると、背を向けて肩を覆っていた毛布をばさりと外した。むき出しの広い背が暗闇の中に浮き上がり、カレンは慌てて自分も壁の方を向く。
結果的に自分で身に付けられたのは、靴下や一部の下着くらいで、大半をロウラントの手を借りる羽目になった。
「……我ながら自分の忍耐強さに感心します」と、嫌味を言いつつもロウラントは、背中側のリボンや鋲をはめ、フレイたちに手伝ってもらう時と遜色なくドレスを着付けてくれた。
外に出ると湿った風が身を包み、身震いする。流れていく雲の切れ間から闇夜に滲む月が見える。淡く輝く星は真冬ほどの光彩はなく、夜の世界でも季節は確かに移り変わっていた。
「――殿下」
行きましょうと、ロウラントに急かされ、ぼんやりと空を見上げていたカレンはあわててその背を追う。
「あーあ。帰ったらみんなになんて言われるかな」
朝帰りだけは避けられそうだが、ロウラントとずっと二人きりだったと知れば、それなりに勘繰られるだろう。
「むしろ目的は達成されたと思い込んでくれた方が、今後は厄介事に巻き込まれなくて済みそうですが……期待はできないでしょうね。パンデール夫人は宮廷の男女を何十年にも渡って観察し、実績を上げてきた百戦錬磨の強者です。欺けると楽観視しない方がいいでしょう」
「そこまで強敵相手にどうしたらいいわけ……。ロウは一応私の軍学の先生なんだから、何か助言はないの? この前、姉上たちから聞いたよ。ロウは三人の中で一番成績がよかったんでしょ」
からかい混じりではあったが、一応褒めたのにロウラントは渋い顔をした。今の帝国は平和な時代とはいえ、用兵や戦術は帝王学として必須項目だ。カレンは選帝期間中にそこまで学ぶ余裕がなかったが、さすがに知識不足を父ディオスから苦言され、少し前から暇を見てロウラントを教師に勉強を始めている。
「交戦前や戦況が優勢な時点で相手方に好条件を提示し、離反させることができれば上々でしょうね。忠誠心の薄い傭兵団や徴兵への交渉はよくある手立てです」
「んー、でもそれは今回の件じゃ無理だね」
メイベルの忠義は第一にミリエル、そして次いで皇家にある。カレンをさっさと結婚させることは、主であるミリエルにも利点があるし、唯一の皇妃であるイゼルダが依頼人であるなら、こちらの味方に付けることは不可能だ。そして何よりメイベルは誰に命じられるまでもなく、良縁を繋ぐことを己の喜びと感じている類の人間だろう。何かと引き換えに手を引かせるのは無理だ
「明らかに戦力で上回る相手には、交戦を避けることが第一です。……とにかく接触をせず、隙を見せないのが一番としか言いようがありません」
「えー、それだけ? 当たり前すぎるって言うか、もうちょっと何か作戦とかないの?」
ロウラントはむっとしたように眉を寄せる。
「ご期待に添えなくてすみませんね。定石は最善だからこそ定石なんです。ちなみに、どうして俺がイヴたちよりも軍学の成績が良かったかわかりますか?」
「すっごい作戦を考えついたから?」
「その逆です。軍事計画を練る課題で、俺は凡事に徹底した構想しか出さなかった。つまりイヴほど自分の才覚を信用せず、スウェンほど味方の士気を当てにしなかったんです」
確かに日頃から、イヴリーズは計略を企てるのが趣味のようなものだし、グリスウェンは同僚の騎士たちに対し強い信頼と友情を抱いている。
「それはダメなことなの?」
「駄目とは言いません。たとえばスウェンのような人間は前線の指揮官としては優秀だと思います。ですが戦場を統括する用兵家は、軍団の損失を最小限にするために、前もって下準備を怠らないのが最大の役割りです。目に見えないものを戦略に組み込むべきではありません。奇策や勇気で寡兵が勝利するなど、おとぎ話の中だけと思っておいた方が賢明ですよ」
「そっか、用兵家にはロウみたいに疑り深くて、地味なことが好きな人が向いてるってことだね」
「……いろいろ言いたいことはありますが、概ねそうです」
「で、結局メイベルさん相手には、ひよっ子の私たちじゃ歯が立たないってことか」
役に立たないじゃん、という心の声が顔に出ていたのか、ロウラントは苛立ったようにカレンをにらむ。
「俺が学んだのは軍学で、《やり手ばばあ》のあしらい方など知りませんよ!」
「やっぱりお手上げかぁ……」
とはいえ、また濡れネズミで半死半生になったところに、全裸のロウラントと遭遇するようなシチュエーションは二度とごめん被りたい。いや、ロウラント相手ならまだマシだ。彼に見込みがないと判断されれば、別の都合のいい男性を送り込まれる可能性もある。さすがにそれは洒落にならない。
考え込みながら歩いていると、いつの間にか森を抜けていた。宮殿の窓からこぼれる灯りが無数に瞬いている。あれはこの世界で最も美しくきらびやかな、策略と陰謀がうずまく自分たちの戦場の松明だ。