8、未来も野望も2
「待って、待って……それどういう意味?」
ロウラントは以前にも結婚はしないと言っていたが、あの頃とは状況が違う。名家の当主となった以上、妻を迎えないという選択肢は考えられない。そして正式な夫人を持つことと、他の女性の愛人であることの双方を表ざたにしても、この国の貴族社会では矛盾しない。我ながら宮廷流の考え方に毒されているなとは思うが、ロウラントならその辺りの物分かりがいい女性を選ぶだろうと勝手に想定していた。
「便宜上でも肩書だけであっても、俺が夫人を迎えることはありません。もう決めています」
「それはさすがに重いよ……。もし私が他の人を選んだら申し訳がないし」
「人の決断を勝手に背負わないでください。俺は殿下にすべてを捧げると誓いましたが、発生する感情を操作する権利まではないはずです」
厳しい口調で言われ、カレンは二の句が継げなくなる。
「殿下から見れば、俺なんか人としての情が薄い上に、男女関係の倫理に欠けたクズ野郎なんでしょうけど」
「さすがにクズ野郎までは思ってないよ!」
言ってから、あまり否定になってなかったなと気づく。ロウラントはいささか不服そうにカレンを見やってから話を続ける。
「――それでも殿下が思うよりは、俺にも人間らしい感情があります。ずっと言っているように、愛人の立場に甘んじることに不満はないし、殿下が建前上の夫を迎えることにも不服はない。……でも形としての証明が欲しくないわけではないんです」
「証明って?」
「俺があなたのものだという証ですよ」
さらりととんでもないことを言われて、頬が熱くなる。
公爵本人を正式な皇配に迎えることは難しい。そしてどんなに深い感情が存在しようと『愛人』である以上、二人の関係は法的な拘束力や証明のない口約束でしかない。ロウラントからすれば、カレンの気持ち一つで『なかったこと』になる不遇な立場でしかないのだ。
「法的な拘束力がないのであれば、俺が他の誰とも関係を築かないのが唯一の証明でしょう。……本当、我ながら無意味でくだらない意地ですけど」
そう自嘲するロウラントを見て、カレンはいたたまれなさにうつむく。自分もロウラントも、いざとなれば大義のため『割り切れる』人間だと思っていた。事実そうなのだろうが、ロウラントがカレンに捧げる想いも覚悟も想像以上だった。
一人の男として家庭を築くという幸せを放棄する形で、カレンへ捧げた愛を示すと言っているのだ。そして皇太子という立場にある自分では、どうあってもその献身に報いることはできない。
「ロウ、私は――」
「殿下、俺の望みはあなたと共にあることです。そして以前、俺には兄弟姉妹を選帝制度から解放するという野望がありました」
「……ああうん、そんなこと言ってたね」
「これは言ったことありましたっけ? 俺は子供の頃、自信家で傲慢な子供だったって話」
「なんとなくはわかるけど……」
唐突な話運びと、「そこは今と一緒なのでは?」という困惑に首を傾げると、ロウラントは眉根を寄せた。
「……言いたいことはわかりますけど、今よりももっと鼻持ちならない子供だったっていう意味です。そんな俺でも、人生で三度ばかり人生に挫折した経験があります」
「意外とあるね……」
それだけ折られてようやくこの仕上がりなのかと思えば、確かに生来のプライドの高さは恐ろしいほどだ。
「一度目は自分が父上の実の子供でない、皇家の娘が生んだ庶子と知った時。そして二度目はドーレキアにいた頃のことです」
言ってから、ロウラントはおもむろに腰に巻いた毛布を下にずらす。ぎょっとして仰け反ったカレンを冷ややかに見ると、ロウラントはつまらなそうに言った。
「心配しなくても、これ以上は脱ぎませんよ。殿下からの要望があるなら検討しなくもないですが。――ほら、これが前に言った傷です」
ロウラントの言葉の一部を無視しして、示された先をのぞき込む。
「そっか……お腹に怪我したんだっけ」
何気なく目をやってから、カレンは息を飲んだ。刀傷などこれまでの人生では無縁のものだったが、この世界ではそう珍しいものではないことはもう知っている。騎士であるグリスウェンや、彼の同僚たちには多かれ少なかれ体に消えぬ傷がある。もはや見慣れた物――そう思っていたが、ロウラントの腹についた傷は想定を超えていた。
鳩尾の辺りに大きく広がる赤黒い傷は、刀傷というより広範囲の火傷痕のように見えた。よく見れば、それはあらゆる方向から何度も付けられた痕が折り重なったことで、一帯の皮膚が赤黒くひきつれているのだと気づいた。
「……死にかけたことで、初めて自分の傷を癒す『祝福』が発動しました。初めてで時間がかかったことと、本能的に生命の維持に関する箇所を優先させたせいで、表面の傷はこの通りです」
「なんでこんなことに……」
公式の記録では、ランディス皇子がドーレキアに逗留していたのは、十一歳からの六年間。今のカレンよりも年下の少年、それも一国の皇子が経験するにはあまりにも凄惨すぎる怪我だ。
「当初はドーレキア王宮にいましたが、二年目に地方領主の仕事を学ぶために、辺境貴族の屋敷で世話になっていました。厳しい自然環境に加え、北原の蛮族が国境を越えて侵攻してくる過酷な土地です。ある日、その屋敷が夜盗に襲われました。俺のことをその家の子息と勘違いしたらしく、痛めつければ財産の場所を吐くとでも思ったのでしょう」
淡々と語られる内容に、カレンは震える手で口元を押さえる。それはまだ子供だったロウラントを、ならず者たちが拷問に掛けたということではないか。
「当時の俺は十三歳。子供としては剣の腕が立つ方だったと思います。でも大勢の大人に寄ってたかられては、なんの役にも立たなかった。あっさり捕まって痛めつけられて……その後は放っておいても野垂れ死ぬと思われたのか、そのまま打ち捨てられ、運よく命拾いしました。でも傷が癒えても、俺はしばらくの間腑抜けたままでした。……純然たる暴力の前には、俺が今まで学んできた武術も学問も、まったく意味を成さないのだと思い知らされましたから」
ロウラントに向けて、カレンは恐る恐る手を伸ばす。指先が傷の上に触れると、ロウラントは少し身じろいだが、結局はカレンの好きにさせてくれた。指に伝わる傷の凹凸は周囲の皮膚よりは固いが、生命の証である呼吸と体温をしっかりと伝えてくる。
「……今も痛い?」
「気温や天気によっては疼きますが、苦痛を感じるほどではないですよ」
「その夜盗は……どうなったの?」
カレンは込み上げる怒りに声を詰まらせながら問う。ロウラントの言葉は多くはなかったが、その時の状況はなんとなく察せられる。普通の子供なら暴力に委縮した状態では、まともな受け答えなどできまい。それがわかっていて、ならず者たちは年端も行かない少年をいたぶったのだ。おそらく面白半分に。
「その場は逃げおおせましたが、当時一帯の国境警備を任されていた第二王子……つまりあのバルゼルト王子が指揮する旗下によって、後日に討ち取られたと聞いています」
「そう……」
報いは受けたとわかっても、カレンの心は晴れなかった。
「当時は本気で自刃を考えるほど悔しい思いをしましたが、今考えれば増長していた小僧にはいい薬になりました。――だから殿下がそんな顔する必要はありません」
ロウラントはそう言いつつ、カレンの顔に優しく手を添えた。その温かさに胸を詰まらせると、なぜかおもむろに頬をつままれた。
「な、なに!?」
穏やかな表情から一転して、どこか怒りを湛えたような冷笑を浮かべるロウラントにカレンは困惑する。
「で、その後の話ですが、殿下もご存じのように俺は諸国を旅したり、本格的な選帝期間を迎えるに当たって、いろいろ画策していたわけです。が……結局その虚しい小細工もたいして役に立たなかった。――それが三度目の挫折です」
「何があったの?」
「俺が皇帝陛下の命令で仕えた皇女は、それはそれは想定外のことばかりする方だったんです」
「あ――」