7、未来も野望も1
焚き火の明かりと音は人を落ち着かせると、どこかで聞いたことがある。その効果があったのかはわからないが、世話焼き侍女の計略にかけられたと気づいた今となっては、すっかり危うい空気は吹き飛び、二人はいつもの落ち着きを取り戻していた。
ロウラントと並び座り、火がはぜる音にまどろんでいると、石壁に映る二人分の大きな影が揺れていることに気づいた。今更ながら、この空間に二人きりなのだと思い知らされる。考えてみれば皇太子になってから、ロウラントとこんなに長い時間を二人きりで過ごすのは初めてかもしれない。
その横顔を盗み見れば、まだ何か考え込んでいるのか、かすかに眉間に皺が寄っている。元々端正で怜悧な雰囲気を放つ顔立ちが、炎の明かりで浮かび上がる陰影のせいで、どこか人間離れして見えた。ロウラントは従者の頃から周囲に愛想がある人間ではないが、公爵になってからも近寄りがたいという声をよく聞く。
皇帝にしろ公爵にしろ、人の上に立つ立場というのは、ある種の人気商売だ。ロウラントもそこは重々承知しているはずだが、改めるつもりはないようだ。実力による信用や、時に恐怖をでもって人心を掌握できる自信があるのだろう。
『あの気難しい公爵を手懐けるとは、さすが皇太子殿下』と周囲は褒めたたえるが、実を言えばカレンだってロウラントが何を考えているのか、よくわからない時がある。わからなくてもロウラントの方がカレンを理解してくれるだろうし、まあいっかというのが本音だ。傍から見ればひどく一方的で傲慢な関係だが、同時に自分たちはこれでいいのだという自信もあった。
とはいえ、せっかく二人きりで本音を語り合う機会をふいにするのももったいない、カレンは少し考えてから話を切り出した。
「そういえば、父上がなんかの時に言ってたんだよね。外野があれこれ言うから、余計に女性と親密になる気が失せるんだって」
「そんなことを娘に話したんですか……」
ロウラントが呆気に取られたように言うが、「いや……」と少し考え込んでからつぶやく。
「……陛下はわりとそういう方ですね。母が言うには、本来のあの方は女好き――道楽的なところがありますが、その陛下があえて苦言を呈するということは、よっぽど腹に据えかねているのでしょう。以前殿下に、『皇帝は最初から心が壊れていなければ務まらない』と言いましたが、その最たる方こそ陛下だと思います」
「あはは、確かにねえー」
父であるディオス皇帝は、幾度となく周囲の人間に裏切られ、志を踏みにじられてきたはずだが、それによる人格への影響というものが、良くも悪くもない。
そして謀略の象徴ともいえる六人の妻を迎え入れ、血の繋がらぬ子供を含めた兄弟姉妹全員を平等に愛してきた。驚異的な胆力と深い度量の持ち主であり、大変失礼ながら常人には理解し難い『狂人』とも捉えられる。
「さすが殿下の実の父君です」
「それ、私も思った!」
けたけたと笑うカレンを、ロウラントは複雑そうに見やる。
「でね、その時父上にこう言われたんだ。――『もしお前が本当に愛した人間を夫にしたいと思うなら、別に側仕えの男も用意しておけ』って。なんなら前例はないけど、側室的な立場を作ることも検討してもいいって」
「あの方は本当に、実の娘に何てことを言うんだ……」
「私からすると、ロウも似たようなものだけどね」
ディオスが自分の実の父であることは間違いはないが、仮にも愛する相手に恋人や夫をすっ飛ばして、自ら愛人になることを提案するロウラントも、さすがあの父の影響を受けて育ったことがあるなと思う。
「でね、その理由なんだけど。もし夫婦の間に子供が出来なかったら、周囲から槍玉に挙げられるのは立場の弱い方なんだって。つまり私は皇太子だから、実際は私の体に原因があったとしても、責められるのはきっと夫になる人の方だろうってこと」
「それはあり得ますね」
帝国の権威、そして偶像たる次期皇帝の体に欠陥があるなど、たとえ本人が認めようとも周囲がそれを許さない。夫にすべての責任が擦りつけられるのは明白だ。
「私がアレコレ言われるのはまあいいよ、腹は立つけど。でも大切な人が、それも自分のせいで悪く言われるのはちょっとキツいよねー」
「だから責任を分散させるために、ということですか」
側室を含めて誰との間にも子はできないなら、皇配全員に問題があるか、もしくはおおっぴらに口には出せずとも、皇太子自身に原因があるのだろうと皆が察するということだ。
「父上の言うことはわかるし、きっとそれが宮廷では賢いやり方だと思うよ。……だからロウの『提案』もきっと合理的なんだろうね」
ロウラントの愛人の件を持ち掛けられたとき、その驚きと内容のえげつなさから、とっさに十八歳になるまで待てと言ってしまったが、後々冷静に考えてみればそれなりに利点はあることは理解できた。
幸か不幸か、宮廷という『普通』とは一線を画す場所では、恋愛は結婚という枠の中に納まるとは限らない。そして皇帝となるカレンの優先は、とにもかくにも子供を得ることで、男女の貞操観念は二の次だ。
この前提条件がある以上、ロウラントと人生を共にしたいのならば、彼を正式な夫にすることが最善とは限らない。何よりどんな形を選ぶにしろ、カレンの中にはロウラントと離れるという選択肢はなかった。
「ただそれで本当にいいのかなって、迷うところもあるわけ」
皇太子となった以上、『愛のない結婚はしない』などと甘っちょろいことを言うつもりはないが、さすがに愛人だの側室だのと言われると、正直感情が追い付かない。
「……ベルディ―タ皇妃の件もあったしね」
父の第六皇妃ベルディ―タは誰よりも忠実に、そして誰よりも深く皇帝ディオスを一人の男性として愛した。その結果が彼女の心を病ませ狂わせた。ディオスははっきりとは言わないが、兄弟姉妹の母である皇妃たちの不自然な死に、彼女や先代レブラッド公爵が関わっている可能性は薄々察している。
カレンの夫となる男性が誰であっても、多かれ少なかれ個人としての犠牲を強いることになるだろう。もちろんその覚悟がある人間しか夫に迎えるつもりはないが、真っ直ぐな志をたやすく歪ませるのが宮廷という舞台だ。
「だから、もうちょっと考えさせてね。……言っとくけど、私だってむやみに時間稼ぎしてるわけじゃないんだからね」
「俺だって矢面に立つことを恐れているわけでも、正式な立場で責任を取りたくないと駄々をこねてるわけではありませんよ」
カレンに諭されるように言われてしまったことが悔しかったのか、ロウラントは少しむすっとした表情で言う。
「誰かが泥を被らなくてはならず、他に適任者がいないのであれば、もちろん俺が引き受けます。……言っておきますが、その結果中傷を受けることになろうと、殿下が気に病む必要はありませんよ。くだらない陰口ごときで壊されるほど俺は繊細ではありません」
「だろうね」
自ら世間とは感性がずれているというだけあって、宮廷人からの誹謗などロウラントは鼻で笑って受け流し、それ以上の実績を叩きつけて黙らせるだろう。その点には信頼を置いているが、現実問題としてロウラントと結婚するには障害が多い。
「たださあ、私たちの間に子供が生まれたら、絶対に継承問題に関してとかく言われよ。子供までやっかい事に巻き込むのは可哀想じゃない」
ロウラントがぎょっとしたように目を見開いてカレンを見た。
「なに?」
「いえ……そこは割り切って話せるんだなと」
言われてみれば、結婚についてや二人の間にできる子供のことを話しているのに、情緒の欠片もない。とはいえ、ロウラント以外の異性とだったら、確かにこんなに腹を割って話はできないなと思う。その気安い距離感と、隣に座る居心地の良さに、この先彼以上にすべてを委ねられる人間は現れないだろうと確信していた。そして、二人の関係にどんな名前が付こうと、実情は何も変わらないという安心感があった。
「なんかゴメンねえー」
「いちいち恥じ入られても話が進まないんで、別にいいですけどね」
へらりと笑うカレンに、ロウラント小さく溜息をついたが、すぐに表情を切り替えた。
「……さっきの話はあり得ると思います。ダリウスがやらかした件もありますし、『反逆者の孫を帝位に着かせるのか』と確実に槍玉に上げられるでしょう」
そう言いつつも、ロウラントの表情は平静だった。
「殿下の立場を固めるため、実子の世継ぎがいるに越したことはありません。ただ今の皇家にはすでに後備えがいるし、これからも増えるでしょう。殿下がどんな決断をしようと、皇統の存続に関しては憂慮するほどのことではないと思います」
「それって、姉上と兄上の子供を後継に選ぶってこと?」
「それも一つの選択肢かと。あいつらなら皇家に仇をなす心配はないし、その辺りのことは子供にきちんと教育するでしょう。……あれだけの騒ぎを起こしてまで結婚したんです。せいぜい皇家の存続と増員に貢献すればいいんだ」
「ふーん、そんなこと考えてたんだ」
カレンは抱えた膝に顔を伏せてこっそり笑う。ロウラントの口調も内容もそっけなかったが、彼が誰よりもイヴリーズとグリスウェンに信頼を置いていることは、カレンにもよくわかっていた。
「ついでに言えば、父上がレブラッドの血を引くのだから、兄弟姉妹の子供を誰か一人レブラッドの跡継ぎにもらえば、こちらの問題は解決します」
「そこまで考えてたの?」
確かにロウラントは実のところ先代公爵の、レブラッド家の血を引いてはいない。直接家督を託されたロウラントはともかく、自分の子供にまで公爵家を継がせるつもりはないということだろうか。
そして家系図の端にかろうじて名前があるような遠縁に、跡を継いでもらうよりは、自分たち兄弟姉妹から生まれる子供の方が血縁としてはレブラッド本家に近い。ロウラントがそんなことを考えていたとは驚いたが、理屈としては理解できなくはない。……ただ一つ、大きな問題を除けば。
「でもロウに子供がいたら? 表向きには公爵本人の子供なんだから、そっちを差し置いてってのは無理がない? 皇家がレブラッドを乗っ取る形になっちゃうのはマズいでしょ」
もしカレンとの結婚が叶わなかった時、当然ロウラントは他の女性を公爵夫人に迎え入れることになるだろう。感情だけで結婚相手を決められない立場であるのはお互い様だ。そこに異議を唱えるつもりはない。
「それは絶対にあり得ません」
ロウラントはなぜか確信するような口調で言った。
「必要があれば、あなたの夫君になる覚悟はあります。でもそうならなかったときは、俺は誰とも結婚はしませんから」
「……え」
あっさりと言われた言葉にカレンの思考が止まった。