4、春の嵐3
鉛色の雲の中では低い轟音が響いている。体に打ち付けられるような豪雨の中、ロウラントは薄暗い森を早足で歩き続けていた。肌を突き刺すような寒気に身震いすると、服に付いた水滴の中に氷の粒が混じっていることに気づく。かっと、真昼のような閃光に木々が照らし出された瞬間、耳をつんざく雷音が響いた。
(油断していた……)
この時期の天気が移ろいやすいことはわかっていたが、エミナに引き止められているうちに、天気が崩れていたことに気づかなかった。それでも早足で帰れば問題ないだろうと高をくくっていたが、思っていた以上に雨雲の足が速かった。
(……宮殿の中で遭難など洒落にもならない)
この寒さと雨に長く体をさらせば命に関わる。とはいえ、ロウラントはそれほど焦っていなかった。深い森の中とはいえ、ここは子供の頃に散々遊びつくした勝手知ったる場所だ。確かもう少し先に進めば、狩猟の時に使われる小さな石組みの小屋があったはず。こういう時のために、毛布や体を温める酒くらい置いてあるだろう。
ロウラントはためらうことなく道を急ぐと、目当ての小屋はそう間を置かずに現れた。幸い鍵はかかっておらず、すっかり雨で重くなったマントを脱いで適当に絞ると、木戸を押して小屋の中に入る。
ほとんど光の届かない小屋の中は、もっと埃っぽいかと思っていたが、廃墟特有の淀んだ空気の匂いはしない。頻繁に人の手が入っている様子があり、目当ての毛布も棚の中にきれいに積まれていた。もしかするとエミナの内縁の夫である森番が、頻繁に手入れに来ているのかもしれない。
棚の傍らにはぼんやりとしか見えないが、大きな布袋のような物も置いてある。何か食料になる物でも入っているかもしれないが、その確認は後回しだ。
ひとまず軽く体を拭い、小屋に備えられた暖炉の様子を見ると、すぐそばに薪が積まれていた。火種も用意されていてほっと息をつく。これで凍死することだけは避けられそうだ。
暖炉の火入れは使用人の仕事だが、従者時代の経験のおかげで慣れている。手際よく薪と小枝や枯葉を積み上げて、その上でカラントラ鉱石と火打金を叩く。火花が散り小さな火が枯葉に映ると、枝の位置を調節して火を大きくしていく。しばらくしてから無事に着火したことを見届け、立ち上がった。
一瞬ためらったがどうせ誰に見られるわけではないので、ロウラントはさっさと身に着けていた物を脱いでいく。濡れた服のままでは、いくら火を焚いても体は温まらない。
(殿下は雨に降られる前に、皇太子宮に帰れただろうか……?)
カレンもここからそう遠くない場所で、お茶会を楽しんでいたはずだ。今日は皇太子宮で一緒に夕食を取る約束をしていたが、この分では難しそうだ。いつまで経っても現れないロウラントを心配して、エミナの家に遣いを出すかもしれない。いい年をしていまだに頭の上がらぬ乳母に、また嘆かれることを想像すると気分が重くなる。
服を脱ぎ去ったロウラントは、改めて濡れた体や髪を毛布で拭いながら辺りを見回す。うまくいけば、雨が上がる頃には服も乾くかもしれない。
(椅子か何か……服を掛けられそうな物は――)
振り返った瞬間、ロウラントは緊張感を体にみなぎらせる。棚の傍らで、のそりと影が動いた。
※※※※※※※※※※
雨にけぶる森の中で小屋を見つけた瞬間、本気で涙ぐみそうになった。
ほんの一時間前まで、優雅に花園で少女たちとおしゃべりを楽しんでいたはずなのに、どんどん強くなっていく雨と響く雷鳴に、身も心もボロボロだった。
空の端に見えた暗い雲に、お茶会を切り上げて慌てて撤収したが、急ぎ足で森の中を進む途中、ふと気づけば皆とはぐれて一人ぼっちになっていた。森の中には手入れされた小道が通っているが、太陽も陰り、向かっている方向は本当に帰り道なのか自信がなかった。不安の中、森を進み続けたがついに雨に降られ、冷たく重たくなっていくドレスを引きずるように歩き続けた結果、古びた石組みの小屋にたどり着いた。
すんなりと小屋の中に入れたことにほっとしたが、すぐに別の問題に直面する。部屋の中に暖炉はあったが、火の起こし方がわからない。幸い毛布は大量にあったので体を拭うことはできたが、濡れた服を乾かすにはほど遠い。ドレスを脱ぐことは当然考えたが、背中で固く編み上げられているので解くことは難しかった。そもそも固く着付けたコルセットのせいで、うまく腕が後ろに回らないのだ。
濡れた服が体力を奪うことくらいは知っていたが、どうすることもできなかった。何とかウエストにリボンで結ばれたオーバースカートを外すことはできたが、ドレス自体を脱ぐことは諦めた。毛布をできるかぎり体に巻き付けて、部屋の隅にうずくまる。
ガタガタと歯を鳴らしながら縮こまり、寒さと孤独に耐えていたが、やはり体力は限界だった。寝ては駄目だとわかっていても、いつの間にか意識が落ちていた。
――どのくらいの時間が経ったのか。パチパチと火の爆ぜる音と、唯一肌が露出していた顔にかすかな熱を感じた。おぼろげな意識の中で視線を上げると、煌々と明るくなった部屋の中で大きな影が揺れていた。何者かが暖炉に火を入れたのだ。
(誰か助けに来てくれたのかな……)
すっかり冷え切った体をどうにか動かそうとすると、はっとしたように暖炉の前の影が身じろいだ。
オレンジ色の明かりに照らされたその顔は、殺意じみた鋭い警戒心に満ちていたが、すぐに敵意は解かれる。代わりにぎょっとように瞳が見開かれた。あまりに見知りに見知ったその姿に、一瞬ここがどこかわからなくなる。
「ロウ……?」
自分の元従者にして現相談役、レブラッド公爵ロウラントが半身で振り返ったまま立ち尽くしていた。
「で、殿下……どうして……」
よく知る人間の、あまり聞いたことのない上擦った声に、ぼんやりとした意識の中で首を傾げる。ロウラントはいつも見ている方が息苦しくなりそうなくらい、襟元まできっちりと上着のボタンが留めているが、今日は様子が違っていた。そもそも服すら身に付けていない。
さっきまで死にかけていたことも忘れ、ふむと感心しながらカレンはロウラントの姿を眺め続ける。――意識はいまだ夢うつつにあり、その異常な状況で本来まっ先に考えるべきことが、この時のカレンの頭にはなかった。
灯りの元で露わになった肌は『大人になっても生白いままなんだな』とグリスウェンにからかわれているように、外でしょっちゅう鍛錬をしているわりにはあまり日に焼けていない。しかしひ弱さとは程遠く、剣を扱う人間らしい広い肩幅に、筋張った腕もけして細くない。体にも厚みがあり、猛禽類の翼を思わせる力強く隆起した背筋も見事だ。
(着やせするタイプかなぁと思ってたけど、さすが騎士様。やっぱいい体格してるなあ……)
兄の職場である騎士団で、騎士たちが半裸で鍛錬している所は見たことあるが、ロウラントは剣の鍛錬中も服を脱がないどころか、絶対に服を着崩さないので、その体付きをはっきり目にしたのは初めてだ。
『暑くないの?』と聞けば、『そんなわけないでしょう』と当たり前のように返されたので、別に暑さを感じにくいとか、汗をかかない体質とかではないらしい。いかなる時も服装を乱さないという、単なる本人の意地のようだ。
芸能関係者は体を鍛えると自信がつくのか、男女関係なくやたら人前で肌をさらしたがる傾向にあったが、ロウラントはそういう心境にはならないらしい。
(これだけ鍛えてれば、どこに出しても恥ずかしくないのにもったいない……)
無駄のない脇腹に、固く引き締まった臀部から続く大腿筋の流れにも無駄がなく――……。漫然と考えていたカレンは、ようやくとんでもないことに気づいた。
(あ……れ……?)
背中の強張りを感じながら、あえて視界の一部を意識から追い出す。ぎこちなく視線を上げれば、そこには暖炉のせいだけではなさそうな、朱に染まった顔があった。
「……なんで、まじまじと見てるんですか」
引きつった口元からうめくように問われ、我に返ったカレンは声にならない悲鳴を上げた。