3、春の嵐2
「あの薄情者! 結婚はまだ先とか言ってたクセに!!」
甲高い声にカレンが振り向くと、興奮した様子でボロボロと涙を流すエレシアを他の娘たちがなだめていた。
「遅くても困るけど、早く結婚すればいいというものではないでしょう」
「リアナ様の嫁ぎ先って大奥様が亡くなってるのよね。さっそく女主人としての役割を求められるから大変そう……」
「しかもお相手は三十近いのよ。きっと早く男児を産むよう圧力を掛けられるわ」
わいわいと騒ぎ立てる侍女たちに、ミリエルが小さく溜息をつく。
「まったく……皇女の侍女ともあろう者たちがくだらない噂話ばかり」
十五歳になったばかりとは思えない大人びた妹に、カレンはこっそり耳打ちする。
「ほら、エレシアとよく一緒につるんでた従姉妹のリアナって子いたでしょ? 姉妹みたいに育ったのに、先に結婚されちゃったからエレシアも焦ってるみたい」
「結婚などあくまで夫婦の始まりで、肝心なのはその後の長い人生でしょう。少々の早い遅いに一喜一憂するなど馬鹿ばかしいことです」
「あら? エレシア様だって、良いお相手がいらっしゃるんじゃないの?」
侍女の一人がからかうような笑みでエレシアに問う。
「いったい何の話ですの?」
「またまた、ノア伯爵と縁談の話が持ち上がってるって噂を聞きましたわ」
つい最近親しくなったばかりの人物の名に、カレンは思わず振り向く。その瞬間「およしなさい」と別の侍女が、ノア伯爵の名を出した娘を小声たしなめたので、さりげなく視線を逸らした。
(気を遣わなくってもいいんだけどなあ……)
先日の舞踏会でノア伯爵と長く会話をしていたせいか、最近なにかと宮廷貴族たちに彼の話題を振られる。つまりノア伯爵がカレンの夫候補の一人と見なされているのだ。
側近である某公爵との関係を深めるわけでもなく、かといって特別に親しい男性のいない皇太子の動向は、常に注目の的だ。どうにか意中の相手を探り出すために、宮廷中がカレンの一挙一動を注目している。注目されることは嫌いではないが、やれ笑いかけた、名前で呼んだなどと、ささいな行動すらいちいち恋愛沙汰にからめられると、『小学生じゃないんだから……』と、嫌気もさしてくる。
「冗談じゃない! 絶対にイヤよ、あんな人!!」
「あなた方、いくら無礼講と言っても殿下方の御前ですよ」
メイベルにぴしゃりとたしなめられ、大声を出したエレシアや周囲の娘たちが身をすぼめる。
エレシアの剣幕にカレンは少し驚いていた。ノア伯爵のことをそこまで知っているわけではないが、女性に好感を持たれることはなくとも、ここまで毛嫌いされるような要素もないはずだ。
選帝期間中、エレシアは自分の家が後押しをするグリスウェンに執心していた。グリスウェンはノア伯爵と真逆で誰にでも愛想がいいが、人柄に惚れ込んでいたというより、あわよくば彼が皇太子になったときには……という打算だろう。
エレシアはわかりやすく権威や名声が好きな娘だが、それは宮廷という場所においては悪いこととも言えない。一族を切り盛りする女主人としては、世論の評判に目ざといくらいでちょうどいいという考え方もある。
先代伯爵が健在だった頃の権勢を失ったとはいえ、古い名門であるアーシェント伯爵家の娘とノア伯爵なら釣り合いは取れる。エレシアのプライドを満足させるだけのものを、ノア伯爵なら備えているだろう。少々の難があったとしても、目をつぶる価値はあるはずだ。
しばらくするとミリエルの侍女たちは、激高したエレシアもメイベルの説教もすっかり忘れたようで、話題をころころと変えおしゃべりを楽しんでいた。それなのに、エレシアだけは子供のように唇を尖らせ不機嫌なままだ。
「あら? このチョコレートケーキ、カレン様は控えられた方がいいかもしれませんね」
フレイがふとそんなことを言った。一際美味しそうなので、カレンが後の楽しみに取っておいたケーキと同じ物をつついていた。
「まあ、本当……ブランデーが効きすぎなのね。これではお酒に弱い方は酔ってしまうかもしれませんわ」
シレナにも言われ、カレンはお皿に乗ったチョコレートケーキの匂いをくんくんと嗅ぐ。確かにお菓子にしてはアルコールの香りが強すぎる。すでにチョコレートケーキを口に運んでいたミリエルは、落ち着いた様子でもぐもぐと味わっていた。
「ええ、確かにこれは味覚がお子様なお姉様には向かない味ですわ。仕方ないから、お姉様の分はわたくしが食べて差し上げます」
酒豪揃いの兄弟姉妹に違わず、ミリエルは子供のくせに宴の最中もよくワインを口にしているが顔色一つ変らない。しっとりと濃厚そうなチョコレートケーキを名残惜しく見つめるカレンの眼前から、ミリエルは無情にも皿を取り上げる。そして、侍女たちを見やってつぶやいた。
「どおりで……あの子たちがいつにも増して騒がしいわけだわ」
いつの間にか、さめざめと泣き始めたエレシアの顔は、茹ダコのように真っ赤になっていた。
※※※※※※※※※※
カレンたちが気兼ねのないお茶会を楽しんでいた同時刻、実はそう遠くない場所にロウラントはいた。
「お忙しいランディス殿下にわざわざお越しいただくなんて……申し訳ありませんわ」
「気にするな。お前の様子を見てくるよう、イヴたちからも頼まれてる」
ここは以前、兄弟姉妹たちがお茶会をした湖からそう遠くない森番の小屋だ。乳母として三人の皇子たちを育て上げたエミナは、本来なら恩賞として屋敷の一つももらえる立場であるが、今は内縁の夫とともに宮殿の片隅で静かに暮らしていた。
「流行風邪にかかっていたと聞いたが大丈夫か? ミリーも同じ風邪で寝込んでいたようだから、老齢のお前は心配だとイヴが言っていた」
エミナは妹のメイベルによく似た、ふっくらとした頬に笑いじわを刻む。
「この通りすっかりですよ。皇子殿下こそ気を付けなくてはいけませんよ。よく喉を傷めていらっしゃったでしょう?」
「子供の頃の話だろう。……それと他に人がいないとはいえ、俺のことを皇子とはもう呼ぶな」
「赤子の頃からお世話してきたお三方は、私にとってはいつまでも小さなイタズラっ子のままですよ」
「だから子供扱いをするな」
エミナは乳母という役割を超えて、自分たち三人に我が子のように愛情を注ぎ育ててくれた。もっとも高貴な子供でありながら、とんでもない悪童だった自分たちは宮廷で腫れ物扱いされていた。三人を叱れるのは、互いの親を除けばエミナくらいだろう。完全無欠の皇子と言われていた自分を引っ叩いたことがある女性も、母と姉をのぞけば彼女くらいだ。
「……まあエミナには、いろいろ面倒も心配もかけたとは思っている」
「まったくですよ。殿下が火事で不具の身になったと聞いた時も、継承権を放棄した時も、ついに亡くなったと聞いた時も、何度卒倒しかけたかわかりません」
心労を吐き出すように息をつかれれば、ロウラントに返す言葉はなかった。
本当はロウラントが皇子ランディスであることを知る人間は、極力少ない方がよかった。だが、あまりに心を痛めているエミナを気の毒に思ったイヴリーズとグリスウェンから、真実を告げるよう説得されたのだ。事情もよくわからぬくせに、調子づいたカレンから『そうだ、そうだ!』とうるさく言われたせいもある。
エミナは宮殿の片隅に暮らしているとはいえ、世間にはほとんど関与していないこともあり、ロウラントは本当のことを伝えることにした。案の定、泣かれたし容赦なく叱られたが、こうして穏やかな心持ちで気さくな会話をしていると、やはり真実を伝えてよかったと思えた。
その後も子供時代の思い出や、イヴリーズたちの元に生まれる赤子の話題に興じるうちに、いつの間にか窓から差し込む日差しが、傾き始めていたことに気づいた。
「殿下、お茶のおかわりはいかがですか?」
「いや、そろそろ暇させてもらおう。カレンディア殿下も離宮に戻って来る頃だ」
「まあ、そうおっしゃらずに。――そうだわ、ハチミツのケーキはいかがです? うちの主人は森の管理の傍らで養蜂もしているんですの」
「いや、俺は――」
「甘い物が苦手なのは知ってるだろう」と言って断ろうとしたが、にこにこと微笑ましそうに自分を眺めるエミナに何も言えなくなってしまった。イヴリーズからも『あなたがエミナに一番迷惑をかけたんだから、しっかり孝行してきなさい!』と言い含められている。
「……わかった。いただくよ」
ある意味どうあっても敵わない乳母を前に、ロウラントは諦めて椅子に座り直した。