4(終)、春が来る
2023/05/03 誤字修正
ロウラントが犬を殺したことを告げても、カレンは表面上は動揺していないように見えた。
「……それは自分で? ロウだってまだ子供だったんだよね」
「誰かに任せたくはありませんでした。……うまく言えませんが、他人の手に委ねることは、最後まで俺に忠実であったトエルへの――犬への信頼を裏切るような気がしたんです」
そう、とカレンは静かな表情でうなずく。
「それなら、その子は最後の瞬間まで幸せだったんだろうね」
「殿下はそう思われますか?」
「ロウにとっては悲しいお別れだったと思うけど、その犬にとって、大好きな人のこともわからなくなって一人ぼっちで亡くなるより、最後まで大好きな人を大好きなままでいられたことは、幸せなことじゃないかな?」
そう告げるカレンの顔には、嫌悪も恐怖は微塵もなかった。想像通りの答えであったが、ロウラントは密かにほっとする。こういう度量の持ち主だからこそ、仕えるべき主として、そして一人の女性として惹かれた。
「……殿下がトエルと同じ立場になったとしたら、同じことを望みますか?」
自分であれば、愛した存在すらもわからなくなるくらいなら、せめてその手で命を絶って欲しいと願うだろう。
「いや、私は犬じゃないし」
真顔で言われてしまった。確かに仮にも仕える皇女に対して不謹慎だった。
「……すみません。失言でした」
「でも、そうだなあ……。私なら大好きな人に悲しい決断をさせるくらいなら、いっそ『死んで当然』って思われるくらい憎まれてから、見えない所でこっそり死にたいかなあ。……もちろん犬猫じゃないんだから、そんな単純にいかないだろうけど」
「殿下の望みは多くの人に愛されることでしょう?」
「それでもって愛したいの。私がいなくなっても、自分が大好きな人には、残りの人生を楽しんでほしいじゃない。私の愛はこう見えて深くて複雑なんだよ。私がいなくなった後にでも、その人を幸せにできるものでありたいわけ」
カレンの言葉にロウラントは虚無感を覚え、脱力する。
「その話を聞いて、今はっきりとわかりました。俺のしたことは多分トエルのためじゃなかった……」
なんのことはない、トエルが自我を失い自分への親愛を忘れてしまう姿に耐えられなかっただけだ。こんな利己的な理由なら、乳母に引っ叩かれるのも無理はない。
誰よりも愛する存在のためなら、自身は永遠に憎まれてもいいなどという極致に達することはできない。自分はカレンのようにも、実母リーゼラーナのようにもなれない。経験値の問題ではなく、そもそも人間として性質が違うのだ。
「……だとしても、ロウが自分の痛みと引き換えに、トエルの『ずっとご主人を大好きでいたい』って思いは守ったことも事実だよ」
そして相手と同じ思考に到達できなくても、その違いを尊重し、愛おしいと思うことはできる。自分は人と違うのだと孤独感に苛まれていた子供だった自分に、それを伝えられることができたなら、もう少しましな人間になっていただろうか。
考えても詮無いことに、ロウラントは小さく苦笑した。
「っていうか私たちって、そんなことより他人に殺されないかを心配をした方がよさそうじゃない。特にロウはさ」
「……おかげさまで、まったくもってその通りです」
ロウラントは叙爵二か月にして、既に宮廷の一部からは印象が良くない。その要因の一つが目の前にいる皇太子だ。
立太子式にレブラッド領の名産である絹のドレスを着せたことは正解だった。効果は想像以上で、当初の予想を超えるほどの注文が帝国のみならず諸外国からも入って来るようになった。想定外の特需に見舞われた原因は、式典本番の効果だけでなく、カレンが立太子式の前後に催された宴の席で、積極的にドレスを話題にして売り込んでくれたおかげだ。
半面、他の織物を主産業とする地域の領主らからは、『皇太子を利用し、私腹を肥やしている』などと、おおいに攻撃されている。確かに自領が潤えば、領主である自分の実入りが多くなるのは事実だ。
宮廷で必要以上に反感や妬みを買うことは得策ではない。ましてロウラントは公爵になった経緯からしても、『成り上がり』と陰口を叩かれている上、未来の皇帝の側付きという優位もある。ロウラントをよく思わない者は宮廷に山ほどいるだろう。見え透いた人気取りなどしたくはないが、帝都の公共設備や福祉施設へ還元することで、そろそろ調整を図った方がいいかもしれない。
とはいえ、領地の広さの割にまともな耕作ができる土地が少ないレブラッド領にとって、この特需を一世一代の好機だ。そもそも絹の衣装は簡単に量産できる物ではない。生糸から布を織り上げ、裁断縫製し、さらに手作業で刺繍を施すという膨大な工程が必要となる。今の領内の設備や人員ですべての注文に応じるとすれば、十年以上掛かる計算になってしまう。
そして施設を拡大させるとなると、数年程度の流行で終わらせるわけにはいない。この爆発的な流行を恒久的な需要に変えるには、販売戦略としても段階を踏んだ、てこ入れが必要となる。
そもそも織物に関する知識も商いも、ロウラントは完全に専門外だ。しかし泣き言は言っていられない。領地の産業に関わることを他人任せにするわけにはいかなかった。一から勉強するほかない。とにかく時間が足りなかった。
カレンと共にいると、良くも悪くも想定外の波乱ばかりだ。追走する人間の悩みなどおかまいなしで、彼女はこの先も世の中を駆け抜けていくのだろう。
そんなロウラントの悩みなど、カレンは思いもしていないはずだ。あっけらかんと笑っている。
「だいたいウチの兄弟姉妹、三人も刺されたことがあるってスゴくない?」
「あいにく四人です。思い出すのも腹立たしいですが、俺もドーレキアにいた頃、下手を打ったことがあります」
「はい? なにその衝撃の事実……」
「話す機会が特になかったので。初めての『祝福』の行使に手間取ったせいか、今も傷が残っています」
「え、どこに? 全然わからないけど」
「それは服の上からはわかりませんよ。見たいですか?」
「え……?」
傷が残っているのは腹だ。屈辱的な記憶と共に刻まれた醜い傷跡だが、カレンならば興味本位であろうと、見られても別にいいかと思えた。とはいえ使用人が立ち入ることも多い執務室で、上半身だけでも服を脱ぐのはさすがに気が進まない。寝室として使っている私室のドアにちらりと視線を移すと、カレンはすっと身を引いた。
「……いい。遠慮しとく」
別に深い意味はなかったのだが、その素っ気ない態度にロウラント小さく鼻を鳴らす。
愛人の立場を確約してもらう話は相変わらず保留のままだ。確かに十八歳になるまで待てとは言われたが、本当にその話題に関しては匂わすことすら許さない徹底ぶりだ。ここまでカレンが頑なになるとは想定外だった。
カレンが真っ赤になって、わざとらしく咳払いする。
「そ、そういえば、ミリーも自分で自分の手を刺してたよね。……私のせいなんだけど」
ひどく下手な話題の逸らし方だが、これ以上警戒されるのは得策ではないので、ロウラントも引き下がる。
「一人だけ仲間はずれがいて気の毒ですね。お揃いにしてやりますか」
「ユール兄上に当たるのやめて」
「ああ、そうだ。そのユールですが、陛下から今度の巡啓に連れて行くように言われました」
「ユール兄上も一緒に行けるの!?」
カレンが綻ぶような笑みを浮かべた。
「宮殿でただ飯を喰わせておくくらいなら、見聞を広めさせろとのことです」
カレンは近々皇太子の最初の大仕事として、レブラッド領をふくめた北部地方のいくつかの領地に訪問することになっている。公務とはいえ、北部には中央とは違う物珍しい物や文化がある。初めて帝都を離れることへの不安などまったくない様子で、カレンは楽しみにしていた。ロウラントも皇太子の補佐役兼案内役として同行する予定だ。
カレンには北部領の知識や、訪問先の名家の家系図など頭に入れてもらわねばならないことがたくさんある。それに加えてユイルヴェルトのお守まで任されるとなると、いよいよ寝る間も削ることになりそうだ。
「帰ってくる頃には姉上の赤ちゃんも生まれるし、忙しいけどこれからが楽しみだね」
「まったくです」
イヴリーズの話では出産予定日は四月。『カレンと誕生日が同じになるかもしれないわね』などと言っていた。そしてカレンが十八歳になったら、約束通り自分たちの関係について、真剣に考えてもらわなければならない。
やることが山済みだというのに、意外にも心は晴れやかだった。先の見えぬ日々に不安ばかりだった自分に、こんな平穏が訪れるとは思わなかった。それはいつか訪れた時と同じように、またあっさりと去って行くものなのかもしれない。それでも、今のこの時を楽しんではいけない理由にはならないはずだ。
水仙か何かだろうか、そよ風が吹き抜けると共に初春の花の香りがした。そういえば、さっきクッションに付いた猫の毛を叩き落とすのに、窓を開けたことを忘れていた。
「寒いですか?」
「ううん、今日はあったかいしこのままでいいよ」
どんなに忙しかろうと、どんなに悲嘆にくれていようと必ず季節はやって来る。それはただの自然現象でたいした意味もないことなのに、不思議と心が弾んでいた。
カレンも同じ気持ちだったらしく、その唇に笑みが刻まれる。
「もう少しで春だね」
「春ですね。……そうだ殿下、落ち着いたら付き合っていただきたい場所があるのですが」
「なになに?」
「俺の昔の親友を紹介します」
トエルの墓は彼のお気に入りだった、厩の近くの日当たりのいい場所に作ってやった。『従者』のロウラントが、十年前に皇子が可愛がっていた犬の墓に詣でるわけにはいかなかったが、カレンを連れて行けば誤魔化せるだろう。春の花と好物だった肉でも携えて行ってみよう。彼を失った後も、自分は存外図太く楽しくやっていることを知らせてやりたい。
目の前の少女と同じ、朽ちることのない愛に満ちたあの親友なら、この姿をきっと喜んでくれるはずだ。
これで番外編は終わりです。やはり話の続きを書きたい気持ちが強く、いずれ第二部を始めようと思いますが、もう少し自分の中で練ってから取り掛かりたいと思います。しばらくは短編中編を書きながら、他の作家さんの小説を読んで勉強したいと思います。ここまでお読みいただきありがとうございます。