3、やっかいな同居人
2023/03/29 誤字訂正
「……男爵、この者はあなたの配下でしょう? 身を引くように命じてください」
執務室の机を挟み対峙する男爵は、険しい表情を浮かべたロウラントにも臆する様子はなく、ただ興味深そうに大きな瞳でまじまじと見つめてくる。
ロウラントは机上で肘を付き指を汲むと、額を当てて大きくため息をついた。
「なるほど……あくまで私の邪魔をするというわけですね。ならば仕方ありません。こちらも相応の対処を取らざるを得ないことはご覚悟ください」
「さっきから小さい子相手に何言っているの?」
開いた扉から、ひょこっと顔をのぞかせたのは赤銅色の髪の少女だった。
「殿下……早くこの人たちをどうにかしてください」
それまで孤軍奮闘していたロウラントは、ようやく現れた援軍にぐったりと言う。手元の机上を陣取った大きな猫が、可愛げのない低い声で「にゃあ」と一声鳴いた。
カレンが皇太子宮に移り住んでから、一か月近くが経った。
無事に立太子式を終え一息つく間もなく、ロウラントは自領と宮殿を行ったり来たりと忙しい日々を送っていた。皇太子宮は以前カレンが住んでいた離邸に比べれば、広さも設備も段違いだ。ただし正宮殿からの距離は他の皇女たちが住む離宮と比べても一番遠い。有事の際、皇帝と共に備えである皇太子の身にも危険が及ぶことは、最も避けなければならないからだ。
そしてつい先日ロウラントも皇太子宮に、執務室と寝泊まりできる私室の二間からなる部屋をもらった。正宮殿と皇太子宮を行き来することの多いロウラントに、カレンからは早い段階で専用の部屋を用意すると言われていたが、返事は保留にしていた。
皇太子宮に居住場所を持てれば、確かに利便性は増す。申し出は大変魅力的だったが、相談役とはいえ未婚の公爵が女皇太子と同じ離邸に住めば、世間からは確実に未来の皇配候補と見なされる。自分のせいでカレンの可能性を狭める真似はしたくなかった。部屋をもらうのは、カレンが無事に相応の相手と結婚を果たした後にすべきだろうと思っていた。
ついでに言うなら、既婚の皇帝や王族が『愛人』を側に住まわすことはよくある話だ。そうカレンに告げたら、虫を見るような目つきを向けられた。
あれこれ思案し、結局時間を惜しむ気持ちが勝った。妥協案としてカレンの自室がある南翼棟とは反対側の棟に部屋を用意してもらった。カレンには仕事をするんだから、もっと日当たりのいい部屋にすればいいのにと言われたが、以前の使用人部屋に比べれば、私的な空間と仕事をする部屋が分かれているだけでも贅沢だ。
そうして快適な部屋を得たのはいいが、なぜかしょっちゅうロウラントの執務室には猫と幼児が乱入してくる。机に広げられた書類の上で、ふてぶてしくもゴロリと横になった太り気味の猫と、その飼い主であるようやく三歳になったばかりの幼い男爵に、ロウラントはほとほと困り果てていた。
「とにかく、この獣をどうにかしてください。仕事になりません」
「獣って……ただの猫じゃない。抱っこして降ろせば?」
「いくら追い払っても、すぐに机に乗っかってくるんです」
カレンが苦笑しながら室内に入って来ると、幼い男爵がぱあっと笑顔になった。
「でんかー!」
「クレオン君、いい物あげよっか?」
カレンがリボンで縛られた小さな布の包みを掲げる。帝国で現在最年少の男爵であるフィンシャー男爵クレオンは、小さなふっくらとした両手で皇女からの賜り物をうやうやしく受け取った。リボンをほどくと中には動物や鳥の形をした、いかにも子供が喜びそうな小さな焼き菓子がたくさん入っていて、クレオンはわあっとはしゃぎ声を上げる。
「お母様にも分けてあげられる?」
「はい、でんか!」
ロウラントがいくら言葉を重ねても、まるで動じなかった幼子はあっさりと陥落し、ぱたぱたと駆け出し部屋を出て行った。
「ほら、ルディーも。一緒に行ってあげな」
カレンが「おっも!」とうめきながら前足の付け根を抱え上げると、重力に従い猫の半身が飴細工のように長く伸びた。
(あれは何が詰まってるんだ……?)
ロウラントがその様子を薄気味悪い思いでながめていると、口髭のような黒い模様を持つ白黒の猫は、不満そうな顔でしばらくこちらを見上げていたが、やがて開いたドアの隙間からのっそりと出て行った。
カレンと今後の公務の予定について話し合った後、彼女は女官が運んできたお茶とお菓子で一息ついていた。ロウラントも誘われたが、山のように積まれた書類仕事が溜まっていたので、主君の前では行儀が悪いが、片手間に仕事をしながら珈琲を傾けていた。
「……殿下。本当に彼らもこの離邸で暮らすんですか?」
「だってシレナさんが私の侍女になってくれたんだもん。通いだと大変だし、親子が別々に暮らすわけにはいかないでしょう。ルディーはクレオン君の大切な友達だし、大人の事情で引き離すなんて可哀想だと思わない?」
カレンの言い分に反論もできず、ロウラントは押し黙る。
公私ともに仲の良い侍女が宮殿内に部屋を賜ることはよくある話だし、家族総出で引っ越してくる者もいるにはいる。だがまるで言葉の通じない、子供や獣と同居する羽目になるとは想定していなかった。
「だいたいあの猫は何を考えているんだ……。適当にあしらっているのに、どういう訳か俺の所に寄って来るんです。フィンシャー男爵まで一緒になって部屋に入って来る始末だし」
遊んで欲しいのなら、猫じゃらしやリボンを持ち歩いているカレンの元へ行けばいいのに、わざわざ中庭を通り自分が住まう棟にまでやって来るのだ。
「あ、それきっと猫の習性だよ。猫って視線を合わせられるのが嫌いだから、興味なさそうに目を逸らす人の方が安心できるんだって」
「……知りませんでした」
今度からは思いっきり睨んでやろうと思ったが、膝から追い払おうが、叱ろうがまったく意に介さないあのふてぶてしい猫に、たいした効果はないような気がした。
「クレオン君も使用人とは違う、貴族の男の人が珍しいんじゃないかな。お父さんの先代男爵が亡くなった時はまだ赤ちゃんだったから、覚えてないみたいってシレナさんも言ってたし」
「男爵の方は騒がしくしなければ、その辺にいるくらいは別にいいです。ただあの猫は、はっきり言って仕事の邪魔です」
ロウラントは猫の重さで折り目のついた書類を苦々しく眺める。
「『元の世界』だったら、猫のいる職場は大人気なんだけどなあ」
「なんで、わざわざ獣なんかと一緒に仕事をしないといけないんですか……」
何度聞いても、彼女の『元の世界』の話は珍妙過ぎて理解ができなかった。
「ま、仕方ないか。ロウはいかにも動物が苦手そうだもんね」
「そんなことはありません。人間の邪魔をする生き物が苦手なだけで、従順な犬や馬はむしろ好きです」
「へえ、ロウは犬派かあ」
「何ですか、それ?」
「犬派猫派の論争は永遠の議論だね。私はどっちも好きだけど。……そういえば何で二択なんだろ?」
「さあ。一番身近な愛玩動物だからじゃないですか。その二択なら俺は断然犬ですね」
「ふーん。ロウは同類より、真逆の性格が好きな性質か」
「……確かに俺は感情表現が苦手な上に、物事を否定的に捉えがちなので、うるさいくらい喜怒哀楽がはっきりした、楽観的な相手の方が付き合いやすいです」
ロウラントはまじまじと目の前の相手を見つめながら言う。
カレンを見ていて、ふとかつての友達を思い出した。
「……そういえば、昔可愛がっていた犬もそうでした」
「犬、飼ってたの?」
「元々宮殿内で飼われている猟犬だったんですが、気が優し過ぎて適性がなかったので、個人的に譲ってもらったんです。誰にでも懐きましたが、特に俺の姿を見つけると、遠くからでも必死に走って来て……本当に良い犬でした」
「そっかあ、いい思い出だね」
「でも最後は病で弱ってしまい、どうすることもできませんでした」
ロウラントは迷いながらも思い切って口にする。
「……俺は考えた挙句、自分の手でその犬の命を絶つことを決めました。苦しみの中で正気を失うより前に楽にしてやりたかった……。だからナイフで心臓を一突きにしたんです」
カレンから笑みが消え、夜明け色の瞳がかすかに見開かれた。