2、旅立ちを決めた日
2023/04/18 誤字修正
「イゼルダや乳母たちから話は聞いた」
ディオスは木の根元に無造作に腰を下ろすと、ランディスにも隣に座るように促す。ランディスは素直に従い、ぎゅっと膝を抱えるように身を丸めた。
「犬を殺したそうだな。乳母が『皇子には人の心がない』と泣いていたぞ」
ランディスの肩がびくりと揺れた。
「私は理由なくお前がそんなことをするとは思わない。トエルという犬をお前はとても可愛がっていたそうだな。……何があったか話してみよ」
一つ呼吸をして、ランディスは覚悟を決めたように話し始めた。
「……トエルの右前足の付け根に腫れ物ができたんです。だんだん大きくなってきて食欲もないので、馬医にも相談していたのですが、先日小さな腫瘍が全身にも広がっているのでもう手の施しようがないと言われました。……おそらく年は越せないだろうと」
「そうか……それは可哀想だったな。他に何と言われた?」
「最後の時までよく慈しんでやるようにと。それが主をこよなく愛する犬にとって、一番幸せなことだと言われました」
「だがその前に、お前は自らの手でトエルの命を絶ったのだな」
「本で調べました。人間も同じ病になることがあると。最後はひどい痛みで正気を失い、己のことすらわからなくなると書いてありました。……俺には馬医の言うことが、正しいことだと思えなかったんです。共にいるために苦痛を長引かせることになるなら、それはあいつの幸せではなく俺の自己満足だと思いました」
体を震わせ、見開いた瞳を潤ませ始めた息子の肩にディオスは手を乗せる。
「乳母にはどんな理由があろうと、愛した者の命を奪うなど言語道断だと言われました。……父上もそう思われますか?」
「お前が悪いことをしたとは思わない。そして乳母の言葉も間違いではない。これはとても難しい問題だ」
合理的な理由があったとはいえ、十歳の少年が可愛がっていた犬を自らの手で刺し殺すなど、理解の範疇を超えるのは当然だ。乳母の反応も仕方ない。
「トエルは触れるだけで悲鳴を上げるほど足が痛むはずなに、俺の姿を見ると木の棒を咥えて、投げてくれとせがみに来るんです。いつも……そうして遊んでやってたからっ……俺を喜ばそうとして……」
小さく嗚咽を漏らしながら、涙を流すその背をディオスはさすってやった。
ランディスは大人びている反面、感情の起伏が少なく冷淡に見られがちだが、周囲の評価や兄弟姉妹の長兄としての期待に応えんと、自分を厳しく律する努力家でもある。
その優秀さゆえに忘れられがちだが、ランディスはまだ十歳の子供だ。幼い子供が年相応の甘えや弱音を、素直に見せられないことはとても哀しいことだ。密かに懸念していたことであったが、もっと早く環境を改善してやるべきだった。ディオスは親としての己の不甲斐なさを思い知った。
「お前が冷徹なだけではないことを、私や姉弟たちは知っている。だが常人が理解するには、お前の優しさはいささか苛烈過ぎる。お前もまたそれを理解し、世間と付き合っていかなければいけない。私の言っている意味がわかるか?」
ランディスが泣き濡れた顔で素直にうなずく。その哀れなほどの賢さには覚えがあった。
「お前は産みの母によく似ているな」
彼女も自らが苦難を味わうことがわかっていながら、躊躇することなく最善の道を選べる女性だった。
「……自分で育てられないから、俺を父上たちに引き渡した人ですか?」
「リーゼラーナを恨まないでやってくれ。それがお前のためだと信じた結果だ」
結局ランディスの父に当たる人物を探し出すことはできなかった。リーゼラーナは最後まで頑なに『ランディスは私だけの子です』と言い張っていた。少なくとも彼女に、最後まで共にありたいと思える存在はいなかったのだ。
「いつかお前には、ありのままを受け入れてくれる理解者ができるとよいな」
やがてランディスが袖で涙をぬぐい、泣き腫らした目を向けた。
「……父上にお願いがあります」
「どうした? 私に可能なことなら聞こう」
「俺に皇位継承権を放棄することをお許しください」
思いがけない言葉にディオスもさすがに言葉を失う。
「……急に何を言う。まさか出自を引け目に思っているのか? 言っておくが選帝に関して、私は血の繋がりを判断材料するつもりはないぞ」
もう一人にはまだ伝えていないが、六人の子供のうち二人は自分の子ではない。それでも個人の資質を見極め、帝国を統べるにふさわしと思った子に跡を後を継がせるつもりだった。もちろんランディスは間違いなく、その有力な候補の一人だ。
「それもなくはないのですが……俺は皇帝に向く人間ではないと思います。今の父上のお話で、俺が万人からの信頼を得るのは難しいとよくわかりました」
「さっきのはそういう趣旨の話ではない」
「自分を卑下しているわけではないのです。ですが俺の才覚は、自らが先頭に立って采配を振るうためではなく、皇帝となる兄弟姉妹の下で生かされるべきだと思います」
ディオスはその言葉にしばし考え混む。
ランディスの言うことには一理ある。皇帝は知性や武勇に優れていればいいというものではない。まず必要なのは、いかなる時にも動じない強靭な精神。そして自身は才覚には恵まれずとも、能のある人間を重用し、成果をまるで自分の手柄であるかのように演出できる、ふてぶてしいくらいの人間である方がいい。さらにそういうことを行っても、臣下に猜疑心や反抗心を抱かれない人柄ならなお良い。
ランディスはこれでいて、乳母の反応に真っ当に傷つく程度には人並みの神経がある。そういう意味では、確かに皇帝の地位は彼には荷が重いかもしない。
「だが、さすがに継承権放棄は早急だ」
ランディスは早熟だが、それでもまだ十歳だ。これからどんな才能が開花するかわからない時点で、結論を出すのはいくら何でも早すぎる。
「では外国へ遊学へ出ることをお許しいただけませんか。東方でも北方でも、政治体制が確立し、学ぶべきものがある場所ならどこでも構いません」
「遊学だと……?」
ルスキエの皇族に生まれた子にとって、人脈を築く時間は貴重だ。選帝会議の前に遊学に出た例など歴代でもほとんどないだろう。だが一方でランディスにとっては悪くない選択だとも思う。彼にとって、価値観の固まったこの宮廷は狭すぎるのかもしれない。
先ほどの打ちひしがれていた姿からは一転、ランディスは力強い眼差しで父を見上げていた。
先に大きな要求を出し、その後譲歩として現実的な要求を提示する交渉術など子供のすることとは思えない。皇帝にならずとも、才覚を磨き上げれば、きっとこの国にとっても有益なものとなるだろう。この才能を枯れさせてはいけない。それは父として、そして皇帝としても認めなくてはならなかった。
皇帝の子供は選帝会議で皇太子になるか、世のためになる才覚を認められなければ宮廷を追い出される運命を背負っている。そう遠くない将来、家族は離ればなれになる。……このままでは。とはいえ、まだ十歳の子供を遠くに行かせることになるなど思いもしなかった。かすかな寂しさにディオスは空を仰いだ。
「お前の母や伯父を説得するには骨が折れそうだ……」
その言葉にランディスはようやくかすかな笑みを見せた。
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