1、犬
「よしよし、いい子だなトエル」
飼い葉の上に座った少年が、クリーム色の毛並みを愛おしそうを撫でる。垂れ耳が特徴的な中型犬は、気持ちよさそうに目を細めていた。少年もまた人前では滅多に見せない、穏やかな表情を浮かべている。
そこは正宮殿からは遠く離れた西の森が近く、宮殿の敷地内で飼われている馬のための飼い葉を収めておく小屋の中だった。時折馬丁がやって来るくらいで、いつもは人気がない場所だ。
ひげ周りや顎をさすってやると、トエルと呼ばれた犬はうれしそうに目を細めて、黒い鼻先を少年の手に押し付けていた。
「トエル、くすぐったいよ」
少年は笑いながら持ってきた袋から中身を取り出す。中からはロウ引き紙に包まれた生肉の塊が出てきた。
「ほら、お前の好物の羊肉だよ。もうしばらく食べてなかっただろ」
ナイフで薄く削いだ肉を手に上に乗せると、犬はふんふんと鼻を鳴らすような素振りを見せ、ゆっくりと噛み締めるよう咀嚼した。
少年がもう一度肉の欠片を手のひらに置いたが、犬は小さく匂いを嗅いだだけだった。まるで食べられないことを詫びるように、犬は少年の腹に頭を擦り付ける。
「……いいんだ。いい子だな、お前は」
少年が犬の頭を引き寄せて撫でると、まどろむようにその足の上に頭を乗せる。その体を少年はずいぶん長い時間を掛けて撫で続けた。やがて本当に寝入ってしまったのか、犬は目をつむったままふいごのように静かに体を上下させていた。
少年が先ほど肉を削いでいたナイフを丁寧にハンカチで拭う。
「トエル……お前はずっと俺の大切な友達だ……」
少年は声を震えさせていた。その手にあったナイフがゆっくりと高く掲げられ、鈍い光を放つ。そして次の瞬間、膝の上で静かに呼吸する柔らかい体へと振り下ろされた。
――その時、少女は思わず両手で口元を押さえ、小屋の壁から離れた。
板壁の隙間から覗き見ていた光景に血の気が引き、茫然と立ちすくむ。やがてガタガタと小屋の中で人が動く音に我に返った。仔ウサギのようにぱっと駆け出し、その場から逃げ去った。
※※※※※※※※※※
ディオスは子供たちを見下ろしながら首を傾げる。
「……この子はさっきから何をしているのだ?」
「わかりません、父上。今朝顔を合わせた途端こんな調子で、何も話さないんです」
朝議の後、ディオスは公務のわずかな合間を縫って、子供たちの様子を見ようと中庭へ出た。するとそこで、娘の一人が奇妙なことをしていた。血の繋がりを感じさせる、自身と同じ赤銅色の髪を持つ兄の背中に子亀のように張り付き、服を握りしめたまま顔を伏せている。
「ディア……俺は剣の稽古に行きたいんだ。そろそろ離れてくれないか」
グリスウェンが困り果てた様子促すが、妹のカレンディアは小さく首を振って離れない。元々限られた人間としか会話もできぬほど内気な娘だが、今日はさすがに様子がおかしい。
「ディアは甘えん坊ね。ほら、お姉様の所にいらっしゃい」
その様子を面白がってみていた長女イヴリーズが、妹に向かって両手を差し伸べる。カレンディアはちらりと視線を上げたが、再び兄の背にさっと顔を伏せてしまった。
「あら……?」
「イヴは強引だから、ディアが怖がるんだよ」
「そんなことないもん。生意気言わないで、スウェンのくせに!」
つんと顎を上げるイヴリーズを、むすっとした顔のグリスウェンが物言いたげに睨む。
「こら、小さい妹の前で喧嘩をするな。……ところで、ランディスの姿が見えんな。どこに行った?」
歳の近い上の三人は朝から晩までほとんど一緒にいる。そして大人たちが少し油断した隙をついて、ろくでもない悪戯を仕出かすのだ。
「知りません。今日は遊ぶ気分じゃないって、朝食の後一人でどっかに行っちゃったわ」
面倒見がいいのか悪いのか、姿の見えない弟のことなどまるで気にしていない様子でイヴリーズがあっさりと言う。
「陛下、少しよろしいでしょうか?」
にわかに呼びかけられ後ろを振り向くと、妻である第一皇妃イゼルダが数名の侍女と共に立っていた。子供の頃からよく知る妻にいつもの朗らかさはなく、その表情ひどく曇っている。そしてイゼルダの後ろでは、ディオスもよく見知った子供たちの乳母であり子守り役である女官が、なぜかさめざめと泣いていた。
「何があった?」
「どうか……どうか、わたくしを陛下の御手でご成敗くださいませっ!!」
女官の剣幕に困惑しつつイゼルダに視線を向けると、彼女は小さくため息をついて、大人たちのやり取りを不思議そうに眺めている子供たちをちらりと見やった。
「イヴ」
「はーい」
宮廷一の問題児ではあるが、賢いイヴリーズは父に呼ばれただけで長子である自分の役割を理解していた。
「父上、これは『貸し』よ」
澄まし顔で背中で手を組んだイヴリーズは、どこで覚えたのか大人ぶった口調で言う。
「……よかろう。厨房で正餐会の料理が準備されているはずだ。私の許可をもらったと言って、チェリータルトを分けてもらいなさい」
子供が参加できない催しのデザートと聞いて、イヴリーズは青い目をキラキラと輝かせる。
「やったあ! ほら、二人とも行くわよ」
「あっ! 引っ張るなよイヴ!」
カレンディアが張り付かせたまま、それまできょとんと目の前のやり取りを見ていたグリスウェンの手首をつかみ、イヴリーズは中庭から去って行った。
「――ゼルダ、説明を」
大人だけになり、改めてイゼルダに説明を求めると、むせび泣いていた乳母が地面に崩れ落ちた。
「わたくしは恐れ多くもランディス皇子殿下に手を上げてしまいました! どうぞ、いかようにも罰をお与えくださいませっ!!」
想定外の言葉にディオスがかるく目を見開くと、こめかみを押さえたイゼルダが重苦しい口調で告げた。
「……ランディスがナイフで犬を殺してしまったのです」
※※※※※※※※※※
「ランディス皇子、危ないから降りてきなさい!」
ディオスが教えられた正宮殿の裏手にたどり着くと、大きな木の根元で樹上に向かって呼びかけている男がいた。口ひげを蓄え、地味ではあるがどこか上品な印象の男だ。
「きちんと自分の口から説明しなければ、誰もわかってはくれませんよ!」
「ダリウス」
「これは……陛下」
ディオスの元従者であり、従兄でもあるレブラッド公爵ダリウスが向き直る。彼は長男ランディスの母方の伯父でもあり、後見人でもある。多忙のため子供と接する機会の少ないディオスに代わり、子供たちの中でも扱いが難しいランディスの教育を自ら担ってくれていた。
「ほらランディス皇子、お父上が――」
「うるさい、ダリウス! あっちへ行けって言ってるだろ!」
ディオスが木の上を見上げても相当高い所にいるのか、生い茂る葉で息子の姿は見えなかったが、そこにいるのは確かなようだ。
ディオスは眉間に深く皺を刻む。
「ランディス、今すぐに降りて来るのだ」
さほど大きくはなかったが静かな怒りをたたえた声に、樹上で息を飲む気配がした。それまでダリウスの呼びかけには全く応じる気配がなかったランディスが、するすると器用に木の枝を伝い地面へ降りてくる。
地上に降りたランディスは気まずそうな表情を浮かべていた。その片頬は本当に容赦なく引っ叩かれたのか、真っ赤になっている。
ディオスは本題の前に、言い含めておかなければならないことを告げた。
「ランディス、このダリウスは皇家の臣下であるが、帝国を支える七家門の公爵であり、お前の伯父上でもある。子供が無礼な口を利いていい相手ではない」
「陛下、私のことはよいのです」
「ランディス」
ダリウスの言葉を遮り、不貞腐れたように黙り込むランディスを強い口調で呼ぶ。渋々といった様子ではあったが、ランディスはダリウスへと向き直った。
「……敬意を欠いた発言をお許しください、伯父上」
「いいえ、殿下。どうぞお気になさらないでください。怪我をされなくて本当によかった」
まったく気を害した様子もなく、ダリウスはほっとしたように笑みを浮かべた。気の優しさを子供にまで見透かされている、どこまでも人のいい公爵にいささか呆れつつディオスは告げる。
「面倒をかけたな、ダリウス。すまないが、しばらく二人きりにしてもらえるか」
「もちろんです、陛下」
ダリウスは恭しく頭を下げると、茶目っ気のある態度でランディスに向かって片眼をつぶり去って行く。
「……ランディス、お前と少し話がある」
唇を噛み締め、立ち尽くしていたランディスが小さくうなずいた。