4、真なる王
従者の居室は二階にあるが、私が使用する廊下や階段とは扉で隔てられていてほとんど別の建物と言っていい。そこに至る鍵は普段ならフレイとロウラントしか持っていないが、幸いにも扉は開いたままだった。
ロウラントの部屋の前につくと、私はノックしかけた手を止める。まだ高熱でふせっているのだから、起こさない方がいいだろう。彼の様子を一目確かめられればそれでよかった。
フレイが私を安心させるため、ロウラントの病状を誤魔化しているのではという疑念がどうしてもぬぐえなかった。何よりもセルマの日記に記されていた、死の縁にあったリーゼラーナの描写が頭から消えなかった。
そっと、音を立てぬようゆっくり扉を開ける。部屋の奥は真っ暗で何も見えなかった。フレイの部屋はたまに訪ねるが、さほど広くない室内の手前に机やチェストがあり、一番奥の窓際にベッドがある。使用人の部屋の構造などさほど変わらないだろう。部屋の奥でロウラントは寝ているはずだが、本当に人がいるのだろうかと思うほど、気配どころか物音一つしない。
灯りを持ってくれば良かったと後悔しつつ、私は室内へと静かに足を踏み入れる。
「――すまないが、水を持って来てくれないか」
急に暗がりから話しかけられ、私は喉の奥で悲鳴を飲む。その声はひどくかすれているが、間違いなくロウラントのものだった。入って来た人の気配に、様子を見に来た使用人だとでも思っているのだろう。
私はどうしたものかと迷いつつ、思い切ってドアを大きく開け放った。廊下の窓から差し込む月明かりを頼りに、ベッドの近くまで歩み寄る。ロウラントはカーテンが閉め切られた窓の方を向いて横になっていたので、顔を見ることはできなかった。
私はサイドテーブルに置かれた空の水差しを手に取ると、一度部屋を出て地下の厨房へと向かう。再び戻って来ると、ロウラントはベッドの上で身を起こしてた。まだ熱が高いようでひどく気だるそうな上に、目つきも虚ろだ。いつもは微塵も乱れのない髪もぼさぼさで、私は不謹慎にもロウラントの貴重な姿に少しドキドキする。
「その辺に置いてもらえれば――」
私に視線を移したロウラントが、ぎょっとしたように目を見開く。
「カレンディア殿下……」
「……お水。飲みたかったんでしょう?」
水を注いだグラスを差し出すと、いつもの半分以下の鋭さでロウラントが私をにらむ。
「すぐに出て行ってください!」
「でもフレイは正宮殿にある医局に行ったと思うから、戻るまで時間がかかるわよ。その間誰があなたの面倒を見るの?」
「そんなこと頼んでっ――」
叫びかけたロウラントの声は、激しい咳に取って代わられる。息もつけぬ苦しそうな様子に、私の脳裏にまたリーゼラーナのことが浮かぶ。
「ロウラント!?」
私が病気の時はフレイがそうしてくれるように、とっさにロウラントの背中をさする。やがて咳が治まり、ぜーぜーと荒く息をつくロウラントに水を差し出す。一瞬気まずそうな表情を浮かべたが、ロウラントはグラスを大人しく受け取って水を飲み干した。
「まだ飲む?」
「いえ……お手数をおかけしました」
ロウラントの手からグラスを受け取った私は、ふと視線を落とし硬直する。掛布にわずかだが血液が散った跡があった。咳き込んだロウラントがとっさに口元を押さえた時に付いたのだろう。
私の視線に釣られ、その痕跡を見たロウラントは「ああ……」とつまらなそうにつぶやく。
「ロウラント、これ血……」
「咳のし過ぎで喉が切れただけです。どうせすぐ治……りますよ」
「ほ、本当に!?」
「嘘をついてどうするんですか。先生は本当に医官を呼びに行ったんですか? ……大げさだな、あの人も」
その不遜な口調に不自然な点はなく、誤魔化しているようには見えなかった。
「本当に大丈夫なの? 肺を病んで喀血したわけじゃないのよね!?」
「いったい何の話ですか? 体調を崩した所に、食事を運んでくれた使用人から流行風邪をもらっただけです」
そういえばフレイから、正宮殿で性質の悪い風邪が流行っているので気を付けるように言われていた。言われずとも、私が離邸を出ることなどまずないのだが。
「だから殿下には側に寄ってほしくなかったのですが……。今更ですが、もう少し離れてもらえますか?」
今までになかった目線の近さで言われ、ベッドの脇に乗り上げていた私は、急に恥ずかしくなってさっと距離を取る。そしてロウラントが私を疎んじて『出て行け』と言ったのではなかったことに、こっそり胸を撫で下ろしていた。
「……仮にも皇女が、病人とはいえ男の寝室に立ち入るなど軽率過ぎます」
喉から出血するほど傷めているなら、話すのも辛いだろうに、ロウラントは私にお説教をすることは怠らなかった。
「だって……」
まさか、ロウラントが彼の母と同じ不治の病を患っているのではないかと心配になったとは言えず、私は口ごもる。
「ロウラントがここまで悪くなるなんて思わなかったから。持病があるなんて、これまで一言も言わなかったじゃない」
「そんな大げさなものではありませんよ。疲れた時に埃っぽい場所にいたり、食べ物の相性が悪かったりすると熱が出るだけです。それも滅多にあることじゃありません。大人になってから症状が出たのは初めてです」
「疲れって……やっぱり私のせい?」
その言葉にロウラントがばつが悪そうな表情を浮かべる。うかつにしゃべり過ぎるなど彼らしくもない。やはりロウラントは本調子ではないようだ。
「……ロウラントに負担をかけていることはわかってます。でもやっぱり、私にはあなたの要求に応じるだけの能力はないのよ」
「殿下……」
「せめて私にお姉様みたいな『祝福』があれば、あなたの病気も治せたかもしれないのにね」
言っても仕方のない愚痴が思わず私の口からこぼれる。
「イヴリーズ殿下の能力は外傷にしか作用しません。……そう聞いています」
「そうだったわね」
こんなに無能でも人知を超えた特別な力があれば、皆は私を認めてくれただろうか。時々どうして『祝福』を授かったのがイヴお姉様なのだろうと、暗い感情に囚われる時がある。『祝福』がなかったとしても、優れた知性と深い慈愛の心を持つお姉様なら、有力な皇太子候補であったはずだ。
努力で己を磨くことを諦め、無条件に得られる『祝福』を願ってしまう辺りも無能の証なのだとはわかっている。それでも『もしも』を夢想せずにはいられなかった。私やリーゼラーナのような人間でも、『祝福』がありさえすれば――……。
ふと私は日記の内容を思い出す。イヴお姉様が病気や自分の怪我を癒せないように、『祝福』は魔法のように何でもできる力ではない。他人に影響を与えられるお姉様の『祝福』はそれでも例外の部類で、大抵は毒も薬も一切効かないとか、視力や聴覚が異様に優れているなど、己の中で完結する特殊な体質程度であることが多い。
リーゼラーナは異性と一切の接触をせずに子供を身ごもった。そんな奇跡のような出来事あるはずがない。だが私たち皇族はささやかながらも、奇跡が身近にあることを知っている。わが身一つで子供を産める能力というものがあるとすれば、それは大半が特殊な体質程度という『祝福』本来の在り方にも近いのではないだろうか。
少し前にロウラントから教養として目を通すようにと渡された学術研究所の発表に、雌だけを選別した虫の中に卵を産んだ個体があり、幼虫が孵ったという報告があった。他の生き物に可能なことなら、そこまで荒唐無稽な話ではないはずだ。
「殿下、大丈夫ですか?」
考えにふけるあまり黙り込んでしまった私を、落ち込んでいるとでも思ったのだろう。ロウラントが珍しく心配そうな表情を浮かべていた。
「ええ……ロウラント」
私は今現在、彼が名乗る名前をつぶやく。ロウラントは実の母からもらったかもしれない名前を捨ててしまった。ランディスという名を持つ皇子は歴代にも何人かいる。将来玉座に座る可能性の高い帝国の第一皇子の名として、『真なる王』という意味の名は不自然でもなんでもない。だが彼の名を付けたのが、本当にリーゼラーナであれば意味は違ってくる。
創世の時代、イクス女神は男性と交わることなく、身一つで私たちの先祖である『始まりの王』を産み落とした。その女神と同じ能力を持つ皇女が生んだ、他家の血が混ざらぬ純血の子。ルスキエの礎を築いた『始まりの王』と同じ、誰よりも濃く尊い血を持つ者。
リーゼラーナは我が子の名に、皇族の血を継ぐ者として生を受けた自分の存在意義を託したのではないだろうか。
――次代の玉座にふさわしいのは、女神の力を継承せし我が身より生まれた『真なる王』だと。
次回更新は金曜日か土曜日になります。