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2、ある女官の日記




 その日の夜、私はこっそりベッドの中で一冊の日記を読んでいた。


 昼間に木のうろから見つけたのは、かなりの厚みのある立派な装丁の日記だった。紙は黄ばみ、端が劣化していたが、細かく丁寧な字でつづられたそれは、読むのに支障はなさそうだった。


 人様の物を勝手に読むことに罪悪感はあったが、日記を見つけた時の様子からして、もう何年も人が手にしていないのは明らかだった。持ち主が放棄したと見なして、結局私は遠慮なく日記を読むことにした。




 それは宮廷勤めの女官が淡々と毎日のことを記したものだった。何気なくページをめくっていく内に、終盤の方で私のお母様である皇妃ルテアの名前を見つける。


 私を産み落としてすぐに亡くなったお母様は、皇妃の部屋を賜るまで、この離邸を一時の仮住まいとしていたと聞いたことがある。日記は母に仕えていたセルマという名の女官の物だった。彼女は結婚をせず、若い頃から長年に渡り女官として宮殿で働いていたようだ。


 最初の方は後でゆっくり読むとして、セルマがお母様に仕え始めた日の頃から読み進めることにした。日記の中には周りを笑わせ、いつも場を明るくする母の姿が生き生きと書かれている。


 世間では皇帝の寵愛を受けながら、若くして命を落とした悲劇の皇妃として知られているが、これが彼女の本来の姿なのだろう。馬に乗って宮殿の敷地内を駆け回り、幼いスウェンお兄様と一緒に森の湖で釣りをする様子など、とても皇妃のすることとは思えなかった。


 お母様のことはフレイからもたくさん話を聞いている。一応貴族の子女でありながら、木登りをして果物を取ったり、崖の上から海に飛び込んだりと大変活発な少女だったらしい。皇妃になっても特にお淑やかにはならなかったようで、相変わらず突拍子もない行動で周囲を振り回していたようだ。




 女官セルマはそんな風変わりな皇妃をとても慕っていたようだ。文章からも温かみが感じられる。しかし日記を読み進めていく内に、私はやるせない思いに囚われる。セルマはお母様の臨終の際も側にいたのだ。


 誰よりも愛した皇妃を失い激情に駆られるお父様の様子や、あるじに死に化粧を施した時のセルマの心情が、乱れた字で書きつづられている。その後セルマは正宮殿付きの女官として勤めを続け、やがて病を理由に職を辞していた。


 セルマの最後の仕事は、かつてルテア皇妃が住んだ離邸を、彼女が生んだ皇女のために整えること――つまり私のためにこの離邸を準備することだった。宮殿を出た後は、コレートという街に移り住む予定だと書かれていた。そこで残り少ない人生を心穏やかに過ごすために。


 コレートという土地の名は知っている。曽祖父の弟に当たる元皇子アルガス様が領主をしている土地だ。私も一度だけ会ったことがあるが、心優しく信心深い人だった。皇家の人間には珍しく、イクス教団の聖職者とも良好な関係を築いている。


 コレートには、アルガス様の指導の元に造られた福祉施設が多くある。その中には、不治の病にかかった人間を看取るための療養院もあると聞いていた。長く皇家に忠義を尽くしたセルマは、その恩賞として療養院に入れることになったのだろう。


 私がこの離邸にやって来たのは八年ほど前。おそらくセルマはすでにこの世にいないだろう。もし連絡が取れれば、お母様の話を聞けたかもしれないのにと、私は少しがっかりする。しかし最後のページに書かれていた一文に、落胆を忘れるほど私は動揺した。




『皇妃ルテア様が生きた証は、お二人の御子がきっと残してくださるだろう。私の最後の心残りは、失われし皇女リーゼラーナ様と、今は遠い北の地におわす『真なる王』のことのみ。正統なる血の証をせめてこの宮廷に残したい。いつか誰かがこの日記を見つけ、真実を世に示してくれることを信じている』


 親族である皇族の名前くらい、当然私でも覚えている。でも『リーゼラーナ』という皇女に心当たりはなかった。セルマが当時お婆さんだったとしても、私が子供の頃にまだ宮廷にいたのだから、そこまで古い時代の話ではないはずだ。


 そして『真なる王』という不穏な言葉も気にかかる。まるで私たち今の皇族が正統ではないような言い方だ。


 私はすぐに目を通すつもりがなかった、日記の最初の方にページを戻す。確実に寝不足になりそうだが、どうせ明日も自習だろう。昼間にロウラントの様子を見てきたというフレイの話では、まだ熱は下がり切っていないようだった。さすがに少し心配ではあるが、今は日記のことが気になる。流し読む内に、二十年以上前の日付が書かれたページでその名を見つけた。




『今朝リーゼラーナ様がご到着された。長旅のお疲れか顔色がひどく悪いのが気にかかる。ご挨拶の際少しだけお話したが、聞いていた通り美しく聡明そうな方だった。城にある蔵書をさっそく気にされていた。あのような才女が歴史の闇に葬られることになるとは、宮廷とはなんと因果な場所なのだろう』


 日記のページをさらに戻ると、リーゼラーナの正体はあっさりとわかった。彼女は庶子も入れると十人以上になる、私の曽祖父の子の一人だった。


 セルマと出会った時、二十歳にもなっていないことを考えると、リーゼラーナは生まれた時点で、既に彼女の年の離れた兄――すなわち私たちのおじい様が皇太子の座についていたことになる。そのため皇帝の娘という身分に生まれながら、皇位継承権はもちろん、皇女の称号すら与えらえなかったようだ。


 リーゼラーナは数年間、お母様やフレイも暮らしていたレイローグ女子修道院に住んでいたとあった。そして持病が悪化し、療養のため西部領の辺境にある城に移り住むことになったのだ。セルマは彼女のための世話役として派遣されたのだろう。


 リーゼラーナが生きていれば、フレイよりはもう少し年上だ。同じ時期に修道院にいたことになるが、フレイから皇女と暮らしていたなどという話は一度も聞いたことがない。偽名を使い、身分を隠していたのかもしれない。後でフレイにそれとなく聞いてみようと思いつつ、ページをめくり読み進める。




 セルマから見たリーゼラーナは、後に主となるルテアに比べれば、随分淑やかな人だったろう。本来なら修道院に幽閉される身であるため、外部の人間と会えないこともあるが、室内で読書や詩作などをして静かに日々を過ごしていたらしい。


 また知識に富んだ人のようで、近隣の村に出入りするセルマから家畜の疫病が流行っていると聞けば、消毒や薬の調合の仕方を教え、村人が土地の所有権で揉めていると聞けば、法律に基づいた的確な助言を与えていた。


 セルマが嘆く気持ちもわかる。優れた知性の持ち主である彼女は、間違いなく私などよりも選帝会議に掛けられるべき価値がある人だ。リーゼラーナならば、どの時代であっても皇帝候補として名を挙げていただろう。――皇女としての地位、そして健康な体さえあれば。




 リーゼラーナは残念ながら、生まれつき肺や喉が弱かった。セルマの日記にも何度も彼女が高熱を出し、酷い時には喀血することも記されている。孤島の修道院では治療がままならないため、専門の医師が常駐できる辺境の城へ送られてきたようだが、セルマが仕え始めてからもリーゼラーナは何度も生死の境をさ迷っていた。その頻度は後のページになるにつれ、増えているような気がした。


 セルマがこの少し後に帝都に戻り、ルテア皇妃に仕えることを私はもう知っている。残念だが、リーゼラーナがたどる運命には予想がついていた。


 しかし、そこに至る前に彼女の身に思いがけないが起こった。異性はおろか、同性すらも限られた人間しか接点がないリーゼラーナが、なんと子供を身ごもったのだ。












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