172、ランディスとディア4
「……――きっとずっと好きだったんだわ」
「今、何かおっしゃいましたか?」
私は思いがけず、自分の口をついて出た言葉に我に返る。目の前のロウラントがその秀麗な顔をいぶかしげに歪めていた。
今日は彼から古代ルスキエ語を学んでいた。古代語は詩作や歌唱に欠かせない、いわゆる『貴婦人の嗜み』とされる教養に必ずついて回るものだ。
「何でもないわ……ちょっと考えごとをしていただけ」
うっかり口から飛び出してしまった本音を誤魔化すことに、私は気を取られていた。結果、ロウラントは私の独り言の内容にそれ以上関心は持たなかったが、案の定勉強に集中していなかったことに気分を害したようだった。
「……相手が私とはいえ、他人から物を教わっている最中に考え事ですか。よくそんな余裕がおありですね。それともこの状況すら理解しがたいほど、呆けていらっしゃったのですか?」
ロウラントの嫌味に、私は膝の上でぎゅっとこぶしを握った。
私はこれまで自分のことを、どちらかといえば温厚な人間だと思っていた。自分が不出来なことを自覚している分、下々の者には寛容であろうとも心掛けてきた。だから他人の横っ面を本気で引っ叩きたいと思ったのは、彼が初めてだった。そしてよりにもよって、そんな男を好きになるとはつくづく自分は愚かしいなと思う。
口ごもる私を見て、ロウラントは目を釣り上げて口を開きかけた。しかし次の瞬間なぜか急に脱力したように、額を押さえ長いため息をついた。
「……カレンディア殿下、あなたが今学んでいることは、本来なら十二、三歳で終えていなければならないことなのですよ」
無駄な時間と労力を費やさせていることに、申し訳ないとは心底思っている。ただ、もう努力や気合ではどうにもできない段階なのだ。
一度は自分から修道院の門を叩こうとまで思っていた私だったが、最近はまた宮廷に残りたいという希望が湧いてきた。その理由はまさに目の前にいるロウラントなのだが、私に嫌われていると思っている彼はそんなこと想像もしないだろう。
しかしいざ勉強に取り組もうとしても、まったく頭に入ってこない。そもそも今の私には勉強にしろ何にしろ、集中することすら難しいのだ。最近はただ歩いているだけで物にぶつかり、食事中もふと気づけばカラトリーを落していることがあった。これはいよいよ頭の病だろうと、私自身ですら思っていた。
「もっと真剣に考えてください。……他でもない、ご自分の人生がかかっているのですよ」
珍しく弱々しいロウラント声に、さすがに私も罪悪感を覚える。私を育て上げようとする彼の意気込みは本物だ。だが私に勉強を教えるという、塩に種を蒔くようなあまりに報われない行為に、さすがのロウラントも追い詰められ、限界に来ているようだった。
「どうして自分のことを救おうと思わないのですか? このまま一生牢獄のような修道院で過ごすことになってもいいなど、私には理解できません」
それはそうでしょうと思う。そもそも彼は、かつて完全無欠の皇子と言われていた人だ。それこそこんな徒労を重ねた経験などないだろう。『できない』人間の思考がわかるはずもない。幼い頃から、何をしても無駄とこの身に叩きこまれ、気概を奪われ続けてきた人間の気持ちなど……。
かすかな苛立ちを覚え、私は思わず言う。
「……ロウラントはいいわよね。あなたほどあらゆることに恵まれた人なら、望めば何でも手に入れられたでしょう?」
だから皇位継承権すらあっさりと捨てられるのね、と私の心の中で皮肉を付け足す。
私が少々口答えしたところで、いつものロウラントならせいぜい鼻で笑う程度だ。だがこの時の反応は私が想像もしないものだった。
暗い瞳から発せられた怒気に、私は思わず身を竦ませる。
「……殿下に俺の何がわかるのですか? 正しい夫婦の愛の元に生まれたあなたに――」
彼から怒られたことは何度もあるが、本気の憎悪をぶつけられたのは初めてだった。彼にとって私は憎む価値もない、取るに足らない存在のはずだ。
恐怖すると同時に、それとは違う震えが背中を走る。
彼から取り繕う余裕を奪い、むき出しの感情を引き出したことに、私は密かに暗い悦びを得ていたのだ。なんて醜いのだろうと、私は心の片隅で自嘲した。
しかしさすがはロウラントで、瞬時にいつもの冷静な仮面の下に感情を押し込めた。
「出過ぎた発言を失礼いたしました。――殿下も集中できないようですし、今日はここまでにしましょう」
「……ええ、わかったわ」
ロウラントは教本を片付けると、何事もなかったかのように一礼して、私の部屋から出て行った。
一人になった部屋の中で、私はかすれた笑い声をこぼした。
「馬鹿みたい……本当に救えないわ」
自分のみっともない欲望を自覚した私は自己嫌悪に陥った。恋愛のことなど物語の中でしか知らないが、相手を傷つけて悦びに浸るような、こんな惨めで醜悪なものではなかったはずだ。
何より、どんなに自分と似ていなくても、片親しか繋がっていなくても、誰も正体に気づいていなくても、彼は間違いなく私の実の兄だ。ルスキエ帝国では近親者同士で通じることは大罪。たとえ片思いでも、狂人扱いされることは間違いない。
みそっかすの《ひきこもり姫》は、恋まで出来損ないなんて笑い話にもならなかった。
「でもどうして、ロウラントはあんなに怒ったのかしら……?」
下級使用人たちが陰で、ロウラントのことをさる貴族の庶子と噂しているのを聞いたことがある。私は『そういう肩書きにしているのね』と特に気にも留めなかったが、先ほど向けられた憎悪は、演技などでは絶対になかった。
ロウラントは私では自分のことを理解できないと言った。『正しい夫婦の愛の元に生まれたあなたに』と。
確かに私のお母様ルテアは、皇帝であるお父様から一番の寵愛を受けていたことで有名だ。だが彼の実母はあの第一皇妃イゼルダ様だ。
私はイゼルダ様の少し馴れ馴れしい所が苦手だが、知的な会話で人を楽しませるのが得意な彼女は、皇妃としてお父様からの信頼も厚い。私のお母様に向けた愛情とは違うかもしれないが、彼女だって皇帝の親愛を十分に得ている。お父様とイゼルダ様の間に愛がないとは言えないはずだ。
『正しい夫婦』という言葉も少し引っかかる。まるで自分は『正しくない』関係性から生まれ落ちたような言いぶりだ。考えられるとすれば皇妃の不貞だが、あのイゼルダ様がそのような愚行を犯すとは思えなかった。
この時に答えの出なかった疑問は、結局そう遠くない内に解消されることになる。私はある『出来事』から、ロウラントが実の兄ではないことを知ってしまったのだ。
『兄妹であるから結ばれない』という口実が奪われた私は、それ以降、ますますやり場のない気持ちを持て余すことになるのだった。
とはいえ、それは私の心の中の問題だ。一時的にロウラントと気まずくなってしまったとはいえ、ふと気づいた時には、いつもの遠慮なく叱られる間柄に戻っていた。
私の不出来は相変わらずだったが、何かが吹っ切れたのか、ついに諦めの境地に達したのか、それからロウラントの対応は多少やわらいだような気がした。
こうしてまた、代わり映えのない日々がしばらく続いたある日、私は眠い目をこすりながらベッドへとたどり着いた。最近良質な睡眠が取れていない自覚はあった。今朝はうっかりロウラントの授業で舟を漕いでしまい、嫌味を言われた。
最近いつにもまして鮮明な夢ばかり見る。起きたばかりで、はっきりと意識が覚醒していない時は、幼い頃のように夢と現実の境が曖昧になることもあった。今朝もフレイに起された時『……今日の入りは午後からでしょう』などと言ってしまい、困惑させてしまった。
私が鮮明な夢を見ることをフレイは知っているが、彼女にも教えていない秘密がある。それは幼い頃からずっと、同じ夢を一つの物語のように見続けていることだった。
それは聞いたことも、本で読んだこともない、不思議な文明と文化を持つ国で生まれ育った、舞台で華やかに歌って踊る『アイドル』と呼ばれる少女になる夢だった。
本日中にもう一話更新して完結となります。もう少々お待ちください。