171、ランディスとディア3
「……お初にお目にかかります。恐れ多くも、カレンディア皇女殿下の従者を拝命いたしました、ロウラント・バスティスと申します。どうぞお見知りおきください」
その声は思っていたより若々しかった。うつむいた視界に見える上着の裾は地味な鉛色で装飾も少なく、もっと年かさの男だと勝手に想像していた。
型通りの挨拶をした後は、何も言わず微動もしない男にしびれを切らし、私は恐る恐る顔を上げる。想像した通り背の高い青年だった。最後に会った時の、スウェンお兄様と変わらないくらいの背丈だ。年齢もおそらくお兄さまと同じくらい、私より四、五才は年上だろう。
最初に目についたのは、知的だが人の温もりを感じさせない暗い瞳だった。黒かと思えば、よく見れば夜闇のような深い紺で――。そう思い至った瞬間、私は息を飲んだ。
中性的でやわらかな線を失われ、青年らしい精悍な顔つきになっていた。眼差しに凄みが増した分、険のある印象が一層強くなっている。外見だけならすっかり別人だが、鋭利な切っ先を思わせる雰囲気も、近寄ることさえ恐れ多い冴えた美しさも、私の中では変わっていなかった。
目の前にいるその人は、間違いなく大人になったランディスだった。
そんなはずはないと、自分の目を疑った。彼は火事に巻き込まれ大やけどを負い、二目と見られぬ姿となったと聞いている。しかしそんな痕跡はどこにも見受けられなかった。
何の冗談かと愕然と立ち尽くす私に、彼は不愉快そうに眉を寄せて言った。
「臣下とはいえ、目の前の相手を――特に異性を値踏みするように眺めるのは、貴婦人としての礼儀に反します」
「……え?」
頭を殴られるような衝撃で、私は彼の言葉を理解できなかった。
「殿下は御年十六とうかがっています。……いまだにそのようなことも、お教えしていないですか?」
その言葉は私に向けられたものでなかった。彼の後ろを追って来たフレイが恐縮したように身を屈める。
「申し訳ありません。すべて私の不手際にございます」
フレイが顔を青ざめて謝罪する姿に、さすがの私もむっとする。私を通り越してあえて目の前で、礼儀作法の先生であるフレイを責めるやり口が意地悪だと思った。
咳払いの後、応接から声が聞こえてきた。
「あー……ロウラント殿? そう最初から、頭ごなしに人を責めるものではありませんよ」
今一つ覇気の感じられないその声は、コレル男爵のものだと気づいた。さすがに彼まで、皇女の寝室に押し入って来る勇気はないようだ。
「私は誰も責めていません、コレル男爵。ただの事実確認です」
そして彼は向き直ると、私のつま先から頭の先までを睨めつけるように視線を動かした。
「朝食をようやく終えたばかり、寝間着のまま、髪すらも結っていない――」
私の問題点を淡々と上げると、彼は短く息をついた。
「たとえ夜会の次の日であろうと、皆の模範となるべき皇女であれば、この時間にはすでに身支度を整え、人に会っても差し支えない装いでいるものです」
人を値踏みするなと言いながら、彼は年頃の皇女の寝起き姿を遠慮なく観察したのだ。私は悔しさと恥ずかしさで真っ赤になって、青年から身を隠すように慌てて背を向けた。
「私は殿下の従者でありますが、現時点では教育係でもあります。問題点を把握しなければ、指導のしようがありません」
心を読まれたような言葉に、私はますます身を固くした。
「私に騎士道に則った奉仕を要求したいのであれば、まず殿下が貴婦人にふさわしい振る舞いをなさってください。殿下が『子供』であらせられる内は、どこであろうといつであろうと、指導者として遠慮なく苦言させていただきます」
子供の私には、寝間着姿を殿方に見られたくないと主張する権利すらないと、彼は言っているのだ。
「……最後にもう一つ。人の上に立つ身として、義務を放棄し権利を貪ることは、寝間着姿で人前に出ることよりも遥かに恥ずべきことと、心にお留め置きください」
言いたいこと告げると、来た時と同じように彼は颯爽とした足取りで寝室を出て行った。
残された私は頬がかあっと熱くなるのを感じていた。最後の一言が《ひきこもり姫》の立場に甘んじ、怠惰に暮らす私への皮肉であることはあきらかだった。彼がランディスであろうと、何者であろうと、間違いなく『大嫌い』だと確信した。
ロウラントが従者になったせいで、深い水底をたゆたうような、ある種の平穏は断ち切られた。
部屋に引きこもっていた私に、せめて人並みの規則正しい生活をしろと告げ、一日一回は部屋から出て日の下を歩くように強制された。ひどい時にはフレイの制止を振り払い、鬼の形相で寝室に現れ、ベッドの上の私から毛布を剥ぎ取ることもあった。
そうして日々を過ごす内に、やはりロウラントはランディスだと私は確信した。自分は確かに覚えがいい方ではないが、人の顔だけは忘れぬ性質だ。
何より独特の居丈高な言い回しや、仮にも皇女である私に一切遠慮のない態度など、一介の騎士では身に着けようがない。彼は相変わらず完璧であるが、だからこそ生まれながらに身に付いた、揺るぎのない自信までは消せていなかった。
さらに不思議なのは、ここまであからさまであるのに、なぜか私以外の人間は彼の正体に言及しないのだ。ロウラントは特に身を潜めることなく、所用を果たすために宮殿の中を当たり前のように闊歩している。ランディス皇子を見知った人間など、使用人から貴族まで大勢いるはずだが、誰一人そのことを指摘しない。
最初は周囲の人間が私をからかっているのかと思ったが、《ひきこもり姫》にそんなことをする理由はない。もちろん私からロウラントに問いただす勇気はなく、頭がおかしくなりそうだった。やがて周囲を注意深く観察する内に、本当に誰も彼の正体に気づいていないのだとわかった。
私は巡りが悪くなった頭で必死に考えた。おそらくロウラントは皇太子になりたくないのだ。そして修道院送りから逃れるため、世間を謀り別の人間として生きることを選んだのだろう。『ずるい』と思いつつも、この分ならユールお兄様も生きている可能性が高いと気づき、少しほっとした。
ロウラントが何を考え、私の従者になったのかはわからなかったが、少なくとも主をまともな皇女に仕立て上げようとする、意気込みは本物のようだった。
雲の上の存在だった彼から、皇女以前に人間として健全な生活を送れという、あまりにも当たり前すぎる説教を受けるのは、《ひきこもり姫》として他人に軽んじられることに慣れた私でもさすがに堪えた。だがそれ以上に、なぜこんな私の意志を無視した横暴な扱いを受けなければいけないのかという、怒りの方が強かった。
言い返す度胸はなかったので、私が無言でロウラントを睨むと、そんなささやかな反抗心など簡単に消し飛ぶような、鋭い眼光と長い説教が返ってきた。
ロウラントがやって来るまで、もはや何もかもがどうでもいい、という諦めの境地にいた私だったが、負の感情であっても数年ぶりに心を動かされたのは事実だ。他人から蔑まれることが、物心ついた時から当たり前だった私の中にも、粗末に扱われることへの怒りや対抗心が存在したことは自分でも驚きだった。
自分の変化に困惑する中で、私はようやく気づく。ロウラントだからこそ、こんなにも心乱されるのだと。私にとってロウラントは――いや、ランディス皇子だったときから、ずっと彼は特別な存在だったのだ。
少年時代のランディスはすべてに秀で、誰にも媚びる必要がない孤高の存在だった。幼い私が垣間見たのは、仲の良いイヴお姉様やスウェンお兄様と遊んでいても、時々彼方を見つめるようなランディスの姿だった。おそらく何気ないやり取りや会話の中で、姉弟たちと自分との違いに疎外感を感じていたのだろう。
優秀さと異質さから培われた彼の価値観は、きっと他人に理解することは難しい。私とは真逆の存在でありながら、彼もまた孤独だったのだ。誰も理解者にはなれない。誰の唯一無二にもなれない。とても遠くて、とても似ている存在。だからこそ惹かれたのだ。
そんな彼と同じ場所に立ちたい、私だけをその瞳に映してほしい、身も心もそのすべてを私に捧げてほしい。そのたぎるような渇望がもう恋であることは、鈍感な私でも認めざるを得なかった。《ひきこもり姫》の初恋が完全無欠の皇子とはなんとも皮肉な話だった。
明日中に完結予定です。あと二話の更新となります。