170、ランディスとディア2
ランディスとのやり取りを思い出し、私は十年経っても鎮火しない、自分の中でもやもやと燻り続ける感情を知る。あの得も言われぬ惨めさは、きっと誰にも理解できないだろう。私をよく知るフレイでもだ。
「……とにかく、たいしたことではないからフレイは心配しないで」
「はい……それでしたら、本日の面会は大丈夫でしょうか? そろそろコレル男爵がいらっしゃる時間になりますが……」
あっさりと話題が変わったことに、私は密かに安堵した。
「適当に待たせておけばいいわ。……どうも気乗りしないのよね」
いっそ仮病でも使おうかしらと、私は本気で考える。フレイは困ったように眉を寄せたが、私がまるで急ごうとしない様子を見て、「少し失礼して、外の様子を見て参ります」と告げ去って行った。
コレル男爵たちに気を遣うことないのにと、私はフレイの後姿を見送りながら思う。男爵にしろ、新しい従者とやらにしろ、どうせあと一年程度の付き合いだ。
来年の今頃には皇太子が確定する。そうなれば私は宮廷から完全にお払い箱となり、母やフレイが子供時代を過ごしたレイローグ女子修道院で暮らすことになるだろう。
皇太子はおそらくイヴお姉様、もしくはミリーに決まるはずだ。どちらにしてもこのルスキエ帝国は、遠くない未来に女帝により統治されることになる。
私はふと思う。私にとって姉妹が皇太子に成ろうと、すべて予定調和にしか過ぎないが、その知らせを聞いた時、彼ならばどういう感情を抱くのだろうと。かつて完全無欠と言われ、もっとも帝位に近いとされていた皇子。あのランディスでも悔しさや惨めさに、歯噛みすることがあるのだろうか。
あの誕生会から一年後、ランディスは突然北の大国ドーレキア王国に遊学へ行ってしまった。まだ選帝期間まで時間はあるとはいえ、将来を考えれば宮廷を離れる有利は少ない。様々な憶測が飛び交ったが、誰にも真実はわからなかった。
その後ミリーの母アンフィリーネ皇妃が突然この世を去るなど、不穏な出来事はあったが、ランディスのいなくなった宮殿で私は一時の平穏を得ていた。
まず母の親友であったという、元修道女見習いのフレイが私の行儀作法の指南役としてやってきた。優しくいつも穏やかなフレイは、母とはこういうものなのだろうかと思い描く人物そのものだった。
さらに自分の離邸に住まうことも許された。先に巨大な離宮をもらっていたイヴお姉様に比べれば、ずいぶんささやかな住まいだったが、騒がしいことが苦手な私には十分だった。正宮殿と違い出入りする人は少なく、わずらわしい話題が耳に入ってこなくなったこともうれしかった。
母を亡くしたばかりの幼いミリーは人恋しいのか、私によく懐いてくれた。小さな妹の存在は、誰にも必要とされてこなかった私の心の癒しとなった。
しかし、ささやかな平穏はほんの一瞬のことに過ぎなかった。
それはいつの頃からだったろう、まるで歯車が噛み合わなくなったように、私はあらゆることの精彩を欠いていった。元から優秀な兄弟姉妹たちに比べれば、覚えがいい方ではなかったが、時間を掛け努力さえすれば、勉学も楽器の嗜みもそれなりにこなすことができたはずだった。
それなのに数年前から、頭に霞がかかったように考えがまとまらず、ひどいときには意識を失ったように、周囲の呼びかけが聞こえなくなる時もあった。頭で考えずとも、手先で覚えているはずの楽器も弾けなくなった。
医者に相談すべきかとも思ったが、もし病が発覚すればいよいよ宮廷に残ることは難しくなる。その時はまだ選帝会議後も宮廷に残り、兄や妹と共に暮らしたいという望みがあった。
そのささやかな希望すら打ち砕かれたきっかけは、ある貴族の屋敷で開かれたお茶会での出来事だった。
お茶会でひさしぶりに顔を合わせた妹は、早々に「早く帰れ」と促してきた。意地を張ってその場に残ったが、あまりの愚鈍さに貴族の子女たちから笑いものにされたあげく、妹からは居ない者のように扱われた。
当時のミリーはまだ十歳だったが、普通なら十五歳くらいで終える勉学の基礎課程をすでに終え、年上の兄姉にも負けぬくらいの聡明さを見せ始めていた。私が漫然と日々を過ごす中、彼女はもう無力な幼子ではなくなっていたのだ。不出来な姉など、もはや恥としか思えなかったのだろう。
離邸に戻ってきた私は、困惑するフレイに今後は兄弟姉妹との面会を一切断るように告げた。もう宮廷に自分の居場所がないのは明らかだった。可愛がっていたはずの妹には必要とされず、面倒見のいい兄の足を引っ張る存在でしかなかった。
同母の兄であるスウェンお兄様は、いつも私のことを気にかけてくれるが、彼は今、騎士団で正騎士に取り立てられたばかりで重要な時期だ。今後は宮殿にいることは少なくなるし、何より騎士として出世しなければ、私と同様に後見人を当てにできない彼も、宮廷に残ることは難しくなる。私などを気にかけている場合ではないのだ。
私はその晩泣き明かしながら、自分の限界を悟った。そして父から継承権を放棄する許しを得ようと決めた。そしてフレイと共にすぐにでも修道院に向かおうとも。どうせ遅かれ早かれ行き着くことになる場所なのだから、せめて潔く自分の足で赴き門を叩こうと考えたのだ。
しかし私はその時、なぜか唐突にあの兄とも思えない、ランディスのことを思い出した。美しいあの少年は、遠く離れた北の国で青年への過渡期にいるはずだった。きっと知性と武勇に磨きをかけ、さらに近寄りがたい存在になっているだろうと想像できた。
この時から、すでに各陣営が選帝会議に向けた動きを見せつつあった。そろそろランディスもドーレキアから戻ってくるはずだった。
ランディスを慕う気持ちなど微塵もなかったが、成長した姿には少し興味があった。女子修道院に入れば、姉妹はまだしも兄たちとは簡単には会えなくなる。それに一応は兄妹であるのに、挨拶もなしに旅立つのは、いくらなんでも素っ気なさ過ぎる。せめて最後に一度だけ、その思いが私を宮廷に留めた。
だが事態は、数か月後に想定もしない悲劇に見舞われる。
私にとって三番目の兄ユイルヴェルトが、ドーレキアから帰還したばかりのランディスに重傷を負わせ、自身は火に巻かれ亡くなったとの知らせが入った。
ユールお兄様は私と年齢が近く、成長してからは接点は薄くなってしまったが、幼い頃は時々遊んだ仲だった。上の三人とは違い、穏やかな気質の彼には近しいものを感じていた。しばらく顔も見ていなかったとはいえ、すぐ上の兄の死は私に深い悲しみと衝撃を与えた。
間を置かず、さらなら悲劇の知らせが私の元にもたらされた。火事のせいで不具となったランディスは、継承権を放棄することになったのだ。
思いがけず、二人の皇太子候補が同時に失われたことで、私は継承権放棄を申し出る機会を失った。しかし、自分でもよくわからぬ深い喪失感に囚われていた私は、何もかもがどうでもよくなってしまった。
そして現在、ユールお兄様の事件から四年が経った。選帝会議を一年後に控えていた私だったが、世間からは《ひきこもり姫》とあだ名されながら、宮廷の片隅でひっそりと怠惰な日々を送っていた。
こんな日々が選定会議の日まで続くのだろうと思っていた。しかし昨日まで想像もしていなかった現実が、今日突然舞い降りることを私はつくづく思い知らされるのだった。
お茶を飲み終わっても、フレイは帰ってこなかった。
何をしているのかしら、と不思議に思っていると、突然応接室の方から叩きつけるようなノックが響いた。苛立ちを隠さない、その無遠慮な叩き方に私は唖然とする。
この離邸に侍女はフレイしかいない。つまり皇女である私と直にやり取りができる人間は彼女しかなく、下級使用人がこんな風に私の部屋にやって来ることなどあり得ないのだ。何か緊急事態があったのだろうかと、椅子から立ち上がる。
――お待ちください!
フレイが切羽詰まったように叫ぶ声がした。同時に扉が開く音が響き、隙間を通じて、冷えた空気が寝室の足元に流れ込む。
誰かがこちらへと向かってくるのがわかった。フレイとは明らかに違う足音や金属音に、すぐにその侵入者が男――それも剣を携えているとわかった。今度はノックもなしに寝室のドアが開けられる。
私に身を隠す暇はなく、椅子の背を握りしめたまま、身を縮ませてうつむくくらいのことしかできなかった。私の存在を確認した侵入者は、一拍置いた後、まるで悪びれない堂々たる足取りで私の前へとやって来た。
床を見ていた私には、その人の足元しか見えなかった。曇り一つなく磨かれた黒いブーツと、想像通り帯剣していたようで、美しい銀の装飾が施された鞘の先が目に映る。
「――カレンディア皇女殿下におかれましては、ご機嫌麗しく存じます」
頭のだいぶ高い所から降ってきた声には温かみの欠片もなく、慇懃無礼のお手本のようだった。